それはあなたのための傷痕

狂フラフープ

右の拳

 頬の下の砂粒が脂汗で張り付いて、縮こまった身体を幾つもの手が殴りやすいよう引き摺り回して次の痛みの順番待ちをしている。

 彼ら賊徒は肌の色さえ違う異邦人の集まりで、私は彼らが遠出した先で調達した子供だったから、私の周りにはただのひとりも私と同じ言葉を使うものは居なかった。そういうものは皆彼らが殺してしまった。

 日差しが焼いた砂地にはごく細かな小石が混じり、横倒しで息をするのが精一杯でも、それは一応ましではあった。

 告げ口もできない私だが、顔はもちろん身体のどこに跡を残してもまずい。つまり彼らも彼らの頭目、この暴力の頂点である私の持ち主が怖い。いくらかの手心と壁に縋って、私は胃液を吐き終え寝床へ這った。


 殴られないことが誇りだった。

 彼女の率いる賊徒の群れで、私は彼女の世話をしていた。その抜きんでた暴力にも関わらず、彼女は手首から先の利き腕が無く、その喪失は私が埋めた。彼女の肩ほどの背丈もない私は、彼女の行く先々について回り、右手に代わってものを拾い、道具を使い、火を起こし、彼女は主人で、私は文字通りのその右腕だった。


 ようやく主の廃屋近くまでたどり着いた私は、またぞろ振るわれる暴力の気配を嗅ぎ取った。

 殴っているのは主だ。片手しかないのが嘘のように滞りなく、まるで楽器でも奏でるように足元の襤褸切れを叩きのめしている。

 暴力には良く動く指も手も、上等な義手だって必要ない。仮に左手も両脚も無くしたとて、それでも彼女は誰より上手く暴力を扱っただろうという確信があった。

 鈍音が響き、血が散る。それはまるで殴る方と殴られる方の共同作業に思える。痛みに身を捩った先で、拳に吸われるように次の暴が待ち構え、寸分の狂いもなく打撃が嵌まる。

 思えば私がその暴力から目を離せなかったのは、そこに見出した美しさ故だった。私を嬲るちんぴらどものそれとは明らかに異なるそれを、味わったことのない私はどこか羨望にも似た想像の翼を広げる。

 腹の奥に昏い炎が、現実の身体の鈍い痛みと軋みとは異なる甘美な錯覚で内側から私をくすぐる。


 飼い主が足元の誰かを引き摺り上げて、それでようやく相手が知れた。それは私と歳もそう変わらないであろう少女で、私が恐らく頭目の娘だろうと推測する相手だった。

 少なくとも血の繋がりは顔立ちから知れる。もっともその顔も今は紫斑だらけに腫れ上がり、長い髪の合間から真っ赤に溢血した眼球が――、

 目が合った。

 視線に射竦められ私は尻餅をつく。二つの血塗れの眼が、私を睨み据える。

 私を見た。私だけを見たのだ。その瞳は嵐が過ぎ去るのを震えて待ってはいない。 

 そして私を心胆から凍らしめるその視線が、鳩尾を蹴り上げる主のつま先に断ち切られ、壁に叩きつけられた少女は力なくくずおれる。


 歩み寄る無言の主に、私は二の腕を掴まれ連れられた。生きているかさえ知れない有様の娘を置き去ったまま、主は自分のねぐらに私を放り込むと、閂を締めて頭を撫でる。

 それは服を脱がせろという指示で、主の服を脱がせ終わると私は同じく自分自身の粗末な布切れを剥いて放る。下着姿になった私を、主は掴んで引き寄せるといつものように寝藁に引きずり込んで抱き締めた。

 この人が私を殴ることは一度もなかった。

 彼女は私だけをこうした。あれほどの美しい力を振るう人の、誰も抗えない暴を振り撒く人の、私だけが特別なのだと、血塗れの硬い手に優しく抱かれ、私はその夜も安らかに眠りについた。


 夜半過ぎ、目が覚めたのは不意に感じた寒気のせいで、寝藁から這い出した私は隙間風の出所を探して窓辺に寄った。隙間から見える空に大きな月が掛かっていて、けれど月とは別の影の揺らめきに私は不意に足を止める。

