終章 祈りの残響

 火のふところが崩れ落ちたあと、空は静かに晴れていた。

 裂けていた空は繕われ、世界はかすかな風の音だけを残していた。

 

 焦げた大地に立っていられる者はもういなかった。

 セイ・リンは崩れ落ちるように膝をつく。

 火装かそうの表面に走っていた《蒸気律脈管》は焼け落ち、

 《祈符刺繍》は燃え尽き、繊維は裂けていた。

 もはやそれは、祈りを保つ装束ではなかった。

 

「……もう、動けないのね……」

 

 残骸と化した火装から、薄く白い蒸気が漏れ続けていた。

 装束そのものが限界だったのではない。

「祈りを捧げるための身体」という役目を、装備ごと終えていたのだ。

 

 セイ・リンは静かに立ち上がった。

 その身を包む《火装》から、蒸気がかすかに洩れていた。

 焼け焦げた祈符が剥がれ、律脈管が音を立てて軋む。

 

 彼女は手を伸ばし、留め具に指をかける。

 ひとつ、またひとつ。外されるたびに、装束はゆっくりとその形を失っていく。

 そして最後の締環を解いた瞬間――

 

 ゴトン――。

 

 蒸気機構と錬金合金を縫い込まれた火装が、重く地に沈んだ。

 祈りの鎧が役目を終えた音だった。

 その上で、胸元に下げられていた銀の《感鈴》が、**カラン……**とひときわ澄んだ音を響かせた。

 まるで「終わり」と「始まり」の合図のように。

 

 彼女は祈らなかった。

 神にではなく、誰にも向けず、ただ一滴の涙を地に落とした。

 

  

 

 その沈黙のなかで──チリ……と風に揺れる鈴の音が、確かに響いた。

 

 幻ではなかった。

 ユエの“心の音”が、まだ彼女の中に残っていた。

 

 燃え尽きたはずの世界に、

 まだ──小さな火が、生きていた。

 

 その夜、セイ・リンは巫女装束を脱いだ。

 《火装》も、《祈炉》も、それを纏うことがもう無意味だと思ったから。

 その手が装束を解くたび、彼女の心は少しずつ軽くなり、同時に重くなった。

 自分を縛りつけていた全ての枷を外すことで、今度はその“解放”が背負うべきものとなることを、彼女は感じていた。

 

 ただ“祈りたい”と願う者として。

 それはもう、神に許しを乞う祈りではなかった。

 

 誰かの心に、そっと火を灯すような祈り。

 名前も、理由もいらない。

 ただ「ここにいてほしい」と伝える温度。

 

 答えを求めるのではなく、

 答えに向かう力を、手渡すための祈り。

 

 それは応援でもあり、共鳴でもあった。

 痛みを否定せず、光を押しつけず、

 ただ「隣にいるよ」と火を分け合うこと。

 

 そうしてセイ・リンは祈る者となった。

 制度の中の巫女ではなく──

 誰かと、心を燃やす者として。

 

 その決意が、すぐに現実の壁にぶつかることは分かっていた。

 巫女庁は彼女のような存在を、決して受け入れることはないだろう。

 だが、それでももう、振り返ることはできなかった。

 

 “巫女庁は、いつからこんなにも冷たくなったのだろう”

 

 彼女はその疑問を抱きながら、脱ぎ捨てた火装を見つめていた。

 かつては“神のため”に、“神に仕える”ために捧げられていた祈り。

 けれど今、火装に込められたのは“祈り”そのものではなく、命令に従うための枷だった。

 “火装を纏うことは、命を削ること”──それは、もはや「神の意志」を実現するための装置に過ぎなかった。

 

 セイ・リンの思考は続いた。

 巫女庁、その運営方法。

 心鈴の巫女たちが心を通わせず、祈りが無力化され、政権に取り込まれたその姿。

 そして、上層部が祈りを“管理するもの”にしたこと。

 

 彼女は目を閉じ、ふと口に出してみた。

「わたしは、神ではなく、ただ祈りを捧げたいだけ」

 

 その瞬間、彼女はその決意を心の奥深くで確信した。

 しかし、その決意が現実の中で試される瞬間がすぐに訪れることも知っていた。

 

