火喰いの都と無垢なる鬼神
自己否定の物語
序章 火の眼と神の骸
火の匂いが、村に降りていた。
焦げた木の皮、焼けた土、血の混じった煙──
それは災厄の匂いでありながら、どこか祈りに似ていた。
「この大陸では、記憶が火になる」
それは、この世界の祈りの仕組み。
強く願えば願うほど、心の中にある記憶が燃料となり、祈りが火となって顕現する。
それは焚き火にも、儀式炉にも、そして神の名を呼ぶ炎にもなる。
古の神々は、この火の祈りによって誕生した。
けれど、祈られすぎた神は壊れていく。
自我を焼かれ、役目を忘れ、災厄と化す──“火喰い”と呼ばれる骸へと堕ちる。
そんな神々を鎮めるため、この国は、火と祈りを管理する巨大な機構を築いた。
《
だが、巫女庁の聖都 《
技術と信仰が奇妙に絡み合いながら腐敗していた。
火力による蒸気機関は神殿都市を動かし、祈りを測定する計器が巫女の資格を定め、記憶を熱変換して燃料とする《
それは神を祀るというよりも、神を制御するための装置だった。
都市の空は黒煙で曇り、祈りは数字で管理される。
人々は感情を抑えて生きる。
なぜなら、ひとつの想いが、都市ひとつを焼き尽くす火になるからだ。
だからこそ、感情と祈りに触れる資格を持つ者──巫女だけが、
この火の国で“人間らしく祈ること”を許されている。
彼らは蒸気機構を縫い込んだ長衣 《
“火を鎮める”とは、記憶と願いを消し去ること。
神の骸を灰に還し、都市を守ること。
そのために、巫女は心を燃やす。
そして今──
また一柱、火喰いが目を覚まそうとしていた。
山の尾根に、一人の巫女が立っていた。
長衣 《火装》の裾が焦げた風に揺れる。
白布に縫い込まれた蒸気管は、脈のように彼女の熱を循環させていた。
胸元で《感鈴》がわずかに揺れ、異変の気配を鳴らしている。
彼女の名は《
《
──けれど、彼女は本来 《
※
「また“あの音”がしたわ」
「……あの子、誰の声でも泣くのよ。祈ってるんじゃない、“共鳴”してるだけ」
「神の声と人の声の区別もつかないのね。あれで《心鈴》? 笑わせないで」
その声は、甘く整った笑みの裏に潜む、鋭い針のようだった。
セイ・リンは振り返らない。ただ、胸の奥にそっと火種が刺さる感覚だけが残った。
《心鈴》──祈りの形式を学ぶ場。
そこでは整った髪、色布の装束、銀鈴の音……
「美しさと清らかさ」こそが祈りとされた。
だがセイ・リンの祈りは、違っていた。
誰かの涙に反応し、名もない痛みに揺れる。
心に触れすぎるその祈りは、規範から逸れた“歪み”として恐れられた。
かつて、演習の儀式中──
香の煙が立ち昇る中、彼女だけが震えていた。
「……助けて」
祈りの奥から、誰かの声が届いた。
記録にも残らぬ、亡き者の願い。
胸の奥が締めつけられ、涙が頬を伝った。
「セイ・リン?」
先導巫女の声にも応えられなかった。
香、鈴、声──すべてが重なり、胸が張り裂けそうだった。
「……ごめんなさい、わたし……誰かが、泣いてて……」
それが“異常”とされた日から、
彼女は笑われ、距離を置かれた。
「共鳴しすぎる祈り」──それが彼女の烙印となった。
それでも祈りは止まなかった。
あの声が、きっと最後の“願い”だったと信じていたから。
「あなたは、神を呼ぶのではなく……神を“揺らしてしまう”」
そう言い渡したのは、巫女長だった。
