エピローグ

風が、穏やかに吹いていた。


それは崩壊域に吹く乾いた風ではない。

静かに大地を撫で、草を揺らし、命の気配を運んでくる、確かな風だった。


セリオスは目を閉じ、微かな震えに耳を澄ませた。

あの戦いのあと――世界は、静かに、しかし確実に再生を始めていた。


グランデルムの消滅とともに、最終崩壊域はその姿を失い、まるで夢が覚めるように消えていった。

瘴気は晴れ、断絶していた空と地が静かに結び直される。

世界は、ようやく“呼吸”を取り戻しつつあった。


その終焉の中心で、セリオスは再び“神”と出会った。


そこにいたのは、異形ではない。

ただ、淡い光の輪郭をまとった、静かな存在。


「これが……お前の本質か」


セリオスが呟くと、光はかすかに揺れた。


声ではない。だが、胸奥に直接響いてくる感覚があった。


――私は、人々の争いに心を痛めていた。

だが私には、何もできることはなかった。


その痛みは、やがて悪夢へと変わった。

私は、救いを必要としていた。


だから君たち、適応者に力を渡し、頼った。


しかし、悪夢から救われた私は、長い眠りに入らねばならない。

深く、長く、終わりのない沈黙の眠りに。


そのあいだに、私は人々に忘れられていくだろう。

そして私は――人々を、忘れてしまうだろう。


その恐怖が、グランデルムという形になった。


その告白は、どこか祈りにも似ていた。


(……神は、“孤独”だったんだ)


誰にも届かぬまま、何もできずに記憶を抱え、

ただ崩壊の果てを見つめ続けてきた存在。


それは記録者の役割そのものだった。

だが、世界のすべてを背負うには、あまりにも重すぎた。


「だから、光の記録者が必要だったんだな」


セリオスの言葉に、神は静かに頷いた。


ーー君は、永く生きることになる。

それでも、頼ってもいいのだろうか?


その問いは、過去に幾度となく、彼自身が心の奥で繰り返してきたもの。


セリオスは、迷いなく答えた。


「記す。忘れない。お前の目が醒める時まで……」


その答えに、光がやわらかに揺れた。

まるで、安堵の吐息のように。


ーーありがとう、記録者よ。

君の灯火が、私の代わりに世界を照らすだろう


次の瞬間、神の姿は音もなく、風のように消えていった。


残されたのは、静寂。


だがその静寂には、確かな温もりと、終わりの祈りが宿っていた。


世界は変わり始めていた。


適応者たちは“使命”から解き放たれ、日常へと帰っていく。


ミレアは孤児院を立ち上げし、ライゼは気ままに旅を続け、

シュリオは癒しの術を次代に伝える教師となり、

ガルドは山奥の工房で、斧を鍛えながら気ままな暮らしを選んだ。


誰もが、それぞれの道を歩んでいた。


戦うための力は、もはや彼らを縛るものではない。

生きるための力へと変わり、それぞれの小さな光となった。


だが――


セリオスだけが、なお歩き続けていた。


砂の果て、忘れられた谷、誰も来ぬ廃墟。

記録者としての旅は、終わらなかった。


彼の手にあるのは、剣ではない。

記録の書。

それは、世界の“痕跡”を記し続ける。


祈りも、絶望も、戦いも、別れも。

過去もこれからの、日々の記憶を誰かが忘れてしまっても、

この書の中には確かに残っている。


風が吹いた。


彼は立ち止まり、ひとつ深く息を吐いた。


空は、どこまでも青く澄んでいた。


「……今日も、記していこう」


その小さな声は、祈りのようだった。


そして彼はまた歩き出す。


世界が記憶を失っても、

誰かが生き、笑い、願った痕跡を――


そのすべてを、光として残すために。


世界の灯火としてーー

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境界線の灯火 ギズモ @gizmoAI

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