第三章 火の胎

 赤黒く脈打つ大地が、呻くように熱を吐いていた。

 空は裂け、炎は咆哮のように渦巻く。そこは異界の最深部――“火のふところ”。

 

「……ここが、神の“心臓”……?」

 

 セイ・リンは唇を噛んだ。

 火装かそうの内側で、律脈管が蒸気を送り出す。微かな香の脈動が、祈りのリズムを整えてくれる。

 それがなければ、正気を保てないほど、この空間は熱と声に満ちていた。

 

  

 

「感じる……祈りじゃない。これは……嘆き……」

 

 ユエが静かに立つ。

 

「全部……誰かの“祈りの残骸”なんだ。

  でも、まだ燃えたがってる。まだ、消えてない……」

 

  

 

 島の中心に、黒曜石の神殿が浮かんでいた。

 その奥で、神が目覚めかけていた。

 

  

 

  

 

 ──神殿が、息を吐いた。

 

 空間が軋む。

 風ではない。

 それは、“意志”だった。

 

「誰が祈った?」

 

 その問いに、セイ・リンの膝が折れる。

 火装が自動で冷却を開始し、彼女の心拍を下げようとする。

 けれどそれ以上に、精神が焼かれていく。

 

「誰が、捧げた?」

 

  

 

 ユエが片膝をつく。

 心眼が開きすぎて、見えすぎていた。

 燃え尽きた声、焼かれた記憶、捧げられた命。

 

  

 

「……わたしが祈った……あの子たちを、神に……」

 

 セイ・リンが立ち上がる。

 火装の霊圧調律弁が、彼女の呼吸に合わせて開閉する。

 だが、圧は高まり続ける。これ以上は──

 

  

 

「だから、燃えるべきは……わたし……」

 

  

 

 火の胎が軋んだ。

 神殿の奥──黒く脈打つ“核”が、最後の裁きを下そうとしていた。

 

 その怒りは、祈りという名で捧げられ、命を焼いた巫女たち全てに向けられていた。

 

 セイ・リンは一歩、神の中心へ踏み込んだ。

 火装かそうが悲鳴を上げる。耐熱層が焦げ、継ぎ目の蒸気管から白い息が噴き出した。

 香鋼の内管がひび割れ、祈導灯が不規則に明滅する。

 

 ──限界だった。

 この装備は“祈りを支える鎧”であると同時に、“命を燃やす炉”でもある。

 彼女の歩みは、神の意志に抗う唯一の意思だった。

 

  

 

「待って!」

 

 ユエが叫ぶ。

 

「僕が行く。僕の中には、君の祈りがあるから」

 セイ・リンは振り返り、目を見開く。

 

「私が選んだ祈りよ。あなたまで、焼かせない」

 

  

 

「それでも、僕は……誰かの声を、聞いてしまう」

 

 ユエの瞳が、赤い光に染まっていた。

 その奥には、無数の祈りの残響が燃えている。痛み、怒り、孤独、祈り。

 

「だから僕が、“器”になる。

  この火の胎に留まって、神と一緒に眠る。

  もう、誰の祈りも燃やさせない」

 

  

 

「ユエッ!」

 

 セイ・リンは駆け出す。

 

 だが、火装の《蒸気律脈管》が異常加熱で破裂し、祈符刺繍が一斉に発火した。

 背中の冷却装置が悲鳴を上げ、彼女の足は熱に沈んだ大地に縫いつけられる。

 

  

 

「……ここから先は、火装でも保てない……?」

 

 声はかすれ、視界は揺れていた。

 

 ユエの小さな背が、ゆっくりと赤の奥へ消えていく。

 火に喰われるのではない。火を引き受けて、そのまま溶けていくように。

 

  

 

「ダメ……行かないで……っ!」

 

 手を伸ばすことすら叶わない。

 祈りのセイ・リンでは、届かない領域。

 そこは、火を視る者──《火眼》にしか踏み込めない場所だった。

 

  

 

 ユエの歩みは止まらなかった。

 何の装備もなく──けれど、彼には“声”があった。

 祈りを“火”として視る、その眼があった。

 

  

 

 彼の中に、炎が静かに吸い込まれていく。

 

 心鈴共鳴核は鳴らない。

 かわりに、セイ・リンの感鈴かんれいが、ひとつだけ音を鳴らした。

 

 ──カラン……

 

 清らかで、やさしい音だった。

 

  

 

「……もう、大丈夫だよ」

 

 ユエが笑う。

 その輪郭が、火の光に包まれていく。

 

「君の祈りが、やさしかったから。僕は嬉しかったんだ……」

 

  

 

 セイ・リンは、ただ、手を伸ばした。

 

「ユエ……」

 

 けれど、もう届かない。

 

  

 

「ごめん……でも、ありがとう」

 

 その言葉とともに、火の胎が閉じていく。

 

  

 

 ──神の裁きは止まった。

 燃やすための祈りは、もう終わった。

 これからは、人が“誰かのために祈る”世界が始まる。

 

 

 

 

  

 

 ──こうして、神は静かに眠りに還った。

 祈りはもう、神に捧げるものではない。

 人が人に火を灯すためのものとして、生まれ変わった。

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