竜鳴き山-頂上

『おお、おお。よくよく見れば、その衣。見覚えがあるぞ』


 不意に、黒衣が青年を真正面に捉えてそう呼びかけていた。まだ。あと少し。


『西の果て。ああ、あの国だ。わしらが初めて焼いてやった国に、かような布をまとった人間がおった』

「覚えているか?」

『布、布。ああ、何だったか。そう、騎士だったか。民一人守れもせぬ無意味な者の布だ』


 ユールクはあがきながら、青年と黒衣のやりとりを聞いていた。彼の声は静かなのに、風の中でもよく通った。


 ――遠い西に、伝説の地があると聞きました。


 少年は小刀を掴んだと同時に、自らが語ったその伝承を思い出した。しかし、彼はそれを振り払った。力を振り絞った。小刀を懐から引き抜いた。そうして、無我夢中で黒衣の爪と肉の柔いところに突き立てた。彼自身の力で突き通せるのは、もうそこしか考えられなかった。


(この瞬間に戦士様が射ってくれれば!)


 突然の反撃に、黒衣が叫びを上げる。動物が反射を持つように、黒衣もまた反射でユールクを手放した。


(ああ。ほんとは戦士様のこと、聞きたかったな)


 重力加速度に手足を掴まれながら、ユールクは最期にひと目と青年を見た。彼は火々獣にまたがって、大地を駆けていた。

 わずかな衝撃があった。気が付くとユールクは青年の腕の中にいた。


「そうだ。おれはお前たち黒衣の一族に国を滅ぼされたものだ」


 何が起こったか分からないユールクは、きょとんとして青年の言葉を聞いていた。彼の双眸は、黒衣に向いていたけれど、声ははっきりと聞こえていた。


「守れず、救えず、西の果ての国で、ただ一人生き残ったのがおれだ」

「ど、どうして」


 ユールクの発した「どうして」は、黒衣を射ずに自分を助けたことへの問いだった。けれども、青年は言葉を続けた。


「森の奥に瀕死で這いずって、彼女に出会った。竜に後塵を拝した一族の誇りを取り戻すことが彼女の夢だった。ゆえに、おれたちは取り決めを交わした」


 青年は一度だけ、ユールクの頭に触れた。ごつごつとした歴戦の手から、少年は温もりを感じた。急に、死を覚悟したことも怖くなって、涙が滲んだ。


「おれの全てをくれてやる代わりに、共に『黒衣の一族』を皆殺しにする――貴様らを殺す願いが叶うなら、おれ一人の命など安いものだ」


 青年の声は、今までのどれよりも優しく、寂しい色を帯びていた。

 何も言わず、ユールクは青年にしがみついた。その時、ユールクの中で、青年は確かに『ユールク』になった。彼もまた、いつか平和に暮らしていた日を失った誰かだったのだ。


『そのために、そのために日陰者の雌犬なぞに心臓をくれてやったのか! なんと哀れな!』


 黒衣は哄笑を隠さなかった。羽ばたいて、再び高みに至ると、老いた肺にありったけ息を詰め込んで、炎を吐き出した。頬を撫でた熱波よりなお熱い灼熱の光が迫ってくる。今度は戯れではないと、少年にも分かった。


「ユールク」


 光の目前で、青年が再び口を開いた。その手に竜殺しの矢が入った矢筒を持ち、少年へ差し出しながら。


「あいつの胸にある逆鱗を狙え。できるか」


 ユールクは矢を受け取って、光の中でも見失わないよう、しっかりと握りしめた。そうして、自ら青年から離れて、火々獣にしがみついた。


「できます! 絶対にやります!!」

「分かった」


 火炎の息吹に、火々獣は自ら飛び込んだ。


 ――かつては竜とこの世の炎を二分し、敗北はすれど未だ竜の天敵として名を残す!


