竜鳴き山-下山



 竜亡き山から穏やかな風が吹き始めた頃、一人の青年と一頭の獣、そして一人の少年の姿は山の麓にあった。

 ユールクは初めて、山の向こう側に足を踏み入れていた。目と鼻の先に見た事もないレンガ造りの街があり、山の様変わりを見た人々が何事かと姿を見せている。


「あの街に駆け込めば、彼らはお前を助けてくれるだろう」


 ぼろぼろの青年はそう告げながら、火々獣を撫でていた。

 ユールクたちは金銀財宝に目もくれず、山を越えてきた。ただ、竜の角を竜殺しの証として持ってきただけだ。


 あの後、ユールクが見たのは命の循環に他ならなかった。死した竜の気配を察したか、隠れていた獣たちが彼の亡骸に近付いてきたのである。黒衣の近くからは、草が芽吹き始めていて、臆病な野兎さえも顔を出していた。


 どのように残虐な存在でも、死ねばみな同じである。どこかへと還っていく。いつか父母や亡き祖父が語った命が巡るという言葉の真意を、ユールクは何となく、自らの感覚として知れたような心地がした。


 今は獣たちが命を取り戻す時間だ。それが終われば、金銀も人々のところへ戻るだろう。そうして、竜鳴き山に別の竜がやってくる。ユールクはそう確信して、青年と山を下りたのだった。


「街で休まないんですか?」


 ユールクがそう訊ねると、青年は首を横へと振った。このままゆく。まだ黒衣の一族は残っている――彼が言わずとも、少年には分かっていた。


「じゃあ、ここでお別れなんですね」


 山を下りる時、彼は何度も青年についていきたいとせがむか迷った。だが、そうしないことにした。だから青年と火々獣の側から離れて、弓といくばくかの荷物を背負い直した。山を登る時より、荷物はずっと軽くなっていた。


「お気を付けて」


 ユールクは青年に手当てしてもらった頬の傷跡を撫でながら、はにかんだ。


 元の毛色に戻った火々獣はといえば、相変わらずユールクに興味がなさそうな様子でそっぽを向いていた。


「あいさつだけでもしておこう。彼のおかげだ」


 青年が火々獣の首あたりを軽く叩くと、彼女は嫌そうに目を細めた。彼女は一吼えすると、鳥肌でも立ったのか、身体を振るう。ユールクがその仕草に笑うと、彼女は一歩踏み出してうなる。少年が慌てて身を引っ込める。青年は一度だけ、肩をすくめた。


 ユールクは青年の相棒ではないが、確かに青年と魔狼の仲間だった。


「ああ、そうだ」


 青年は、ふと自らの衣の懐を漁った。そうして、きらめく何かをユールクへと放り投げた。少年がそれを受け取ってしげしげと眺め始める。それは、白くきらめく金属の板だった。


「生活の足しにするといい。おれには不要だ」


 少年は返事もせず、じっと金属板を眺めていた。白金の板には、文字が記されていた。指でその凹凸をなぞって、彼は声に出す。


「ギュスターヴ」


 その音が何を意味するか理解した時、少年は顔を上げて青年のかんばせを見た。


 金銀に目もくれぬ彼が、人の財を持っているわけはない。これはきっと、目の前の青年が西の果てにいて、騎士だった頃のものだった。そして、自分に向けられた、最初で最後の名乗りだった。


「ありがとうございます。これがあれば、ぼくは、ずうっと生きていけます」


 もう一度、ユールクは胸の中でその名前を唱えた。それだけで、また少年の胸はいっぱいになった。売るなど考えもつかなかった。この響きさえあれば、おそれを抱いても前に歩ける気がした。


「ユールク」

「はい」

「お前は一人だ」

「……はい」

「だが、ゆえに自由だ。望むよう生きろ」

「はいっ!」


 ユールクは返事をしながら、赤紫の目をじっと見つめた。この色を忘れないようにと、焼き付けた。青年は彼の様子を見て、わずかに唇の両端を持ち上げた。それは、不器用だけれど優しい、彼そのものの笑みだった。


「汝に末永く、火の加護がありますよう」


 青年は異国の祈りと思しき言葉を最後に、火々獣にまたがって駆け出した。ユールクは我に返って、走り出す。


「あのっ! 悲しむ人はいませんが、心配する者はここにいます!」


 彼との距離が離れきってしまう前にと、声を限りに叫んだ。花咲く大地を蹴って、転びそうになりながら、彼に叫び続ける。


「いつか! いつか会いに行きます! 馬に乗れるようになって、もっともっと強くなったら! 必ず会いに行きます! だから、ギュスターヴ様!」


 森に消える前に、青年と火々獣は一度だけ振り返った。立ち止まったユールクはできるだけ笑顔でいようと思ったが、それはくしゃくしゃの泣き笑いになっていた。


「それまで、生きてください! 約束ですよ! 約束ですからね!」


 返事の代わりに片手を挙げ、青年と魔狼は鬱蒼と茂る森の奥へと溶けるように消えていった。


 ユールクはその輪郭がまなうらから消えるまで、じっとその闇を見つめていたが、彼の名が記された宝物と角を手に、街の方へと向き直った。


 まだ自らのさだめも知らぬ少年の背を、竜鳴き山から吹く風が優しく押していた。

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竜鳴き山にて mahipipa @mahipipa

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