第三章:「冬の手紙」

私は冬になると、窓の外を見る時間が長くなる。

雪の降る音を聞きながら、ぼんやりと過去のことを考える。記憶は雪のように、少しずつ積もっていく。そして、少しずつ形を変えていく。

手紙を受け取ってから、半年が過ぎていた。大学二年の冬。私は授業の合間に、よくあのカフェに通っていた。彼に似た背中を見るために。でも、ある日から彼は姿を見せなくなった。バイトを辞めたのかもしれない。

私はようやく決心した。あの古書店へ行くことを。


電車に揺られながら、私は昔の地図を広げていた。三年以上前の記憶を頼りに、駅からの道順を確認する。

「この辺りだったはず……」

三枝晃——。彼の名前を心の中で呟くと、まるで言葉に実体があるかのように、私の胸が温かくなる。不思議だ。彼のことを考えるのは、これが何度目だろう。

電車の窓に頬を寄せると、冷たいガラスが私の肌を包んだ。外の景色が、徐々に見慣れた風景に変わっていく。昔、私が暮らしていた町。古い駅舎、なじみのある商店街。小学校の屋根が見えた。

全てが、変わらないようで、どこか違っていた。


古書店があったはずの場所は、更地になっていた。

「え……」

私は立ち止まり、住所を再確認する。間違いない。ここが確かにあの場所なのに、建物はもうなかった。

寒風が吹きすさぶ空き地の前で、私は途方に暮れた。何のために来たのだろう。何を期待していたのだろう。三年前の手紙を持って、三年前の約束を果たそうとして。それがどれほど滑稽なことか。

「お嬢さん、何か探しものかい?」

声をかけられて振り向くと、年配の男性が立っていた。近所の住人だろうか。

「ここに、古書店があったと思うのですが……」

「ああ、『風景堂』のことかい。残念ながら、去年の夏に閉店しちゃってね」

「そうですか……」

私の声が、風に消えていく。

「もし良かったら、店主に会ってみるかい?彼なら何か知っているかもしれない」


その男性の案内で、私は近くのアパートを訪ねた。ドアを開けたのは、覚えのある老人だった。店主だ。

「ああ、君は……」

「覚えていてくださるんですか?」

「もちろん。あの雨の日の女の子だろう?あの学生と一緒にいた」

店主は微笑んだ。彼の部屋は、まるで小さな図書館のようだった。壁一面に本棚。古い本の匂いがする。

「実は、こう——三枝晃という人を探しているんです」

老人の目が、少し悲しげに曇った。

「ああ、あの学生か……」

彼はゆっくりと立ち上がり、棚から一枚の新聞の切り抜きを取り出した。

「これを見てほしい」

それは一年前の地方新聞だった。小さな事故記事。見出しには「若者が児童を救い、自らは重傷——地元の英雄」とある。そして、その写真に写っていたのは——

「晃……」

名前を読み上げる私の唇が、震えていた。

「彼は去年の夏、通学中の子供を助けて、自分が車にはねられたんだ。すぐに病院に運ばれたが……」

老人の言葉が、遠くなっていく。私の耳には、もう何も聞こえなかった。世界が、音を失っていく。

「彼は……死んだの?」

やっと言葉が出た時、老人は首を横に振った。

「いや、一命は取り留めた。けれど、意識が戻らない。今も入院しているよ」

昏睡状態——。私の胸に、言葉にならない感情が広がった。

「そういえば」と老人は言った。「彼、君宛ての手紙を書いていたよ。店の閉店の時、棚の奥から見つけてね。ちょうど取っておいたんだ」

老人は引き出しから、黄ばんだ紙を取り出して私に手渡した。

それは、書きかけの手紙だった。


『瑠璃へ

これを書いているのは、高校卒業の二ヶ月前。窓の外は夏の日差しが強い。お前は今頃、何をしているだろう。

俺は大学に行かない。家の事情もあるけど、それだけじゃない。俺にはまだ、行きたい場所が見つからない。

あの日、古書店であなたに勧めた本、覚えているか?タイトルは「忘れられた風景の中で」。その本に書かれていた言葉で、ずっと心に残っているものがある。

「私たちは風景の中に存在するのではなく、風景そのものなのかもしれない」

あの時は、この言葉の意味がよく分からなかった。でも今は少し分かる気がする。人は風景の一部で、風景もまた人の一部なんだ。俺たちが過ごした時間も、この町の風景も、全部繋がっている。

だから、もし俺がどこかで立ち止まっても、お前は自分の道を歩いてほしい。お前の見る風景の中に、俺がいなくても——俺の見る風景の中には、いつもお前がいる。

それが、俺が手紙を書く理由かもしれない。』


私は手紙を胸に抱きしめ、涙が頬を伝うのを感じた。

「どこ……彼はどこにいるの?」

老人は病院の名前を教えてくれた。私は急いで駅に向かった。しんしんと雪が降り始めていた。


病室のドアを開けると、そこには見覚えのある横顔があった。眠っているように、彼は静かに横たわっていた。窓の外は、もう日が暮れていた。部屋の隅では、白いマフラーをした女性が立ち上がった。

「あの、どちら様……?」

「高橋 瑠璃です。晃くんの、中学時代の同級生で……」

「あら、瑠璃ちゃん!晃がよく話していたわ」

彼女は晃の妹だった。小学生だった彼女も、もう高校生になっていた。

「お兄ちゃん、ずっと寝てるの。でも、きっと起きる日が来ると思って……」

彼女の声には、強い信念があった。

「お医者さんは、聴覚は機能してるって言うの。だから、話しかけてあげて」

妹さんは、そう言って部屋を出ていった。

私は彼のベッドの横に座った。窓の外では雪が静かに降り続いていた。病室の電灯が一つ切れていて、部屋は薄暗かった。

「晃くん……私、手紙を読んだよ」

私の声は、小さく震えていた。

「二通とも。あなたが、手紙を書く理由……私、知ったよ」

私は彼の手を取った。冷たくて、でも確かな温もりがある。

「私も、あなたへの手紙を書くよ。今度は私が」

窓の外の景色が、雪に白く染まっていく。彼の名前を呼びながら、私は静かに泣いていた。手紙に滲んだ名前のように、私の心も彼の名前で満ちていた。


季節はまた春に戻り、私は新しい学期を迎えていた。

引っ越した先の部屋の窓からは、違う景色が見える。新しい町、新しい生活。だけど、毎週末、私は電車に乗って彼に会いに行く。

「今日も大学のことを話すね」

目を閉じた彼に、私は一日の出来事を話す。手紙のように、一つ一つ丁寧に。

医師は「いつ目覚めるかわからない」と言う。けれど、私は待つことにした。彼が手紙を書いた理由を知ったから。

彼の言葉通り、私は自分の道を歩いている。彼の見ていた風景を大切にしながら。そして、彼もいつか目を覚まし、新しい風景を見ることができると信じている。

私が彼の手を握ると、なぜだか今日は少し暖かく感じた。気のせいかもしれない。でも、きっと気のせいではないと思いたい。

桜の花びらが、また窓の外を舞っていた。春の風は、まるで手紙の余白みたいに静かだった。誰かがそこに言葉を書こうとして、まだ書ききれていないような——そんな、可能性の匂いがした。

(終)

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君が手紙を書く理由を、僕はまだ知らない。 syu3 @HATIMAN1228

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