第四章 不死身 (七)
あの地獄の日から一年以上が経過した。
この日、朝靄の残る街路を抜けて、一桜と
「……いらっしゃい、って。まあ、こんな朝早くから、もう身体の方は大丈夫なのかい?」
茶屋の奥から、おばちゃんが顔を出した。小柄な体に
「ええ、もう大丈夫です。……今日は、お別れの挨拶に来ました」
一桜が深く頭を下げる。玖波もそれに続いた。
「なんだい、また厄介な依頼かい?」
「ええ、まあ。今度はちょっと、長くなりそうでして……。東京
おばちゃんは湯呑を三つ用意してから、黙って湯を注いだ。その動きは変わらぬ落ち着きと慣れがあったが、ほんの少し、手の動きが遅くなったようにも見えた。
「そうかい。……あんたたちは、いつも変な依頼ばっかり持ち込んで、やれ
苦笑まじりに、湯呑を差し出してくる。
一桜は両手で受け取った。
「助かりました。おばちゃんの茶屋があったから、ここで情報も手に入ったし……何より、心が休まりました」
「ふん……うまいこと言って、茶代を踏み倒す気じゃないでしょうね?」
「とんでもないです……」
思わず苦笑が漏れる。おばちゃんもまた、肩をすくめた。
「まあ、無事で帰ってきな。おかえり、って言える場所ぐらい、残しといてあげるよ」
玖波が、そっと茶碗に口をつけた。その表情はいつになく柔らかい。
「ありがとう。ここに来て……この茶屋に出会えて、本当に良かったと思ってる」
おばちゃんはふいに立ち上がると、棚から包みを取り出した。風呂敷に丁寧に包まれたそれを、一桜に手渡す。
「旅の途中で腹が減ったら、開けな。あんたの好きだった
「……恐縮です」
一桜はぐっと喉の奥に何かが詰まるのを感じながら、深く頭を下げた。
「じゃあ、行ってきます。帰ってきたら、またあの席を使わせてもらっていいですか?」
「ばか言ってんじゃないよ。あんたたちの湯呑は、ちゃんと取ってあるさ」
そう言って、おばちゃんは笑った。その笑顔は、春の終わりの陽だまりのように、温かくて、どこか切なかった。
外に出ると、朝の光がようやく街を照らし始めていた。
人々の暮らしが、静かに動き出す気配。
「……戻ってこられるでしょうか」
一桜がぽつりとこぼす。
「さあ。でも、戻りたいと思う場所があるって、それだけで十分よ」
玖波の言葉に、一桜は黙って頷いた。
旅路の始まり。けれど、心には、戻る場所のあたたかさが、しっかりと刻まれていた。
昼過ぎの陽が傾きかけた頃、二人は裏路地に面した小さな蕎麦屋の
看板の字はかすれ、軒先の杉玉も少し色褪せているが、店の中には相変わらず香ばしい出汁の香りが漂っていた。
「……いらっしゃい。って、なんだ、あんたたちか。身体の方はもう大丈夫そうだな」
奥から顔を出したのは、蕎麦屋の若旦那
「ええ、今日もいい香りですね」
一桜が軽く笑うと、
「昼を食いに来たんなら座れ。……ただし、タダ食いは駄目だぜ。あのお嬢さん連れだと、いつも何かと物騒な話がついてくるんだからな」
「あら、挨拶に来ただけなのに」
玖波が微笑むと、
「何だ、今度はどこへ行くんだ?」
「東京を離れます。長く……なるかもしれません」
「また
銀次はそう言いながら、厨房に戻っていった。
しばらくすると、湯気の立つ蕎麦が二人分、卓に置かれた。
「これは……」
「食ってけ。祝いだ。無事を祈る蕎麦ってやつさ」
「でも、今日は金を……」
「いいから食え。二人分だけだぞ」
若旦那はそう言って、椅子にどかりと腰を下ろした。
箸を取りながら、ぽつりと続ける。
「俺には妖のことなんて分からねえけどさ。あんたが命張ってるのは知ってる。町の連中だって、噂じゃ『