 ユールクは、炎を吸った彼女の黒い毛並みが、燃える炭のように赤く輝くのを見た。炎は少年と青年を燃やすことなく、ただ、火々獣の毛や口に喰われて霧散していった。


 彼女が吼えながら灰の大地を蹴り、黒衣の喉笛に飛びつく。だが、それでは届かない。彼女の牙は空を切る。今度は青年が剣を引き抜きながら、火々獣の背を蹴り、黒衣の傷ついた前肢を掴んだ。


『愚かな、愚かな人間! なぜわしを殺そうとする! 手向けか! 祈りのつもりか!』


 初めて、黒衣の声に焦りの色が見えた。彼は激しく羽ばたいて、青年を振り落とそうとする。けれど、超人的な力を持つ青年は、身体を振り子のように大きく振って、前肢から竜の背中に飛び乗る。赤紫の瞳をぎらつかせ、歯を剥いて刃を振り上げる。


「復讐だ。復讐以外にあってなるものか」

『復讐、復讐だと!? 堕ちた騎士よ、何と哀れな!』


 竜と青年はもつれながら、空中を落ちてくる。かと思えば急上昇する。青年は竜の角を握りしめて、振り落とされないよう耐えている。


『失ったなら一からやり直せば良いではないか。それさえ分からぬほど堕ちたのか!』

「何とでも言え! おれは、お前と、お前の一族を許さない!」


 その最中、彼の激情が漏れて、ユールクの耳に届いた。彼の悲しみと怒りに満ちた目は、切実に輝いていた。泣いているようにさえ見えて、ユールクの喉をつっかえさせた。


『殺すことなぞ叶わぬ夢よ。わしは黒衣。老いてなお、この世の火を統べる竜の血脈ぞ!』


 ユールクは幾度となく放たれる火炎の吐息から火々獣と一緒に逃れ、矢をつがえて黒衣を凝視していた。彼のよろっている鱗にある、ただ一つの乱れ。それが逆鱗だ。


 竜のはばたく突風が、ユールクの柔らかな頬を裂いた。砂利や石つぶてが身体に当たって、いくつも擦り傷や打撲を作った。彼は、ただ歯を噛んで時を待ち続けていた。


(見えた!)


 それを、狩人の少年はついに見つけた。緻密な鱗の鎧の一点に、ほんのわずかな歪みがあった。青年は頑強な竜の首に剣を振り下ろし、黒衣の注意を引いてくれている。刃と鱗が衝突する。青年の力をもってしても、小さな傷がつくだけだ。だけれども、青年はユールクの方へ黒衣を向けぬよう、奮闘していた。


(ぼくが射て届けられるのは、きっと最初の一本だけだ。後は警戒されてしまう)


 弦を引く。引く。ありったけの力と祈りを込めて、引く。


 外れたら。青年に刺さったら。おそれはいくらでもあった。でも、ユールクの邪魔をすることはできなかった。許さない。殺してやる。そんな恐ろしい感情さえ、彼の渾身の一矢を阻めはしない。


(だから、当てる! それだけ!)


 ただ射って、当てる。矢を放ったユールクの中にあるのは、それだけだった。


『愚かな! 愚かな! 復讐など何のためになる! 死んだお前の友が、それを望むと思っているのか!』


 黒衣の逆鱗、そのわずかな隙間に、ユールクの矢が届き、鏃がめり込んだ。剣さえまともに通らぬ強靭な皮の内にある、筋繊維のひとつひとつを引きちぎり、深く深く刺し貫く。老いた心臓を、強大な命の象徴を穿つ。老竜の叫びが、山の全てを震わせる。


「悲しんでくれる者は――」

「――もういないんだ!!」


 中空で動きを止めた老竜に、二人は同じ言葉を唱えていた。青年の剣が矢で動きを止めた竜の首をとらえた。何度も剣を突き立てて作った傷口から強引に刃を差し込んで、力ずくでねじ込むと、ついに黒衣は大地に落下した。


 青年も力尽きたように剣から手を離し、地面に投げ出された。


「戦士様!」


 ユールクがそう呼びかけるのと、火々獣が青年のところへ到着するのは同時だった。目を閉じ、疲労しきった様子で胸を動かす青年は、戦狂いとは程遠い、優しい顔立ちをしていた。


『何故だ……』


 うっすら目を開けた青年の頬に触れようとしたユールクは、ぎょっとして黒衣の方を向いた。黒衣は首を半ばまで落とされながら、最期の息を漏らしていた。


『お前達、人間とて、戯れにからかうだろう。蜥蜴の卵を潰すだろう。何故、わしばかりが、遊興を咎められねば、ならぬ……』


 それを聞いたユールクは何か反論してやろうと思った。だけれども、そうしなかった。代わりに灰色の空を仰いで、蜥蜴の報復や、老いさらばえた竜の来歴に想いを馳せた。

 老竜の金の瞳は、もうどこも見ていなかった。

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