第六楽章 Allargando ウェルカムではない現実
LIME電話がかかってきた丁度その時、清水優実はリビングルームのソファに腰掛けていた。例によってSNSのアカウントに寄せられた、沢山のどうでもいいコメントへの返信をするためである。
「もしもし? ああ、アスミさん?」
優実は片方の口角を上げて、不敵な笑みを浮かべながら電話の主と会話をはじめた。
「あら・・・離婚してカナダへゆくの? ずいぶんと突然なのね」
「ええ、そうなの。 短い間だったけど、あかりさんのおかげで楽しかったわ。
本当にありがとう」
電話の向こうで響くアスミの声は、どうやら歩きながら話しているらしく、いつも通りゆらゆらとして音量が一定でないが、非常にさっぱりとした明るい声色だった。
「せっかくだから出国前に、最後のランチでもいかない?」
「いいのよ! 気にしないで。 私たち、けっこうスケジュールがタイトなの」
「え、私たちって?」
「ん? ああ、私のパートナーよ。 あなたも知ってるでしょ?」
「え、知らないわ。 会ったことないもの。 ねえ、最後に会ってみたいんだけど」
「ごめんなさい、あかりさん。 そろそろショッピングモールへ入るから。
本当に、いままでありがとう! 体調と美容に気を付けてね?」
「え? ええ・・・あの」
「いい、あかりさん? いつまでも美しくよ・・・それじゃあね!」
ぷつっと一方的に電話が切れる。
耳元からスマホを離した優実の顔はひどく困惑しており、 ”いつまでも美しく” とは、まるで程遠い顔つきをしていた。
「・・・なんなの、アスミったら。 急に居なくなるだなんて」
恐ろしく思いつめた目をして、優実は一心不乱にスマホをいじっていたが、ある瞬間から突然手を小刻みに震わせると、スマホを絨毯の上に勢いよく放り投げた。
毛足の長い絨毯のため、スマホは傷つかずに大きくバウンドするだけだったが、投げた優実の顔は、おそろしい憤怒の形相をしていた。
「アスミが消えた。 電話を切ってすぐに、LIMEもInstogramも、アカウントを全て消去したんだ。 計画的に・・・こんなふうに消え失せるなんて。 くそっ!」
優実はさも腹立たし気に立ち上がり、落ちたスマホを拾おうとしたが、丁度その時、玄関の扉が開いて和也が帰宅してきた。優実を目の端に捕らえると、なにやら気まずそうに、そのまま目を逸らせて二階へあがろうとする。
「和也? あいさつは?」
「た、ただいま、ママ・・・」
そそくさと鞄を抱えて二階へと消えてゆく和也。優実は首を傾げた。
ここ数か月、優実と和也はずっと仲が良かった。
”仲が良い” という言い方は語弊があるが、つまり、優実が有山佳代子をいじめる上で、優等生である息子・健の情報を共有するために、和也とコミュニケーションが取れていた、ということである。
それが、ここ数日はまともに会話ができていない。まあ、もともと愛情ある会話を普段からしていない家庭であるため、話題がなくなるとすぐにこういう没交渉の状態に陥るのは極めて自然なことであった。
「なにかしら、あの子」
優実は、息子の変化についてそれ以上気にしないことにした。
(・・・子供には子供の事情があるんだわ。よく分からない子供の態度の変化に自分が動じるわけにはいかない。
『だって私は ”湊あかり” なのだから』 )
彼女の自負はそこにあった。
そしてキッチンに立ち、冷蔵庫から赤ワインボトルを取り出してグラスに注ぎ、それを持ってソファーで飲み始めるのだった。
不愉快事を紛らすために。そして気分を上げるために。
(『だって私は ”湊あかり” なのだから』)
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しばらくして、静まり返ったリビングルーム。二階から足音を立てずに和也が降りてきた。
そして、柱の陰からそっと優実の姿を覗く。
彼女はソファで居眠りをしていた。首をクッションにもたれかけ静かな寝息を立て、目覚める気配はない。
そんな母の姿をじっと見ながら、おそるおそるリビングを横切り、和也は奥の部屋の扉をそっと開けた。そして数秒後、和也は大きく膨らんだ布製のトートバッグを肩にかけて姿を現し、後ずさりしながら玄関へと向かってゆく。そして靴を履くと、これまた極力音を立てずに玄関の扉を開けて、するりと外の闇に身を滑り込ませた。
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放課後の東光学院。他の生徒たちはすでに下校しているが、教室の隅っこには数人の人だかりがあった。
あしかがクリニック院長の令息である足利龍斗と、その仲間たちである。彼らが作る人垣の中央には、冷たい床に正座する清水和也がいた。
和也は、両手を震わせながら、茶封筒を持ち、龍斗に差し出した。片手でひったくる龍斗。すぐさま中を開けて確認すると、中から取り出されたのは、5枚の渋沢栄一だった。
口角を上げて、おびえる和也の姿をにこやかに見下す龍斗。
「ほら・・・やればできるじゃないか、清水和也くん!