そして異動先は《祈炉》。
火に最も近く、“燃え残り”の声に向き合う最前線。
それは共鳴する祈りを、“封印”するための場所だった。
夕刻──
《灯衣》の巫女たちが、絹のような礼装を揺らしながら告げた。
「祈炉? まぁ、大変。あそこは燃え残りの掃き溜めじゃない」
「でも、あなたには似合ってるわ。……燃えやすそうだもの」
その声音の奥には、もう戻れない者を見る冷たさがあった。
けれどセイ・リンの中の火は、確かにひとつ、強くなっていた。
──火に近づくほど、人は冷たくなる。
「形式に従う者は増えた。だが、火の本音を聴ける者はもういない」
「お前にはその音が聴こえる。“整っていない”祈りでいい」
それだけが、彼女の祈りを肯定した声だった。
すでに亡き《火輪》──火神の“心声”を受ける唯一の巫女。
空席の間に響いたその言葉だけが、彼女の背を押してくれた。
※
だから今、セイ・リンはここにいる。
神の火が暴れる最前線、“火喰い”の眠る地に。
祈りの言葉は、まだ胸の奥で震えている。
神には届かないかもしれない。
けれど、それでも彼女は、祈り続けることを選んだ。
──この火の中に、まだ救える“声”があると信じて。
彼女の視線の先では、村が燃えていた。
空は赤黒く裂け、炎の中に異形の影が揺れている。
風が逆巻き、願いの残響が空に溶けていく。
「……火喰い、が目覚めたのね」
彼女の声は微かに震えていた。恐れではない。
これは記憶だ──胸の奥に焼きついた、ひとつの祈りの終焉。
《祈炉》の任務は、常に“燃え残り”と向き合うことだった。
聖都のはずれ、煤けた壁と焦げた匂いに満ちた祈炉棟。
その重苦しい空気の中で、セイ・リンは静かに息を吸い込むことを覚えた。
「聖鈴、行くぞ」
無機質な声でそう呼びかけるのは、先輩巫女の
彼女の祈りには温度がなかった。魂に届くことより、報告書に整合することがすべて。
焼けた村、黒焦げの柱、沈黙の中に漂う微かな絶望……
セイ・リンは、ただ「鎮める」のではなく、「寄り添う」祈りを捧げたかった。けれど、それは“余計な感情”として否定された。
──そう、あの時も。
神殿の訓練時代。
まだ祈ることに疑いを持っていなかった頃。
セイ・リンは、《灰徒(はいと)》の少年と出会った。
灰徒──
巫女庁において最下層の奉仕者。
神殿の清掃、香炉の管理、火の記憶の回収……
儀式の舞台裏を支える存在でありながら、名を呼ばれることすら稀だった。
かつては百人以上いたが、いまや十数名。
病に倒れても、誰も気に留めない。
その少年もまた、誰の記録にも残らない存在だった。
巫女見習いたちの間では、「あの子はもうすぐ燃える」と、囁かれていた。
火の病──それは、過剰な祈りの残響を浴びた灰徒たちの末路だった。
それでも、セイ・リンは信じた。
「祈れば、救える」と。
彼女はひと晩中、彼の枕元に座り祈り続けた。
神に届くように、炎が鎮まるように。
けれど朝が来て、少年は静かに息を引き取った。
枕元に咲いていたのは、青白い“火の花”。
それは祈りが届いた証ではなかった。
祈りが“燃え尽きた”痕跡──美しく、儚く、そして残酷な、終焉の火だった。
それ以来、セイ・リンは問い続けている。
祈りとは、誰のものか?
神に捧げるべきものか?
それとも、目の前で苦しむ、たった一人のためのものか?
