第6話 ふたりのエチュード
リハーサル中のがらんとした屋内アリーナ。ステージ上に落ちていた小さな甲虫。私と萌は、ほとんど同時にそれに気づき、視線を交わした。言葉はない。ただ互いの瞳の奥に揺らめく同じ種類の光。それは獲物を見つけた狩人の光であり、秘密を共有する共犯者の合図だった。
ほんの数秒の逡巡。いや、もはや逡巡と呼べるほどの葛藤は、私の心には残っていなかったのかもしれない。頭で考えるよりも先に身体が動いていた。私は隣に立つ萌に、わずかに顎で合図を送る。萌も微かに頷き返す。
次の瞬間、私たちはまるで振り付けの一部であるかのように、自然な動きでその甲虫へと歩み寄った。そして寸分の狂いもなく同時に、それぞれの白いエナメルパンプスの、鋭く尖ったポインテッドトゥで、その小さな黒い点を踏みつけたのだ。
プチッ。
硬い殻が砕ける微かな音。靴底から伝わる確かな感触。それはもはや不快なものではなく、私の神経を心地よく刺激する合図のようなものになっていた。私たちは何事もなかったかのように次の動きに移る。リハーサルの音楽は変わらず流れ続けている。スタッフも他のメンバーも、誰も気づいていない。この広いステージの上で、今何が行われたのかを。
ちらりと萌を見ると、彼女の口元には満足そうな笑みが浮かんでいた。私もまた同じような笑みを返していることに気づく。罪悪感はもはや遠い過去の記憶のように、どこかへ消え去っていた。代わりに胸を満たすのは、萌と共有する秘密のスリルと、支配者になったかのような冷たい高揚感。リハーサルとはいえ、この神聖であるべきステージの上で、私たちが「儀式」を行ったこと。それは私たちの関係が新たな段階に入ったことを、明確に示していた。
ライブ本番までの数日間、私と萌の関係は、さらに濃密なものになっていった。私たちは、以前にも増して多くの時間を共に過ごすようになった。それは他のメンバーから見れば、少し異様に映ったかもしれない。楽屋でも移動中の車の中でも、私たちは隣同士に座り、言葉少なながらも、視線や微かな仕草でコミュニケーションを取っていた。
話題の中心は、もちろん私たちの「秘密」についてだ。
「麻子先輩、今日のパンプス、なんだかいつもより踏みやすそうに見えますね」
萌が私の足元を見ながら、悪戯っぽく囁く。私は自分の白いエナメルパンプスを見下ろし、
「そう?……ヒールの角度かな。確かに力がこめやすい気がする」
と真顔で答える。
「この前の、あの時の感触……忘れられないよね」
私がふと漏らすと、萌は、
「わかります。特にあの硬いのがパキンって割れる瞬間……最高ですよね」
と、うっとりとした表情で同意する。
そんな会話が、私たちにとってはごく自然なものになっていた。かつて感じていた嫌悪感や恐怖心は、もはや欠片も残っていない。代わりに私たちは、その倒錯した快感を言葉で確かめ合い、増幅させていたのだ。共有された記憶はより鮮明に、より甘美なものとして、私たちの心に刻まれていく。
私の変化は、内面だけに留まらなかった。莉奈や結衣が、戸惑いの表情で私を見ることが増えた。
「麻子、最近雰囲気変わったね……」
莉奈がある時、心配そうに呟いた。
「なんだか、前より……強くなったっていうか……。でも、ちょっと怖い感じもする」
結衣も、隣でこくりと頷いている。
私はそんな彼女たちに、曖昧な笑顔を返すだけだった。「そうかな?気のせいだよ」と。彼女たちには、もう何も説明できない。理解してもらえるはずがない。私と萌の世界は、他の誰も立ち入ることのできない、固く閉ざされた領域になっていた。その閉鎖感が、私たちの絆をより一層強固なものにしているのかもしれない。
そして、運命のライブ本番の日がやってきた。会場は数万人のファンで埋め尽くされ、開演前から異様な熱気に包まれている。楽屋で私たちは最後の準備をしていた。純白の、天使の羽を思わせる飾りがついたドレス。磨き上げられた、白いエナメルのポインテッドトゥパンプス。鏡に映る自分の姿は、まさに「清純派アイドル・宮村麻子」そのものだ。しかしその瞳の奥には、以前にはなかった妖しい光が宿っているのを、自分でも感じていた。
隣では、萌が同じように準備を整えている。彼女もまた鏡の中の自分を見つめ、満足そうに微笑んでいた。その輝きはかつてないほど眩しく、そして危うげに見えた。共犯者を得たことで、彼女の内に秘められていた何かが、完全に解き放たれたのかもしれない。
私たちは、ステージへと向かう直前、互いの姿を確認し合った。
「綺麗ですよ、麻子先輩」
「萌もね。……今日は、楽しめそう」
短い会話。しかしその瞳には、同じ期待と興奮が燃え上がっていた。
オープニングのSEが鳴り響き、地鳴りのような歓声が会場を揺るがす。私たちは深呼吸をし、笑顔でステージへと駆け出した。眩いスポットライト。揺れるペンライトの海。アドレナリンが全身を駆け巡る。
ライブは序盤から、最高潮の盛り上がりを見せた。私たちは歌い、踊り、ファンを煽る。完璧なパフォーマンス。しかし私たちの意識の一部は、常に別の場所にあった。ステージの床。照明に照らされた表面を、私たちは鋭い視線でサーチし続けていた。
いた。
激しいダンスナンバーの最中、フォーメーション移動でステージの
ちらりと萌に視線を送る。彼女も気付いている。目が合い、ほんの一瞬、どちらが「狩る」かを見定めるような間が流れる。萌が微かに口角を上げる。どうぞ、と言っているかのようだ。
私はその合図を受け取り、ダンスのステップに紛れ込ませるように、自然な動きでカナブンへと近付く。そして次のターンで、右足の白いハイヒールを、正確に振り下ろした。
ばりっ!
