まず牛をキュッとします。

N氏@ほんトモ

第1話

 まず牛をキュッとします。


 田園風景がゆるやかに広がる、どこかの牧場。そこに一頭の牛が佇んでいました。名はベッシー。

 つややかな白黒の斑模様、反芻する姿は優雅そのもの。ですがその目は、まるで銀河を見透かすように深く、静かにモーモーと鳴くその声は、時折宇宙の深淵を問いかけるかのようでもありました。


 けれど、このベッシーはただの牛ではありません。

 そう、彼女は「キュッとされる」運命にあったのです。


 牧場の隣村——いや、正確には“少し次元が浮いた場所”に住んでいるのが、あの伝説の数学者、志村ポアンカレ教授。

 学会では「物理の異端児」「証明よりパッションを愛する男」と呼ばれる彼が、久々に村へと姿を現しました。背中には黒板、手にはチョーク、頭にはスプーンで作られたような銀のヘルメット。

 凄い人ではあるのですが、村人からは変人扱いされています。


 実は彼が村に戻ってきたのは、前回の実験「トマトを逆再生することでケチャップを未来から吸い出すプロジェクト」が失敗に終わったからでした。

 結果として村のトマト畑が全て未来から収穫済みになり、今シーズンのケチャップ祭が中止になったのです。


 そんな彼が村の集会所に現れ、いきなりこう叫びました。


「牛を球と仮定するのは時代遅れだ!これからは牛をキュッとする時代。酪農は、四次元超立方体!すなわちテッセラクト牛の時代であるッッッ!」


村人たちの反応は、まぁ、予想どおり。


「ほぇ?」

「テッセ?立方体?」

「牛が…角張るんけ?」

「牛角やんけ!」


 ポアンカレ教授は黒板をバンバンと叩きながら説明を始めました。


「牛を4次元空間に押し込むのだ!その本質をキューブの頂点に凝縮し、余剰次元を利用すれば、ミルクは無限、チーズは自動生成、バターは宇宙の果てまで塗れる!」


 そのとき、牧場の方から一つの「モーモー」が響きました。

 ベッシーです。彼女は反芻しながら首をかしげ、哲学者のようなまなざしで遠くを見つめていました。


 数日後。いよいよ「牛キュッ実験」の日がやってきました。


 ポアンカレ教授は村の広場に、自作の量子演算計算機を設置。無駄に光るスイッチと意味深なパイプが絡み合い、まるでSFとおとぎ話が衝突したような奇妙な装置です。


「ベッシー、準備はいいかい?」


 返事はありません。そもそもキュッとされるのにどんな準備が必要なのでしょう?

 けれど彼女は静かに歩き、装置の中心に立ちました。どこか悟ったような顔つきで。


 スイッチを入れると光が渦巻き、空気が揺らぎ、次元が軋む音がしました。そして——ベッシーがキラキラと輝きながら、キュッと変形していきます。

 彼女の身体は角ばり、幾何学的な輝きをまといながら、完璧な四次元超立方体へと変貌を遂げたのです。


それを見た村人が叫びました「牛角やんけ!」


「モォォォ……」


そのベッシーの声が、まるで宇宙の果てから帰ってきたように、四次元のエコーとして響き渡りました。


 テッセラクト・ベッシーは浮遊しながら牧場を漂い、彼女の周囲ではミルクが時空を越えて湧き出し、チーズが勝手に積み上がり続けます。

 チーズタワーは雲を突き抜け、やがて大気圏を突破しそうになり、慌てた村人が梯子で削りにいったほどです。


 このあたりから「キュッと酪農観光」なる看板が勝手に設置され、謎の団体ツアー客まで押し寄せました。

 村のパン屋ミユキおばさんは、「チーズパニーニに困らないわねぇ」と笑顔でしたが、村の猫ミケは「乳くさい」と言って屋根に避難しました。


 けれど、そのころベッシーは、思い始めていました。


 モーモー、草はどこ?モーモー、ルルミ(牛仲間その1:ベッシーの親友)どこにいるの?モーモー、マルタン(牛仲間その2:ベッシーの弟的な存在)返事して!モーモー!!


 ポアンカレ教授の計算は、確かに寸分の狂いもありませんでした。ですが、彼の計算にはベッシーの心を入れてなかったのです。


 そして、事件は起こります。


 テッセラクト・ベッシーは突如として逆回転を開始。余剰次元を使って次元の裂け目をこじ開け、キュッとした自らを解きほぐしはじめたのです。


「ま、まさか自己逆変換。 計算に誤りはないはずだが……。」ポアンカレ教授が血の気の引いた顔で叫びました。


 こうなったらもはや誰にも止められません。ベッシーのモーモーは、次元を超える意志の咆哮となり、空間をねじ曲げながら3次元世界へと帰還していったのです。



 朝。静かな牧場に、いつもの風が吹きました。


 草の香り。小鳥のさえずり。遠くで村人の笑い声。そしてそこに、モーモーという穏やかな鳴き声が響きます。

 そう。そこには、元の姿に戻ったベッシーがいました。


 牧場の中央、柔らかな日差しの中で、白黒の斑模様が朝露をはじいて輝いています。まるで、何ごともなかったかのように、いや、何かを乗り越えたかのように、彼女はしずかに佇んでいました。


 ルルミとマルタンも近づいてきます。地面を踏みしめながら、鼻をひくひくさせながら、くるりと尾を振りながら。「あなたどこ行ってたの?」とでも言いたげな、やや小首をかしげたような表情で、二頭はベッシーの周りをゆっくりと歩きます。けれどベッシーはそんな視線もおかまいなしに、まるで哲学者のような沈黙を湛えて、ただ悠然と草を食み続けていました。


 その草は、昨日と同じ草でありながら、何かがちがって感じられました。四次元から帰還した舌にとって、三次元の味覚はどう映るのか──あるいは、単に朝露が甘かったのか──それはベッシーだけが知っています。


 村人たちもぽつぽつと集まってきました。納屋の影から、鍬を肩にしたおじいさんが。ミルク瓶を両手に抱えたおばあさんが。寝癖のまま走ってきた子どもたちが。皆そろって、ベッシーを見る目は、ちょっと戸惑いを含んだ、でもやっぱり愛おしそうな、そんなやさしいものでした。


「……よかった、帰ってきたんだねぇ」


「キュッとしてたときも悪くなかったけどさ……やっぱ、こっちのがベッシーだよなぁ」


 そう言いながら、誰からともなく草を差し出しました。まだ朝露がしっとりと残る、やわらかい若草。ベッシーはそれを受け取り、しずかに、しかし確かに、モーモーと歌いました。そう、歌ったのです。もはや鳴き声とは呼べぬほど豊かな、響きを持った旋律で。


 その声には、銀河を旅した記憶、余剰次元をくぐった体験、そしてルルミとマルタンと再び出会えたよろこびが、すべて混ざり合っていました。歌は風に乗り、朝の空をゆるやかに舞い、村のあちこちに染みこんでいきました。


 やがて風が吹き、草が波打ち、小鳥たちが枝から飛び立ちました。


 穏やかな日常が戻り、あのテッセラクト・ベッシー騒動は、もしかしたら夢だったのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。村人たちはそう思いました。牧場の隅に、積み重なっているチーズの塔の残骸を見て見ぬふりをしながら。


 そして隣村の“少し次元が浮いた場所”に戻った志村ポアンカレ教授は、空を見上げながら嘆き、こう言い残しました。


「次は……ヒツジをギュウッとしてみるか……」


<了>


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