心海喫茶

雨蛙/あまかわず

心海喫茶

果てしなく長い道のり。


もうどれくらい歩いたか覚えていない。


息をひそめる町の中、月明かりがのんびりと揺れている。


遠くにあるのは見るのも懐かしい自分の家。


やっと帰ってこれた。


玄関を開けて中に入る。


床や家具がうっすらと白くなっている。


それでもなにも変わらない自分の家に懐かしさがこみあげてきて心が安らぐ。


もう疲れた。


なにをやってもうまくいかない。


僕の人生なんて所詮こんなものだ。


心はすっかり黒ずみ、もう元に戻ることはないだろう。


二階にベッドがあるはずだから、そこで少し休もう。


ゆったりとした足取りで階段に向かう。


廊下に出るとあるはずのない地下に行く階段があった。


その先は薄暗く、終わりが見えない。


不思議に思いながらも、好奇心が勝り進んでいくことにした。


壁に手を走らせながらゆっくり降りていく。


明かりなどはないが足元はうっすらと見える。


どれだけ降りてもまだ続いている。


この先に何があるのかは謎だが、無意識に体が下へ向かっていく。


しばらく降りると壁に覗き窓がついていた。


地下なのに覗き窓?と思いつつ、外の様子を見てみる。


窓の外は大量の水で満たされていた。


そこはまるで深海。


青く、暗く、冷たい海の中。


どこを見てもなにもなく、果てしなく続く水の世界。


こんなものが僕の家の地下にあったなんて。


階段はまだ続いている。


僕は再度階段を降り始めた。


ついに階段の終わりが見えた。


階段を降り切るとそこは一つの部屋になっていた。


左側は半ドーム型にガラスが張られており、さっき見たよりも暗い海の中だった。


そしてそこに低めの机と椅子がいくつか並んでいた。


右側には暖かなランプの光に照らされたカウンターの席。


そこでコーヒーカップを磨いている細身でしわくちゃで頑固そうなおばあさんが立っていた。


どうやらここは喫茶店みたいだ。


信じられない状況に不安だったが、どこか安心する匂いがした。


花の匂いとか、おいしそうな匂いとかではない、本能で感じる優しい匂いだ。


不思議な空間に戸惑っていると、おばあさんと目が合った。


「あんた、なんでここに来たんだい?」


吊り上がった目でこちらを睨みつけている。


受け入れがたい様子に怖気づき、とっさに言い訳を考えたが、嘘をつくべきではないと直感が言っていた。


「勝手に入ってごめんなさい。知らない階段ができてて、気になって降りたらここにたどり着いたんです」


おばあさんは僕のことを吟味するかのように鋭い目つきでじっと見つめた。


「まあいい、座んな」


言われた通りにおばあさんと向かい合うようにカウンターの席に座った。


改めて周りを見渡す。


海の見える席は薄暗く、無駄なものがない。


海の奥は真っ暗で魚や生き物もいない。


なににも邪魔されない空間。


反対にカウンターの席は明るく、いろんなものが置いてある。


眺めるだけで飽きない。


心が温まるホッとする空間。


ここには僕たち以外誰もいない。


すごく好きな雰囲気だ。


まるで僕のために作られたかのような。


店の奥にはなにやら商品らしきものがある。


豪華そうなカーペット、車の置物、雪の壁飾り、砂漠にあるような給油機、僕の背丈ほどある雪だるまの家族、楽譜が二つ。


ラインナップは謎だが、どれも惹かれてしまうものだった。


そしてこれらは見た目こそ何の変哲のない物だが、ここ以外では手に入らないような気がした。


「気になるものがあるかい?」


商品を眺めているといきなりおばあさんが話しかけてきた。


「これはどういうものなんですか?」


特に目を引いていた楽譜について聞いてみることにした。


「聞いてみるかい?」


おばあさんは楽譜をピアノの上に広げると、慣れた手つきで弾き始めた。


その曲は明るく、かつしんみりとした曲だった。


すごく心に、身体に染みる、気持ちいい曲だ。


とても気に入り、その楽譜を買うことにした。


それと車の置物と雪の壁飾りも。


なんとなく気になったものを手に取った。


「それを買っていくのかい?支払いはあんたの満腹度で支払ってもらうよ」


次の瞬間、急にお腹が空いてきた。


謎だったがなぜかとても満足した。


カウンターに戻るとこの店のメニュー表があるのを見つけた。


そこにはコーヒーだけでなく、食べ物もいくつかあった。


メニュー表を眺めていると、突然どこからか僕を呼ぶ声が聞こえてきた。


ずっとここにいたかったが、どうやら行かなければいけないみたいだ。


ご飯を食べられなかったのを悔やみながらも出口に向かう。


「もう行くのかい?」


「もっと居たかったけど、行かなきゃいけないみたいなんです。また来てもいいですか?」


「ここにはそう簡単には来れないよ。あんたが必要とするならまた来れるんじゃないかね」


なんとなくここは普通じゃ来れない場所だと感じていた。


でも、もしまた来れたら、おいしいものをたくさん食べて、ゆっくりこの雰囲気を感じて、思いのままに楽しみたい。


そう思った。


「ありがとうございました」


「ああ、元気でね」


おばあさんに見送られながら階段を上っていく。




目を覚ますとそこはベッドの上だった。


窓から明るい日差しが暗い部屋に割り込んでくる。


大きく深呼吸した後、机に向かい、作業の続きを始めた。


あと少しだけ、頑張ってみよう。

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心海喫茶 雨蛙/あまかわず @amakawazu1182

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