一桜は苦笑しながら蕎麦をすする。喉を通る温かさが、腹だけでなく心にも沁みた。
「……ありがとうございます。ここで食う蕎麦が、一番好きでした」
「帰ってきたら、また食わせてやる。無事でな。死んだら味が分からんからな」
「はい」
銀次は、一桜の返事を聞くと、どこか照れたように視線を外した。
「それにしても、そっちのお嬢さんもよく付き合うよな」
「そうですね。……でも、嫌いじゃないわ。むしろ、結構好き」
玖波がにっこりと笑った。
銀次は苦虫を噛んだような顔で、わざと大きく咳払いする。
「……うちの蕎麦は妖除けの御利益はないからな。せいぜい気をつけろよ」
「ええ。帰ったら、また来ます」
店を出るとき、暖簾の向こうで若旦那がぽつりと呟いた。
「ちゃんと帰れよ……馬鹿野郎」
それは、確かに聞こえるか聞こえないかの声だったが、一桜も玖波も、しっかりと背中で受け取っていた。
港に近づくと、潮の匂いが風に乗って運ばれてきた。その匂いを嗅ぐだけで、一桜は自然と背筋が伸びるのを感じた。あの夜、海坊主と相対した時の、あの得体の知れない恐怖が脳裏をよぎる。
「おーい、こっちだ!」
目を向けると、船の影からごつい腕を振る男の姿。
「浦重さん、わざわざすみません」
一桜がそう頭を下げると、浦重は大げさに手を振って笑った。
「なに、礼なんぞいらねぇ。命張って化け物から港守ってくれた恩、こっちの方がでけぇよ」
彼は歩み寄ると、一桜の肩に手を置いた。
「身体の方はもう大丈夫そうだな·····あんなにぼろぼろだったのにな」
「ええ、もう歩くことはできますし……旅先で倒れても、たぶん玖波が何とかしてくれます」
「何とかしませんよ」
玖波がにこやかに言う。だがその目は、ちゃんと一桜を見ていた。
浦重は笑いながらも、どこか淋しそうに船の縁を指でなぞった。
「……正直、もうちょっと話したかったんだがな」
「また、あえますよ」
「ふっ……そうかい」
浦重は懐から、油紙に包まれたものを取り出して一桜に差し出した。
「何ですか、これ?」
「干しダコだ。お守り代わりだ。旅先でも食えるし、海の厄除けにもなるってな。昔からの漁師の知恵だ」
一桜はその包みを両手で受け取った。潮の香りがほのかに香る。
「ありがとうございます、大事にします」
浦重は深く頷くと、玖波の方をちらりと見た。
「玖波さん。あんたも、そいつを頼んだぜ。変に格好つけるところがあるからな、こいつは」
「ええ、ちゃんと見てます」
玖波が静かに、でも力強く答える。
浦重は口元を緩めて、空を見上げた。雲の切れ間から、春の陽が差し込んでいる。
「まったく、怪異だの妖だの、俺にはさっぱり分からねぇ世界だったが……あんたたちと出会って、少しだけ信じる気になったよ」
「そんなの信じない方がいいですよ」
「でもな·····この目で見たしな」
浦重はふっと顔を近づけて、声を落とした。
「海坊主だけは、二度と見たくねぇ」
「俺もです」
二人は笑った。
握手の代わりに、浦重は力強く一桜の背を叩いた。
「じゃあな、妖邏卒。お前がいれば、どこだってきっと守れるさ」
「……ありがとうございます。浦重さんも、どうか無事で」
そうして二人は港を背にし、次の土地へと歩き出した。
背後で、潮の音とともに、男の大きな声が響いた。
「いつか、土産話でも聞かせに戻ってこいよ!」
一桜は振り返らず、ただ右手を高く上げた。
春風に、その影がゆっくりと揺れていた。
旅立ちのの日の前日。夕暮れの日本橋。風が川面を撫で、橋を静かに吹き抜けていく。
