第二章 火の影
焼け跡を抜けた先――そこは、空間の理が崩れていた。
焦土の地面が、ゆらり、と歪む。
見上げれば、空の代わりに茜色の水面が揺れ、微かな声がそこから垂れてくる。
「ここ……おかしいわ」
セイ・リンは足を止めた。
ほんの一歩前に出るごとに、風景が変わってゆく。
黒焦げの地に花が咲き、次の瞬間には、古びた木造の廊下。誰かの記憶の匂いがした。
「……ここ、僕の“中”かもしれない」
少年は呟いた。その声は空気に溶けて、どこにも届かないように響いた。
セイ・リンは歩みを止める。彼の足元で、焦げた地面がわずかに揺れていた。
まるで、彼の内面がこの空間を支配しているかのように――風景が軋み、空が軋む。
「……あの……」
声をかけようとしたその時、少年の目が虚ろに揺れた。
焦点が外れ、何かと繋がってしまった瞳。心眼が暴走しかけていた。
「やめて……そんなに、苦しそう……」
セイ・リンの声に反応するように、少年は眉をひそめ、そして突然、叫んだ。
「うるさい……! 誰の声? 誰の願い? 僕は、誰の“器”なの……?」
彼は耳を塞ぎ、頭を抱えた。
見えない声が聞こえる。色が溢れる。音が突き刺さる。
火のような怒り、氷のような絶望、海のような祈りが、彼を壊そうとしていた。
セイ・リンは慌てて手を伸ばす。
「やめて……! あなたの声、ちゃんと……!」
「聞かないで!!」
少年は振り返らず、セイ・リンの手を振り払い、歪んだ景色の奥へ逃げていった。
幻のような風景のなかへ、心ごと飲み込まれるように。
「待って……! わたしは……あなたの声を……」
言葉は途中で途切れた。手は空を掴むばかりだった。
彼の立っていた足元に、小さな“数珠”が転がっていた。
焦げた地面の上で、わずかに銀糸が光っていた。
セイ・リンはそれをそっと拾い上げる。
「……これは……あの子の、祈り?」
それは、誰かのために祈る者が身につける、願いの護符。
本来なら、祈りの強さを結晶として記憶に留めるための道具だった。
けれど、彼は──あの少年は、それを手放していた。
契約のとき、無意識に。いや、きっと、意図して。
“誰かのために燃える器”であることに、もう耐えられなかったのだ。
彼は見えるふりをして、平気なふりをして、誰にも触れられないようにしていた。
その鎧のような数珠を外すことで、ただ“自分の声”を守ろうとした。
セイ・リンの胸が、きゅっと締めつけられた。
「あの子は……誰かを燃やす器なんかじゃないのに……」
彼女の指が、数珠を強く握る。
その瞬間――世界が、音もなく反転した。
炎の熱も、焦げた空気も消えていた。
代わりに、静かな気配と、幼い祈りの残響だけが広がっていた。
そこは、彼の“心”の中だった。
*
そこは、誰もいない部屋だった。
床に膝をつき、小さな背中が炎に向かって祈っている。
「お願い……僕を燃やして。誰でもいいから、代わりに生きてよ……」
幼いユエの声。
その言葉に、セイ・リンの胸が締めつけられる。
彼女は自分の中にも、同じ祈りを見つけてしまう。
「どうか誰かを助けて。そのためなら、わたしはいらない」
――それが、ずっと彼女の祈りだったのだ。
*
セイ・リンは膝をつき、少年に手を伸ばした。
「……わたし、神さまに祈るより……あなたの声を聞きたい」
静かに、けれどはっきりと。
その言葉が、赤い空に染み込むように響いた。
少年の体が、微かに揺れる。
虚ろだった瞳に、かすかな焦点が戻る。
「……君は……僕の“声”を信じてくれたの?」
セイ・リンは頷いた。
そして、そっとその手を取る。
「あなたの中にある混乱も、叫びも、痛みも──全部、視てる。
さっき交わした契約の火は、まだ残ってるのよ。
でも……揺らいでた。あなたの心が、いまにも燃え尽きそうで」
少年は、少しだけ顔を伏せる。