硬質な、しかし微かな破壊音。靴底から伝わる確かな手応え。硬い甲殻が砕け、その下の柔らかい体が潰れる感触。それはもはや嫌悪感を伴うものではなく、純粋な快感として私の脳髄を直接刺激した。
私は何事もなかったかのように、次の振り付けに移る。顔にはアイドルとしての完璧な笑顔を浮かべたまま。観客の誰も、他のメンバーさえも、今このステージの上で何が行われたのかを知らない。その秘密の共有が、背徳的なスパイスとなって、快感をさらに増幅させる。
ちらりと萌を見ると、彼女も満足そうに頷いていた。今度は彼女の番だ。
ライブが進むにつれて、私たちの「饗宴」はエスカレートしていった。萌がステージの端で見つけたコガネムシを、まるでバレリーナのように優雅なターンから、ピンポイントでヒールで踏み抜く。私が歌いながら移動する途中で、床を這っていた小さなクモを、ポインテッドトゥの先端で、挽き潰すように処理する。
時には獲物を譲り合うこともあった。萌が見つけた虫を私が踏む。私が見つけた虫を萌が踏む。それは、まるで二人だけの危険なゲーム。誰にも気づかれずに、いかに多くの「獲物」を処理できるか。いかにその感触を深く味わえるか。
白いパンプスの靴底は、徐々に、しかし確実に汚れていった。潰れた虫たちの体液、砕けた甲殻の破片。緑色の粘液、黒いシミ、時には赤みがかったものも。おぞましいはずのその汚れが、私たちにとっては共有した快感の記憶であり、共犯者としての絆の証だった。休憩でステージ袖に戻るたびに、私たちは互いの靴底をちらりと確認し合い、無言の笑みを交わす。その汚れが濃ければ濃いほど、私たちの満足感は高まった。
観客のボルテージは、最高潮に達している。彼らの熱狂的な声援が、私たちの背徳的な行為をさらに煽り立てる。私たちは、純粋さの象徴である白いドレスを身に纏い、天使のような笑顔で歌い、踊る。しかしその足元では、残酷で穢れた行為が繰り返されている。この強烈なギャップこそが、私たちにとって、最大の興奮材料となっていた。私は、もはや罪悪感など微塵も感じていなかった。むしろ、この倒錯した状況に完全な喜びを見出していたのだ。
ライブは、いよいよクライマックスへと向かう。アンコールの声に応えて、私たちは再びステージに登場した。最後の力を振り絞り、最も激しいダンスナンバーを披露する。汗が飛び散り、呼吸が荒くなる。照明が目まぐるしく点滅する。
その時だった。ステージの中央付近、スポットライトが強く当たる場所に、ひときわ大きな影が現れた。それは、これまで見たこともないほど大きな、黒光りする虫だった。おそらく、大型のカミキリムシか、あるいはタマムシのような硬い甲殻を持つ、見栄えのする「大物」。
私と萌は、同時にそれに気づいた。互いの瞳に同じ種類の、強い興奮の色が宿る。これこそが、今日のクライマックスにふさわしい最高の獲物だ。
どちらからともなく、私たちはその虫に向かって吸い寄せられるように動き出した。ダンスの振り付けと完全にシンクロさせながら、まるで示し合わせたかのように、寸分の狂いもなく同時に、その虫の真上に到達する。
そして――。
二つの白いハイヒールが、同時に力強く振り下ろされた。
べちゃっ!!
これまで聞いたこともないような、鈍く明瞭な破壊音。硬い甲殻が、二つの鋭いヒールによって貫かれ、砕け散る。靴底から伝わる強烈な衝撃と生々しい感触。それは私たちの興奮を、一気に頂点へと押し上げた。
全てのパフォーマンスが終わった。私たちは、ステージの中央に横一列に並び、鳴り止まない拍手と歓声に応える。息は上がり、汗は流れ落ち、体は心地よい疲労感に包まれている。だがそれ以上に、私たちの心を満たしているのは、共有したばかりの強烈で倒錯した快感だった。
深く頭を下げる。そして顔を上げた瞬間、私は隣に立つ萌を見た。彼女もまた私を見ていた。互いの表情は、汗と高揚感と、そして恍惚とした喜びに輝いていた。それは純粋なアイドルの顔ではない。秘密を共有し、禁断の快楽に耽溺した共犯者の顔だ。
私たちの足元、白いエナメルのパンプスの靴底は、もはや見るもおぞましい状態になっているだろう。潰れた虫たちの無残な残骸で、ギザギザの溝は埋め尽くされているはずだ。その汚れは、私たちにとってはもはや穢れではない。それは勝利の証であり、共有した快楽の記憶そのものなのだ。
鳴り止まない歓声の中、私と萌は互いにだけ分かる、深く倒錯した笑みを交わした。この先に、どんな運命が待っているのかは分からない。いつかこの秘密が暴かれ、破滅が訪れるのかもしれない。
でも今はそれでよかった。私たちはもう引き返すことはできないのだから。この危うい均衡の上で互いを求め合い、倒錯した快感を共有し続ける。それこそが、私たちの見つけた歪んだ幸福の形なのかもしれない。
白き靴底に刻まれた、おぞましくも甘美なエチュード。光と影が交錯するステージの上で、白き共犯者たちは、永遠に続くかのように踊り続ける――。
アイドル萌の乱舞 写乱 @syaran_sukiyanen
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