まいにち、ここにいる

ひだまりこ

0話:ここにいる

団地の朝は洗濯機の音で始まる。


遠くのようで、すぐそばから聞こえてくるゴォォ……という水と機械の音。


それに重なるようにベランダのサンダルを引きずる音、外階段を上がる新聞配達の足音。


築四十年は経っている団地の外壁の塗装は何度か塗り替えられてきたけれど、年季の入った手すりやドアの傷は住人の数だけ思い出を刻んできた。


それでもこの団地は、今日も変わらず静かにたたずむ。


だれかがベンチにかばんを置いたままシーソーに座っている。

見えるのは小さな背中とランドセル。

朝の7時台に公園にぽつんと子どもがいるのはちょっと不自然だけど、この団地では“よくあること”のひとつ。


近くの棟では1階の窓がそっと開く。

中には、薄暗い部屋にポツンと座る中学生の姿。

彼は最近、学校に行かなくなった。

でも、誰もそれを騒がない。みんな気づかないふりをしている。


その隣の部屋からは今日も朝から軽快な音楽が聞こえてくる。

若いカップルの暮らすその部屋では、きのうも小さな声の喧嘩があった。

今朝の音楽は仲直りの印なのか、それともその逆か。


4階のベランダでは派手なTシャツを着た母親が洗濯物を干している。

子どもを学校に送り出したばかりの彼女は、今にも泣きそうな顔でハンガーを回す。

昨夜の言い合いが胸に残っているのだろう。

だけど、朝の風はやさしい。

彼女の隣で、干したばかりのシャツがゆらりと揺れている。


掲示板には今月のゴミ出しルールが貼られている。

「燃えるゴミは火曜・金曜 ※ルールを守りましょう(自治会)」

貼ったのは201号室の“あの人”だ。

今日も団地の見回りをしては、通りかかるだれかの名を呼び「おはようございます」と声をかける。

少し声が大きいのは耳が遠くなったせいじゃなくて、きっと“さみしい”の裏返し。


この団地には、名前がない。

誰かの実家でも、誰かの避難場所でも、誰かの最後の砦でもあるけれど、

“特別じゃない名前”で呼ばれている。


だけどここには今日もちゃんと誰かがいる。

声に出さずに泣く人も、

ふと誰かに笑いかける人も、

誰にも気づかれず過ぎていく日を、必死に生きている人も。


まいにち、ここにいる。

まいにち、ここで暮らしている。


団地って、そんな場所なのかもしれない。

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まいにち、ここにいる ひだまりこ @hidamarico

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