 そしてその予感が、すぐに形となった。

 巫女庁の高壁が、彼女の前に立ちはだかった。

 “火神の器”として、引き返すことを許さない運命が待っていた。

 

「セイ・リン、戻れ」

 巫女庁の声が響く。

 それは、長老巫女“火輪”の声だった。

 彼女の目には、神の命令が絶対であり、祈りもまた神のものとして捉えられていることが見て取れる。

「神に仕える者が、勝手にその身を引けると思っているのか」

 

 その言葉に、セイ・リンは一瞬、息を呑んだ。

 だが、その心の中にはもう迷いはなかった。

 

「祈りは、命令で捧げるものじゃないわ」

 彼女は静かに言った。

「神の命令で動く巫女ではなく、誰かのために祈る者として、わたしは生きる」

 

 その言葉に、火輪の顔にわずかな怒気が走った。

 

「何を言うのか!」

 火輪は怒声を上げる。

「神の使いである以上、祈りは“神に捧げる”ものでなければならない! お前が何を言おうと、火神の命に背いてはならぬ」

 

 セイ・リンは深く息を吸い込み、冷静に答えた。

「その祈りは、もはやわたしのものではないわ」

「それならば、あの子たちを救えなかったわたしが、“神の使い”ではないというのですか?」

 

 その瞬間、巫女庁の内部で一瞬の静寂が広がった。

 そして、その静けさを破るように、激しい熱気が彼女を包み込んだ。

 神殿の香が消え、鈴の音も途切れ、火が揺れない。

 セイ・リンの内から溢れ出した祈りの力が、すべてを圧倒し始めた。

 その祈りは神殿を、巫女庁を、そしてその支配するものすべてを揺るがす。

 

「火に近づきすぎて、祈る資格を失ったのは……あなたたちよ」

 セイ・リンの声が響く。

 その一言で、空間は歪み、神殿の構造が崩れ始めた。

 神の意志を掲げていた者たち、巫女庁の機構そのものが、激しく揺れた。

 鈴堂が崩れ落ち、香塀が崩壊し、巫女たちはその圧力に耐えきれず崩れ落ちた。

 神の声は消え、ただセイ・リンの祈りだけが、残った。

 

「神を求めたのは、もうお前たちの祈りではない」

 セイ・リンの目は、その先にある“今”を見据えていた。

「私の祈りは、神に捧げるためではない。誰かのために、ただ捧げるもの。それが“祈り”として、ひとりでに燃え続けるように」

 

 その瞬間、神殿が崩れ、巫女庁の支配が終わる。

 そこには、セイ・リンの新たな祈りが灯ることだけが確かな未来だった。

 

 

 

 

 数日後、彼女は一人、旅に出た。

 

 かつて火喰いに焼かれた地──誰も信仰を持たず、空を見上げない場所。

 彼女はそこに、小さな焚き火を一つずつ灯していった。

 

 名を尋ねず、涙を問わず、ただ火を。

 

「これは神に捧げるものじゃない。

  冷えた心に、少しでも温もりが届けば、それでいいの」

 

 夜、人気のない丘の上で、セイ・リンは焚き火の前に座っていた。

 火は弱くとも確かに燃えていた。彼女の手で灯した、小さな祈り。

 

「……君の声が、いまも胸の奥で燃えている」

 

 風がそっと吹き、鈴の音が重なる。

 そして──

「……灯し方、もうわかったでしょ?」

 

 懐かしい声が、心の奥にやわらかく響いた。

 

 セイ・リンは微笑み、そっと頷く。

 

「ええ。でもね、まだ──燃やしていない想いがあるの。

  誰かを想ったまま、置き去りにした言葉や、

  伝えられなかった祈りが……私の中に、まだたくさん残ってるの」

 

 火がゆらりと揺れ、闇の中で小さく光を押し返す。

 

 祈りはもう、“誰かのため”だけじゃない。

 自分の奥に残った火種を、ちゃんと灯していくためのもの。

 そして、その光が、きっと──また、誰かの道しるべになるから。

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火喰いの都と無垢なる鬼神 自己否定の物語 @2nd2kai

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