あの日からずっと、その問いが胸に残っていた。
ある日の休憩室。
巫女たちの誰もが静かに茶をすする中、隅の隅で、また一人の《灰徒》が咳き込んでいた。
誰も気に留めない。
その命は、制度にとっては“雑音”でしかなかった。
セイ・リンは、自分の茶器に目を落とし、立ち上がった。
そっと彼のそばに膝をつく。
「大丈夫?」
少年は弱々しく首を振る。
彼女はその背に手を添え、心の中で静かに祈った。
儀式ではない。
任務でもない。
ただ一人に向けた、祈りだった。
夜、自室で独りになると、彼女は胸を押さえて震えた。
この祈りが、形式から外れているなら、それでもいい。
──神ではなく、誰かの痛みに触れたい。
あの夜から、“祈り”という言葉の意味が、彼女の中で変わりはじめていた。
神に捧げるはずの言葉が、いつもどこかで止まる。
信じきれないまま、それでも祈るしかなかった。
巫女である限り、それが定めと教えられてきた。
焦げた風が吹く。
その匂いの中に、彼女はかつての罪を嗅ぎ取った。
「……また、あの時と同じ匂い……」
セイ・リンは歩き出した。
《
祈りと呼吸を同調させる律脈管が、彼女の鼓動を一定に保ち、炎の熱を遠ざける。胸元の《
地面が焦げ、空気が灼けても、彼女の衣は揺るがなかった。
装束に仕込まれた《霊圧調律弁》が、周囲の火気を感知し、衣内の気圧を制御する。そのおかげで、彼女は「焼かれる痛み」を感じずに、火の中心へと歩を進めることができた。
焼け残った広場の中央。
火が避けてできた奇妙な空白。
その空間だけ、まるで火が「何かを恐れて」後退していた。
そこに、ひとりの少年が倒れていた。
痩せた体、乱れた黒髪。
閉じたまぶたの奥に、乳白色の光が滲んでいる。
視えてはいない──けれど、まるで“何か”を視ようとしているようだった。
彼女は歩みを止めず、その傍らに跪いた。
左腰の《祈導灯(きどうとう)》が、かすかに光を揺らす。
灯籠のような装置の内部で、蒸気脈と共鳴する霊香が淡く脈打ち、祈りの方向を定めていた。
この灯は、神へ祈る“形式”の光ではない。
目の前の“誰か”に火を向ける意思を示すもの──
セイ・リンの祈りが、確かに“個”へと向いている証だった。
感鈴が再び深く鳴り、祈導灯の光が静かに揺れた。
灼けつく熱が引き、周囲の炎がその意志に従うように、空気が柔らかくたわんでいく。
セイ・リンの手が、少年の頬へと伸びた。
火の鼓動が静まる。
火装が、彼女を「巫女」ではなく「鎮め手」として守っていた。
火は彼を避けていた。
まるで彼が、この災厄そのものの“核”であることを知っているかのように。
セイ・リンはそっと彼に近づいた。
炎の音も、風の唸りも消えていく。
周囲のすべてが、彼を中心に沈黙していった。
彼女の指が、少年の頬に触れた瞬間──
そのまぶたが開いた。
視えないはずの瞳が、まっすぐ彼女を見つめていた。
「……来たんだね」
その声は、祈りよりも静かで、深かった。
どこか懐かしい響き。
遠い記憶の奥で、呼び続けていた声のように。
──その時、セイ・リンの記憶が、火を遡った。
《
神を祀る機関のなかでも、祈炉は最も過酷な部署だった。
異界の封印、火の鎮圧、命を削る任務。
彼女がそこに転属されたのは、祈りが“共鳴しすぎる”という理由だった。
「君の祈りは、神を揺らしてしまう」
そう言い渡したのは、かつての師だった巫女長。
そしてもう一人。
誰もいないはずの“火輪”の間で、最後に響いた声。
「あなたにしか応えない火がある」
その声だけが、今でも彼女の祈りを支えていた。
助けられなかった少年。
そして、火の中に消えかけた、もうひとりの声──ユエ。
「……また会うのね」
あの時、そう呟いた言葉が、現実になろうとしていた。
水面が、微かに揺れた。
そこに映っていた彼の面影が、じりじりと熱に溶けていく。