本気を出せば、三日後に5万円を作るくらいわけないんだって、きみは自分で証明したんだよ!」
「すげーな、清水和也。 へへへ」
和也の落ちくぼんだ目に、涙が一杯に溜まっている。
「も、もう、無理だよ」
「いいや、そんなことはないよ。 きみはやればできる子じゃないか。
きっちり三日後に用意できたんだ。 次にやれないことはない。
次は・・・来週の金曜までに、10万円だね。 頼んだよ、清水和也くん?」
和也の顔面が蒼白になる。そして口から泡を飛ばして訴えた。
「む、無理だよ! 10万円なんて用意できないよ!」
「お前さあ、用意できなかったら、あれだよな?
龍斗さんが持っているカルテが、勝手に歩き出すんだぜ?」
人垣が一斉に爆笑する。にやけながら胸ポケットに5万円をしまい、龍斗は茶封筒を和也の頭上に放り投げた。ひらひらと舞いながら、和也のそばに落ちる茶封筒。
「きみのママの、薄っぺらい読モ(読者モデル)の仕事なんてどうでも良いけど。
でもあのカルテ一枚で、モデルのキャリアがぺしゃんこになるのかな。
本当にぺしゃんこになるか、試してみてもいいよな?」
「やめて! それだけは、やめて!」
「ははは、だったら頑張りなよ、清水和也くん?
さあみんな、時間がもったいないから、はやく外へでよう。
俺らは、受験勉強で忙しいんだからさ」
「へへ、じゃあな、清水和也。 サイボーグママによろしくな」
肩で風を切って教室を後にする龍斗。それに続いて、下品な笑い声をあげながら去ってゆく人垣たち。和也は彼らの後姿をみながら、歯を食いしばって泣き声を押し殺していた。
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有山佳代子は、自宅のテーブルでノートパソコンを広げて、様々な大学のホームページを眺めていた。6つのタブが既に上部についているものの、それらのページはすべて、医科大学と医学部のある大学のものだった。
玄関の扉が閉まり、スポーツウェアの入ったボストンバッグを担いだ健が帰ってきた。
佳代子がテーブルについているのを見て怪訝な顔をするが、何も言わずに自分の部屋に入ろうとする。
「ねえ、たけ・・・」
「ん?」
「進路、どうする?」
自室の扉の前でしばし立ち尽くす健。どさりとボストンバッグを床に落とす。
「少し、待ってほしい。 今度、企業見学にいく」
「え? なあに? あなた、大学へ行かずに働くの?」
鬱陶しそうな顔で佳代子を見る健。
「そうじゃない。 大学へは行く。
進路を決める前に、色々知っておきたいだけ」
「ああ・・・」
ノートパソコンを閉じて、じっと健をみつめる佳代子。
「パパの仕事をみれば? 医者になりたいなら」
眉根にしわをよせてうつむく健は、何かを決心したかのような表情だった。
「医者の仕事は、よく分かってる。
それに職業は、医者だけじゃない」
それだけ言って健は踵を返し、自室の扉の内側へと消えていった。
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あくる日、土曜日の午後に、健は相模原市一の大きな清掃会社の門の前にいた。ひとりで門の内側をくぐると、三階建てのビルの入り口から、清水達也がでてきた。清掃車の運転手と同じユニフォームを着ている。
「清水くんのおじさん、お招きありがとうございます」
ぺこりとおじぎをする健に対し、穏やかないい笑顔を見せる達也。
じつは彼らは、何度かサッカーの練習場で顔を合わせる機会があった。話をしてゆくうちにお互いを気に入ったため、連絡先の交換をしていたのだった。
「今日は来てくれてありがとう、有山くん。
きみみたいに優秀な子が、私の会社に興味を持ってくれるなんて、光栄だよ」
照れくさそうな顔をする健。
「おじさんから何度も話を聞いて、一度会社をみてみたいと思ってたんです」
「受験勉強も大変だろうに」
「いえ・・・勉強はいつものことなんで。
社会の色んなものをみてから、大学の進路、もう一度考え直したいんです」
