第5話 覚醒

 公園のベンチでの萌の告白は、私の心に深い混乱と、これまで感じたことのない種類の動揺を残した。彼女が語った言葉、その時の表情、声のトーン。それらが、まるでリフレインのように頭の中を駆け巡り、私の思考を占拠する。レッスンに集中しようとしても、ふとした瞬間に萌の顔が浮かび、歌詞や振り付けが飛んでしまう。雑誌のインタビューを受けていても、当たり障りのない笑顔を作りながら、心は別の場所を彷徨っている。


 嫌悪感と恐怖心は、依然として強く存在する。萌の行為は、私の倫理観や常識では到底受け入れられるものではない。間違っている。そう断言できるはずなのに、なぜだろう、以前のように単純に「許せない」と切り捨てることができなくなっていた。彼女が垣間見せた、アイドルとしてのプレッシャーや孤独。そして、あの歪んだ論理の中に、ほんの僅かだが、理解できてしまう部分があるような気がしてしまうのだ。もちろん、それは錯覚だ。そう自分に言い聞かせるけれど、一度芽生えた疑念や共感の欠片は、なかなか消えてはくれない。


 そして、何よりも私を苛むのは、あの「ドキドキ」とした感覚だ。可愛らしい萌が、残酷な行為に耽溺しているというギャップ。その倒錯した事実に、心が不謹慎にもざわめいてしまう。それは、崖っぷちに立った時に感じる、吸い込まれそうな眩暈に似ているのかもしれない。危険だとわかっているのに、目が離せない。


 日常の中で、私は無意識のうちに、以前は気にも留めなかったものに注意を向けるようになっていた。道端を這う小さな虫。雨上がりの水たまりに映る自分の足元。ショーウィンドウに飾られた、白いハイヒール。そして、自分の靴箱に並ぶ、ステラ・フローレスの象徴である、白いエナメルのポインテッドトゥパンプス。その硬質な輝き、鋭い先端、7センチのヒール。それらが、以前とは全く違う意味合いを帯びて、私の目に映るようになっていた。まるで、それらが「踏む」ための道具であるかのように。そんな考えが頭をよぎるたびに、私は激しい自己嫌悪に襲われた。


 レッスンスタジオでも、萌の存在を過剰に意識してしまう。彼女が床の隅に視線を落とした時、ステップを踏む足の動きが少しだけ力強く見えた時、私の心臓はどきりと跳ねる。そして、目が合ってしまう。萌は、何も言わない。ただ、じっと私を見つめるだけだ。その瞳は、私の内面の動揺をすべて見透かしているかのようで、私はいつも、先に視線をそらしてしまう。


 莉奈や結衣も、私の様子がおかしいことには、薄々気づいているようだった。

「麻子、最近ちょっと元気ないんじゃない?」

「何か悩みでもあるの?私でよければ聞くよ?」

 心配して声をかけてくれることもある。けれど、私は「大丈夫だよ、ありがとう」と笑顔で返すことしかできない。萌のことを、自分の内面で起こっている変化のことを、誰かに話せるはずがない。この秘密は、私と萌だけのものなのだ。その認識が、私をさらに深い孤独へと追いやっていた。


 楽屋で、萌が自分のパンプスを手入れしている姿を、私は以前よりも頻繁に目にするようになった。あるいは、私が無意識にその光景を探してしまっているのかもしれない。彼女は、もう隠すそぶりも見せず、爪楊枝やティッシュを使って、靴底の溝を入念に掃除している。その指先の動き、集中した横顔。嫌悪感を感じるはずなのに、なぜか目が離せない。まるで、神聖な儀式でも見ているかのような、奇妙な感覚に囚われることさえあった。そして、そんな自分に気づくたびに、私は自分の精神が少しずつ侵食されているのではないかと、言いようのない恐怖を感じた。


 そんな日々が続いていた、ある夕暮れ時だった。その日は、都心から少し離れた場所でのロケ撮影があり、終わったのは日が傾きかけた頃だった。最寄りの駅まで、少し距離がある。私は、他のメンバーより少し遅れて、一人で駅へと向かう道を歩いていた。人通りは少なく、古い商店や住宅が立ち並ぶ、少し寂れた雰囲気の路地裏。空は茜色と藍色が混じり合い、足元には自分の影が長く伸びている。


