エアステ・リーベ hajimete no koi

西しまこ

初恋

「ある日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた」


 先生の言葉をバックミュージックに、私はそっと窓の外に目をやった。

 窓側の席は好き。体育をしているあの人を見ることが出来るから。

 青空の下、体育をしている生徒たち。空は青くて、まるで青い光がグラウンドを包み込んでいるよう。ブルーのハーフパンツに白いシャツ。今日は一五〇〇メートル走だ。

 見つけた!

 あの人だ。

 走り終え、顔の汗を白い体操着の襟ぐりを伸ばして拭いている。なんかいい。

 雨の気配など一滴もない青い空の下で、あの人が友だちと笑い合っている。


「この平安朝の下人のSentimentalismeに影響した」


 センチメンタル。感傷的。

 私は彼のことを目で追う。目の端で捉える。いつも。

 正面の顔は見たことがない。

 陸上部で走るあの人を見て、勝手に憧れているだけ。

 彼が走る姿を見たら、胸が締め付けられた。なぜだか涙が滲んだ。こんな気持ちは初めて。

 さらさらの前髪が、走ると後ろに流れて額が光る。走る風に乗っているかのような脚の動き。宙を駆けているよう。――ずっと見ていたい。


「下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した」


 彼がまた走り出す。真剣な顔をして。気持ちよさそうに。

 ――この気持ちは何だろう? ……好き?

 好きなのだろうか、私は。あの人のことを。こっそりと見ているだけの、話したこともない彼のことを。

 好きって何だろう? 好きなケーキ、好きなアニメ、好きな色、とかなら分かる。

 ……それよりも、ずっと甘くて心が震えるような、涙が出るような、好き。

 グラウンドをじっと見る。すると、ふいに彼が私の方を見た――目が合った? 

 心臓が高鳴る。息が止まりそう。

 私は教科書に目をやった。目が合った、なんて、きっと気のせい。でも。


「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである」


 グラウンドは太陽がたっぷり降り注ぎ、青く、光る。白い体操服が眩しい。

 光の中を駆け抜ける脚。ダンスしているよう。――あの人は?

 いた。

 走り終わって、グラウンドに座りながら友だちとしゃべっている。笑いながら。

 彼はどんな声だろう? 聞いてみたい。

 今度、もう少し近くで見てみたい。

 声が聞こえるくらいの場所で。

 それから、思い切って声をかけることが出来たらいい。

 青空が似合うあの人はどんな表情で私に応えてくれるだろう?


         


                   了




*引用『羅生門・鼻・芋粥』芥川龍之介(角川文庫)

 「羅生門」P36、P38、P46 

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