「いい考えだね。 好きなだけ見て行っていいからね」
健と達也は、肩を並べて建物の中へと入っていった。
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健は、達也に連れられて、彼の会社の応接間に案内された。 応接間は事務所の中の一角にあり、パーテーションで仕切られているだけのとても狭いものだったが、息苦しさは全くなかった。壁には『敬天愛人』(天を敬い人を愛する)という西郷隆盛の言葉の書が額に入って掲げられ、それ以外の調度品としては、小さな、丸い土山に植えられた盆栽がテーブルに乗っている。
茶を持ってきたのはふんわりしたボブショートで柔らかい笑顔の、いかにも優しそうな中年女性だった。気取らない雰囲気・・・特徴のないライラック色のカーディガンを白いブラウスの上にはおり、黒いパンツ姿。人のよさそうな笑顔をみせながら、革張りのソファに座った健の前に、茶托に乗った緑茶をそっと置いた。
「ありがとう、佐々木さん」
佐々木さん、と呼ばれた女性の笑顔に合わせるように、達也も笑顔で小さく会釈をし、入れ替わりで向かい側の椅子に腰かけた。
「これをどうぞ。 私の会社のパンフレットです」
達也は頭を下げて両手で封筒を受け取ると、中からA4サイズのパンフレットを取り出して、ゆっくりとページを捲り始めた。
「3年前に作ったパンフだよ。 データが古くてごめんね」
「分かりやすくてきれいな、いいパンフです」
「ありがとう、有山くん」
佐々木さんがまた応接間に入ってきて、達也の前に茶を置いて行った。
彼女が扉の向こうへ消えるのを待って、達也はまた話し始めた。
「こんなものを作りはしたんだけど、実際、うちへ見学に来たい人は誰もいなくてね。 パンフの在庫は山ほどあるんだ。
近郊の、公立高校の進路指導室にも置いてもらってはいるんだけど、それもなかなか減らないらしい」
「これ、清水くんは読んだんですか?」
達也は悲しそうな顔で首を横に振った。
「和也は、このパンフの存在すら知らないはずだ。
私の会社のことも、聞かれたことすらないよ」
「清水くんの、進路はもう決まったんですか?」
「分からない。 和也の口からは何もきいていない。
和也の母親は、医学部に入れたいらしいが、あの子はそんなに頭がよくない。
受験させたって、金の無駄遣いなだけだ」
達也は自身の妻のことを、どこかよそよそしい言い方をした。
「きみは、どうなんだい? お父さんは医師だろう?」
「あの・・・はい」
「大きな病院の、立派な先生だと聞いているよ」
「・・・あの」
健は、困ったように眉根にしわをよせ、唾をごくりと飲んでから、達也への言葉を喉から絞り出した。
「パパは・・・ものすごい年寄りなんです。
ぼくのためにずっと夜勤までこなして、働き通しで。
ぼくが生まれたために、本当の奥さんとぼくのママと、両方にお金を作らなくちゃいけなくて。
本当は、大学なんて行かずに働いて、パパを楽にしてあげなきゃいけないのに」
「子供は・・・」
穏やかな目で健を見る達也。自身の茶をすすって一拍置く。
「子供はね、どんな親にとったって、宝物だよ。
お父さんが大学へ行かせてくれるって言うんだから、甘えなさい。
子供は、大人の窮屈な事情に縛られちゃいけない。
私はそう思ってるよ」
「分かりました」
達也は立ち上がり、健のそばに立つと、その肩にそっと手を置いた。
「さ、そろそろ中を案内するよ。
うちはしがない会社だけど、この町にはどうしたって必要な会社なんだ。
どんなに家族に疎まれても、私はここを大切に守るし、これからも続ける」
達也が語った最後の言葉は、まるで達也自身に言い聞かせているかのようだった。
健はそんな達也の言葉の端から、決してウェルカムではない彼の家庭環境を垣間見てしまった気がして、少し気が重くなった。
SNS狂騒曲 暁 ミラ @sonnen-schein1
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