幼い頃、ユエはずっと“聞こえていた”。
孤児院の暗がりで、誰かが泣いていた。怒鳴り声、嘘、悲しみ、恐れ──すべてが色や音になって、彼の中へ流れ込んだ。
「気味が悪い」
「また、空想で遊んでる」
子どもたちは彼を避け、大人はその感受性を「病気」だと切り捨てた。
何度も耳を塞ぎ、目を閉じ、心の扉を閉ざした。
“視ない”“聞かない”“感じない”──それが、彼が選んだ生き残り方だった。
だから今も、誰かと心を結ぶことは、恐怖に等しかった。
けれど、そのセイ・リンの祈りは……彼の中に火のように灯っていた。
消せないまま、静かに、けれど確かに。
ユエは視線を落とし、手のひらをそっと握りしめた。
その温もりが、まだ胸の奥に残っている気がした。
「……それって……もう一回、契約するってこと?」
「いいえ。契約は、もう結ばれてる。
これは“祈りを繋ぎ直す”の。火が消えかけてるなら、また灯すだけ」
セイ・リンは微笑んだ。
「あなたが“視て”くれるから、わたしは祈れる。
そして、わたしが“祈る”から、あなたは視えるのよ。
この契約は、どっちかだけじゃ成り立たないの」
少年はその手を、そっと握り返した。
「……あたためるだけ、でいいのかな」
「ええ。それが“火眼の契約”。
神じゃなくて、わたしたちが、互いの灯になるの」
そのとき、ふたりの間に再び“火”が揺れた。
静かに、けれど確かに――心が重なり、祈りが通じる音があった。
*
現実へと戻ると、世界は再び赤く沈黙していた。
けれど、セイ・リンの表情に迷いはなかった。
「もう神に許されなくてもいい。わたしは――あなたに祈る」
ユエは少し黙って、照れくさそうに笑った。
「……なんか、騒がしいけど……でも、それ、ちゃんと届いたよ」
その声は、かすかに震えていた。
けれど、それは確かに“受け入れた”証だった。
そしてその音は、不思議と心地よく、あたたかかった。
――終わりなき祈りの中に、新しい契約の火が、静かに灯っていた。
夜のような赤い空の下、ふたりは並んで座っていた。
焼け跡の風が止み、あたりは奇妙な静寂に包まれている。
それは嵐の後の静けさにも似ていた。
セイ・リンはまだ、ユエの手を握っている。
その手は少し汗ばんで、微かに震えていた。
「……ねえ、ユエ」
彼女はぽつりと呟く。
「火眼の契約って……いつも、こんなに痛いの?」
ユエは少し考えてから、首を横に振った。
「違うよ。契約は……本当は、静かで、あたたかいもののはずなんだ」
彼は、手の中の温もりを感じながら、少し視線を落とす。
「……昔、見たことがあるんだ。
“誰か”の記憶の中にあった、火眼の契約を」
「記憶の中?」
「うん。誰のものかはわからない。でも──
そのふたりは、お互いの声を、ちゃんと聞いてた。
言葉じゃなく、火で伝え合ってた。あれは……痛くなんてなかった」
セイ・リンはそっと目を伏せた。
その記憶は、ユエ自身のものではない。
けれど、祈りが祈りとして在るための“理想”を、彼は確かに見たのだ。
「じゃあ、どうして……こんなに……」
「たぶん、僕がずっと嘘をついてたから。
“見える”ふりして、“平気”なふりして……誰にも、触れられないようにしてた」
彼の声が、ふっと陰った。
「……昔、孤児院でね。
誰かの嘘を、聞きたくなんてなかったのに、勝手に聞こえてきて──
『お前、気味が悪い』って……石を投げられたことがあるんだ」
「……ユエ……」
「泣いてる子の心が、頭に突き刺さったこともある。
優しい言葉の下にある怒りが、色になって襲ってきたこともある。
だから、“視えないふり”をしたんだ。視えなければ、壊れずに済むから」
その小さな肩が、ほんのわずかに震えていた。
「……そうしないと、自分が燃え尽きそうだった」
セイ・リンは何も言わなかった。