 入り口には確かに主が閂を掛けたはずなのに。

 振り返った視線の先に、私と同じ背丈の影が直立していた。

 通路から照らす松明が陰の中の少女の横顔を映し出す。私は手の届く位置にあった皮袋ひとつ引っ掴むと、窓枠を裸足で踏んだ。

 主の胸に欠けた剣を迷いなく突き立てるその眼差しが、彼女の母親とまるで同じだったからだ。

 私は走った。

 纏わりつく夜の砂漠の凍えた砂が、寒さを越えて足裏を苛む痛みを、私は今でも夢に見る。



 底冷えに凍えた夜に目が覚めて、無意識に温い子供の体温を探す。

 暗闇の少し離れた場所に少女の柔肌を探り当てて、寝返りで逃げ出したそれを私は無造作に抱き寄せた。

 あれから十と六年が経つ。

 郷里へ戻っても、かつての生活は取り戻せなかった。野盗に加わり、私を殴る頭目の下で人の殺し方を覚えた。

 旅人を襲い、村を焼き、商隊から掠め取って糊口を凌ぐ。

 殺し、殺し、頭目を殺して野盗の主に成り代わると、私はより大きな暴力の渦へと手下どもを連れて身を投げた。

 金品と食糧を根こそぎ略奪し、抵抗すれば全て殺した。女も子供も関係なく殺し、一人だけ、肌の色の違う言葉の通じない少女を連れて帰った。少女は少し仕込めば懸命にわたしの世話を焼くようになり、その娘以外には誰にだって暴を振るった。膝も肘も掌も、つま先も棒切れでも石でも刃物でも何でも使ったが右の拳だけを使わなかった。

 時を経て僅かずつ、憧れは理解へと置き換わっていく。

 人の肉を殴る度、私はあの人に近付いていく。秘訣は何より殴る相手を知ることだった。同じ暴力などひとつとしてない。

 夜が明ける。寝床から這い出すと、私を探して寝ぼけた少女が寝藁を這ってくる。それを抱き留めて撫でると、少女は私に服を差し出した。

 飯の途中、牢に繋いだ虜囚が暴れていると聞き、ひとしきり殴ってから事情を聴く。徴税官の屋敷から連れ帰ったその男は、奴隷として売られるのを拒んだらしかった。

 読み書きと計算と、他所の国の言葉でもいくらか扱える。

 血反吐と一緒に吐き出されるくだらない言葉の羅列の中に、私は幼い日を過ごした異郷の名を見つけて拳を止めた。

「これが読めるか」

 懐に仕舞ったいくつかの紙切れを見せると男は壊れたように首を縦に振り、跪いて受け取った。

 それはあの夜に持ち出した革袋の、使い切るなり売り飛ばすなりした中身の最後のひとつだった。

 あの人の書いた手記だった。

 利き腕を失って尚、これほど美しい文字が書けるのだと、あの暴力を生み出すのと同じ手が記したのだと、私が何度も読み返した読めない書付の束。踊るペンを背中越しに飽きずに見つめたあの頃の残滓。

 男の指が頁を捲り、その文字が何を意味するのかを私に語る。

 子供か何か、とにかく幼い娘へ向けた手紙だ。

 読み上げろ。短く言い放ちながら私は密かに色めき立ち、その男の続く言葉を待った。

 ――愛している。いつか私諸共により大きな暴力に呑まれて消える運命を、きっとお前が乗り越えられることを願っている。お前の母より。

 それは、私が初めて耳にするあの人の言葉だった。


 男をそのまま殴り殺すと、私は自分のねぐらへ引き返した。

 返り血を目にして凍り付く少女の二の腕を、私はあの日の主のように乱暴に掴み、寝藁の上に引き倒す。

 少女のか細い悲鳴が私の耳朶を打つ。

 本当は。

 はじめから分かっていたのではないか。

 恐怖と力でもって上に立つあの人が、身の回りの世話を誰かに任せるとしたら、それは自分に依存し、他の誰とも結託することのない者である必要があった。

 肉越しでも骨のわかる華奢な身体のこわばり。

 こちらを伺う卑屈な目。この子は私に愛されてなどいなかったし、私もまたあの人に愛されてなどいなかった。

 わかりきったことだ。

 裏切らなければそれでよかった。同じやり方を、私は何故選んだ?

 私がこの子に言葉を教えなかったのは、彼女が私に言葉を教えなかった理由と同じではないのか。

 困惑する瞳と私の視線が繋がって脳裡で弾ける。

 寄る辺ない者にとって、誰かの暴力にすがって生きるのはきっと何より幸福なことだと、私は身をもって知っているはずだ。

 それでも私は。


 私は抱き寄せ、右の拳を握り締める。

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