街のざわめきもどこか遠く、ここだけが時間から切り離されたようだった。
玖波が足を止めて、
ふたりの影が橋の上に寄り添って長く伸びた。
「約束、覚えてる?」
玖波がぽつりと呟いた。
「約束……ですか?」
一桜は首をかしげる。
「覚えてないの?キスって言ったでしょう、あの時」
「……ああ、それは……釣りの話でしたか?」
一桜は真顔で答えた。玖波は一瞬ぽかんとし、それから口元を覆って笑い始める。
「フフ……やっぱり、あなたって、ずるいわね」
「え、何か間違えましたか……?」
その瞬間だった。
玖波が一歩近づいたかと思うと、そっと一桜の胸元をつかんで身体を引き寄せた。
そして、躊躇なく、唇を重ねる。
やさしく、短く――それでいて、心の奥に残るような一瞬。
「……これが、キスよ」
一桜は目を見開いたまま、固まっていた。
「……それは、魚じゃない、んですね……」
声が震えていた。
玖波は少し顔を赤くしながら、目をそらす。
「外国で教わったの。ずっと昔にね。でも、こうして自分がするとは思ってなかった」
一桜は頬に手を当てながら、ゆっくりと言った。
「……すごく、変な気持ちです。でも……嫌じゃなかった、です」
玖波は風に揺れる髪を押さえて、ふっと微笑んだ。
「あ、あの玖波さん……好き、です」
一桜は一年越しに気持ちを伝えた。
「フフ……遅い」
玖波は嬉しそうに恥ずかしそうに微笑んだ。
朝の空気はまだ冷たく、春を迎えたばかりの東京
日本橋の袂、まだ人通りのない時間帯。三つの影がゆっくりと伸びている。
一桜はすでに完治していた。背筋は伸び、顔つきも
玖波の隣に立つ姿は、どこか自然だった。
玖波はというと、あの尼削ぎだった髪は胸まで伸び、緩やかに風に揺れている。飾り気はないが、それだけで彼女の心に何か変化があったことが伝わった。
「なんか、ほんとに旅立っちゃうんですね。実感わいてきました」
「そうか?」
一桜が少し口元を緩める。
「だって、最初は死にかけてましたもんね。今じゃ、すっかり元気そうで」
「死にかけてたのは、そっちもだろ」
「えー、私はちゃんと逃げてたもん!」
そんなやり取りを聞きながら、玖波は静かに空を見上げた。まだ少し
旅立ちには少し寂しいが、ちょうどいい天気だった。
「やっとね」
玖波がぽつりとつぶやく。誰に言ったのかは分からなかったが、一桜はその言葉に小さくうなずいた。
「そうですね。·····まずはどこに行きますかね」
今になって遅いが何も決めてなかった。
「何か、良さそうな依頼状無いの?」
この一年間
「うーん。いくつかあります。とりあえず歩きながら決めますか」
玖波は短く答えて、一歩、彼に寄った。髪が風に流れて一桜の肩に触れる。
彼女の横顔はどこか穏やかで、けれどどこか照れくさそうでもあった。
千鶴がそれを見て、くすっと笑う。
「なーんか、いいですね。ふたりとも。あんまりいちゃいちゃされると、記事にしますよ」
「やめてくれ……」
一桜が苦笑しながら肩をすくめた。
旅路の先には、まだ何があるか分からない。
だが、この三人でなら、きっと大丈夫だ──そんな確信があった。
「行こうか」
一桜が言った。
玖波は黙って頷き、千鶴は「よっしゃ」と気合を入れる。
橋を渡れば、東京の喧騒も、かつての事件も、すべてが背後に遠ざかっていく。
春の風が三人の背を押していた 。
あやしみ~妖聞録~ 瑛夜瑛陽 @eiyaeiyou
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