ただ、その手を、強く、静かに握り返した。
「……わたしも、似てるの」
そう呟いた。
「たくさんの儀式で祈ってきた。皆の前で、神さまの前で。
でも……届いたって思えたことは、一度もなかったの」
「誰かのために祈ってるふりをして……本当は、ずっと“独り”だったのよ」
沈黙が流れる。
けれど、それは重苦しいものではなかった。
ふたりがようやく、同じ場所に立てた証だった。
「……火眼の契約は、祈りと記憶を交換する術」
ユエがぽつりと口にする。
「契約を深めるほど、“見える”ものが増えて、でも、“忘れていく”こともある」
「……それって、記憶が、燃えていくってこと?」
ユエは頷いた。
「祈れば祈るほど、誰かのために願えば願うほど、自分の“火”を使う。
記憶は燃料なんだ。だから……祈るたびに、何かを失っていく」
セイ・リンは静かに息をのむ。
それでも彼は続けた。
「祈りって、誰かを燃やすものだと思ってた。
でも、君のは……僕の心の奥で、あたたかく灯ったんだ」
その言葉に、彼女は初めて目を伏せなかった。
手を握り返し、そっと微笑む。
「だったら、わたし……何度でも祈るわ。あなたの火が消えないように」
ユエも微笑んだ。
ふたりの契約は、火のように揺れて、けれど確かに“灯って”いた。
──そして、次の層へと、風が動いた。
*
心象世界が崩れたあとも、あたりには灰が舞っていた。
それはただの塵ではなかった。ふわり、ふわりと漂うたびに、誰かの“願い”の残り香が鼻をかすめる。
ユエはしゃがみ込み、小さな“燃えかす”を手にとった。
それはかつて、誰かが祈った痕跡。焦げた紙のように脆く、触れただけで崩れていく。
「……これが、火眼の残響」
彼は低くつぶやいた。
自分の目が、“見てはいけないもの”に近づいている。
火に焼かれた祈り、諦め、怒り……そのどれもが、まだ燃え尽きていなかった。
セイ・リンは彼の隣に座り、そっと手を伸ばした。
「わたしたちが灯す火は、誰かの記憶の上に立ってる……」
彼女は灰を手に取り、優しく吹いた。
「でも、それでも」
「火を灯すことは、消してはいけないことなのよ」
ユエの指がわずかに震えた。
けれどその手は、灰の中からひとつの“光”を拾い上げる。
それはまだ燃え尽きていなかった、小さな灯。
彼はそれを、そっと胸元へしまった。
それはもう、誰かのために燃え尽きる火ではない。
彼が守ると決めた、小さな“希望”だった。
「……じゃあ、僕は燃やす側にいよう。ちゃんと見届けるために」
そのとき、風が止まった。
*
空気がねじれる音がした。
頭の奥に、ふいに“声”が走った。誰のでもない、誰かの“祈り”の残響。
——おまえの祈りは、誰のものだ?
ユエが立ち上がる。目が開いているのに、焦点が合っていない。
火眼が何かを捕らえている。けれど、それは人ではなかった。
天を仰ぐと、黒い裂け目があった。
そこから“火喰い”の影が覗いていた。
輪郭も言葉もない存在。ただ“声なき祈り”だけが染み込むように降ってくる。
——燃えろ。願え。すべてを火に変えろ。
「やめて……誰の声? ぼくじゃない……ぼくの祈りじゃない!」
ユエは耳を塞ぐ。でも、声は心の中に直接降ってくる。
そのとき、セイ・リンが彼の手を強く握った。
「これは、わたしたちの祈り。
神にくべるものじゃないわ──わたしは、あなたに祈る」
火喰いの影が一瞬揺らいだ。
空の裂け目はひとひら、閉じ始めた。
けれどそのとき、ユエは気づいていた。
──あれは、まだ目覚めていない。
──でも、もうすぐ起きる。
「……来るよ。次が、最後の火だ」
セイ・リンは、うなずいた。
その手はまだ、彼の指をしっかりと掴んでいた。
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