 考え事をしていたのだと思う。萌のこと、これからのこと。ぼんやりと、しかし重くのしかかるような思考に囚われ、足元への注意が散漫になっていた。その時だった。


 ぷち。


 右足の裏に、何か小さなものが潰れる、鈍い感触があった。ほんの一瞬の出来事。私は、はっとして足を止めた。履いていたのは、私服用の、底が比較的薄いスニーカーだ。


 恐る恐る、足元を見る。アスファルトのわずかな窪みに、何か黒くて丸いものが潰れていた。それは、ダンゴムシだった。おそらく、道の端から出てきて、ちょうど私が通りかかったところにいたのだろう。もう、動かない。その小さな体の周りには、わずかに体液のようなものが滲んでいるように見えた。


「あ……」


 声にならない声が漏れる。意図したわけではない。本当に、偶然だった。ただ、気づかずに踏んでしまっただけ。事故だ。


 そう、自分に言い聞かせようとした。しかし、心臓はバクバクと音を立て、冷や汗が背中を伝う。罪悪感。そして、自己嫌悪。なんてことをしてしまったんだ。たとえ事故だとしても、命を奪ってしまったことに変わりはない。


 私は、しばらくその場に立ち尽くした。潰れたダンゴムシから、目をそらすことができない。気分が悪い。すぐにでもこの場を立ち去りたい。なのに、足が動かない。


 そして、その時、私の心の中に、あの時とは違う、もっとはっきりとした感覚が、じわりと広がっていくのを感じたのだ。


 罪悪感や自己嫌悪とは別に、存在する、奇妙な感覚。それは、ほんのりとした温かさにも似た、背徳的な高揚感だった。足の裏に、まだ微かに残っている、硬い殻が砕けた時の感触。プチッという、あの小さな音。それが、不謹慎にも、私の神経を微かに刺激する。


 萌が言っていた「快感」の、ほんの入り口に、私は触れてしまったのかもしれない。意図せず、偶然に。しかし、一度知ってしまったこの感覚は、否定しようとすればするほど、私の意識に強く焼き付いていくようだった。


 私は、逃げるようにその場を走り出した。駅までの道を、息を切らして走る。早く忘れたい。今の感覚を、消し去ってしまいたい。


 翌日、レッスンスタジオで萌と顔を合わせた時、私は平静を装うことができなかった。彼女の顔をまともに見られない。昨日の出来事が、罪悪感と共に、あの奇妙な感覚の記憶を呼び覚ます。


 萌は、そんな私の様子を、注意深く観察しているようだった。そして、レッスンの休憩中、二人きりになったタイミングを見計らって、声をかけてきた。


「麻子先輩、昨日、何かありました?」


 その問いかけは、確信を持っているかのようだった。私は、ぎくりとして顔を上げた。


「え……?な、何もないけど……」


「そうですか?」萌は、私の目をじっと見つめてくる。その瞳は、全てをお見通しだと言っている。「なんだか、様子がおかしいから。……もしかして、帰り道で、何か踏んじゃいました?」


 その言葉に、私は息を呑んだ。見られていた?いや、そんなはずはない。あの路地裏に、萌はいなかったはずだ。これは、カマをかけているだけなのかもしれない。


 でも、私は、もう嘘をつくことができなかった。罪悪感と混乱で、精神的に追い詰められていたのかもしれない。私は、俯きながら、小さな声で答えた。


「……うん。……ダンゴムシ、だったと思う。……気づかなくて……」


「ああ、やっぱり」萌の声は、驚くほど穏やかだった。責めるような響きは全くない。「大丈夫ですよ、麻子先輩。事故なんでしょ?誰にでもあることですって」


 その優しい言葉が、逆に私の罪悪感を刺激した。私は、顔を上げることができないまま、呟いた。


「でも……なんだか……変な感じが、したの……」


 何を言っているんだ、私は。こんなことを、萌に話すべきではない。なのに、言葉が勝手に出てしまう。


 萌は、黙って私の言葉を聞いていた。そして、私が言い終わると、ふっと息を吐き、言った。


「変な感じ……ね。……まあ、そういうことも、ありますよね」


 そして、彼女は、そっと私の肩に手を置いた。


「気にすることないですよ、麻子先輩。……でも、もし、またそういうことがあったら……今度は、私に話してくださいね。一人で抱え込まないで」


 その言葉は、悪魔の囁きのように、私の心に染み込んできた。優しい言葉。理解を示してくれるような態度。しかし、その裏にある、彼女の本当の意図を、私は感じ取っていた。彼女は、私を、自分の世界に引き込もうとしているのだ。