焦げた風が吹いた。
それが、セイ・リンの頬を撫でた瞬間――
彼女は“今”へと引き戻された。
炎の中、少年──ユエが、静かに立ち上がっていた。
「僕の中に、まだ残ってるんだ。
燃え尽きなかった声が、たくさん。
君の祈りも、ひとつ……燃え残ってる」
セイ・リンの指が震えた。
この子はただの器ではない。
火喰いに触れながら、“声”を守っていた。
「……契りを結ぶわ」
セイ・リンは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたと行く。火の奥へ。そのためには、あの場所に触れなければならない」
ユエは、ほとんど安堵にも似た微笑みを浮かべた。
まるで、すべての結末を知っていたかのように。
「わかった。僕は、拒まないよ」
セイ・リンは
パチリ、と留め具が外れる音。
蒸気が吐き出され、長衣の内側から熱が逃げる。
空気が冷え、素肌が火にさらされる――本来ならありえない行為。
だが、これはただの儀式ではなかった。
神殿が封じた“契火ノ口付(けいかのくちづけ)”──火眼の契約の発動だった。
「視えなくてもいいの」
彼女は、ゆっくりと面を外し、火に照らされる素顔を露にした。
「でも……いまのわたしの“祈り”を、そのまま感じて」
ユエは目を閉じたまま、静かに顔を向ける。
セイ・リンはそっと顔を寄せ、唇を重ねた。
それは巫女としてではなく、“ひとりの人間”として捧げる祈り。
同時に、契りが始まる。
──この世界では、記憶は火になる。
火眼はそれを“視る”力を持ち、祈巫は“燃やしきる”ための器となる。
この契約によってふたりは、互いの心に火を灯し、記憶の炎を共有する存在となる。
だが、それは代償の上に成り立つ。
ふたりは共に燃える。共に壊れる覚悟でなければ、契約は成立しない。
ユエの中から、音があふれた。
光が、記憶が、過去の痛みが――すべてがセイ・リンの中に流れ込んでいく。
そして、彼女の祈りもまた、そっと彼の胸に溶けていった。
《火眼の契約、成立》
ふたりは、神の外に立った。
世界の理の外で、火を灯す者となった。
その瞬間、地が裂けた。
世界が裏返り、祈りの重みが時空を貫く。
ふたりは、記憶と祈りの“胎”――火の胎へと引きずり込まれていった。
※
炎のように脈打つ空の下。
セイ・リンは宙を漂う記憶の断片を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「……これが、火の
「燃え尽きなかった想いが、まだ残ってる」
ユエの声もまた、どこか遠いところから聞こえた。
ふたりは足を止めた。灰の大地に、祈りの残響が沁みていた。
「今、僕たちは契約を結んだんだよね」
ユエが問う。
セイ・リンは頷く。
「“火眼の契約”。あなたが視た記憶の中へ、私の祈りが届くようになる契りよ」
「つまり……僕の中に残った“声”を、君が燃やすこともできる?」
「燃やすだけじゃないわ。灯すこともできる。あなたの“火”を、消さずに守る。
それが、この契約の意味なの」
ユエは静かに目を閉じた。
「でも……代償もある。僕は記憶に焼かれるし、君は祈れば祈るほど火を育てる。
それでも――いいの?」
「ええ」
セイ・リンの声は揺れなかった。
「あなたを視ると決めた時から、もう選んでたの。
誰の祈りも、もうひとりきりにはしないって」
※
──そこは、祈りの墓場。
燃え尽きなかった想いが、まだ燃えたがっていた。
諦めきれなかった言葉。救えなかった名前。
それらが空に浮かび、火の風に揺れていた。
そして、ようやく物語が始まる。
“神に祈る者”から、“誰かを祈る者”へ。
火の眼を持つ少年と、かつて祈りの器だった少女の、再生の旅が。
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