 そして、私は、その誘惑に抗うことが、もはやできなくなっているのかもしれない。私は、萌に対して、謝罪の言葉を口にしていた。


「ごめんね、萌……。変なこと言って……」


 なぜ、私が謝るのだろう。おかしい。間違っている。そう思うのに、萌の優しさに触れて、安堵している自分もいる。秘密を、たとえそれが歪んだものであっても、共有できる相手がいるという、奇妙な安心感。


「いいんですよ」萌は、にっこりと笑った。それは、あの公園で見せた、共犯者を迎え入れるような笑顔だった。「私たちは、仲間、ですから」


 その日を境に、私と萌の関係は、決定的な一線を越えた。私たちは、言葉には出さないまでも、互いを「共犯者」として認識するようになったのだ。萌は、私に対して、より親密さを見せるようになった。それは、歪んだ形での親密さだったけれど、孤独感を抱えていた私にとって、抗いがたい魅力があった。


 萌は、私を急かすことはなかった。けれど、巧妙に、状況を作り出すようになった。


 レッスンスタジオの隅に、小さなクモがいるのを見つけると、彼女は私の袖をくいっと引っ張る。

「あ、麻子先輩、あそこに……」

 そして、私の反応をじっと待つのだ。私は、数秒間、葛藤する。踏むべきではない。でも、萌が見ている。そして、私の心の奥底にも、あの「感覚」を確かめたいという、黒い衝動が渦巻いている。


 最初に、意図的に踏んだのは、そんな時だった。萌の視線に促されるように、私は、履いていたレッスンシューズで、そっとクモを踏みつけた。ぐにゃり、という、あの嫌な感触。罪悪感が胸を刺す。でも、同時に、ほんの少しの達成感と、萌と秘密を共有しているという、倒錯した喜びが湧き上がる。


 萌は、それを見て、満足そうに微笑んだ。

「……麻子先輩、上手ですね」

 その言葉が、褒め言葉なのか、それとも嘲笑なのか、私には判別できなかった。


 そんな小さな「共犯行為」が、少しずつ繰り返されるようになった。最初は、抵抗があった。罪悪感に苛まれた。でも、回数を重ねるうちに、その感覚は麻痺していく。代わりに、靴底から伝わる感触、微かな音、支配感、そして何よりも、萌と二人だけの秘密であるという背徳感が、確実に「快感」へと転化していくのを、私は自覚せざるを得なかった。


 特に、白いエナメルのパンプスで踏む時は、その感覚はより一層、鋭敏になった。清楚さの象徴である白い靴で、汚れたものを踏み潰すという、その行為自体が持つ倒錯性。硬いヒールが甲殻を砕く感触。靴底のギザギザの溝にこびりつく、おぞましいはずの汚れ。それらが、私の心を蝕み、同時に、奇妙な形で満たしていく。萌が言っていたことの意味を、私は、体験を通して理解し始めていた。


 もう、後戻りはできない。


 私は、自分が境界線の向こう側に足を踏み入れてしまったことを、はっきりと自覚していた。萌との共犯関係は、日増しに深まっていく。二人だけの視線、二人だけの会話、二人だけの秘密の行為。それは、常に罪悪感と破滅の予感に彩られているけれど、同時に、抗いがたい甘美さを伴って、私を虜にしていた。


 次のライブステージが、数日後に迫っていた。会場は、大きな屋内アリーナ。衣装は、もちろん、あの白いドレスと、白いエナメルのパンプスだ。リハーサルの合間、ステージの立ち位置を確認している時、ふと、照明に照らされた床に、何か小さな黒いものが動いているのが見えた。おそらく、どこからか迷い込んできたのだろう、小さな甲虫だ。


 私の隣には、萌が立っていた。彼女も、それに気づいたようだった。私たちは、同時に視線を交わす。言葉はない。ただ、互いの瞳の中に、同じ種類の光が宿っているのが分かった。


 踏むのか、踏まないのか。


 その選択は、もはや私一人だけのものではない。私たち二人の、共犯者としての選択だ。


 心臓が、期待と罪悪感で、激しく高鳴る。観客のいない、がらんとしたアリーナに、私たちの息遣いだけが、妙に大きく響いているように感じられた。

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