To the Spring 3

 台所や風呂場なども全部見回って、一階に異音の発生源がなさそうなことを確認し終えると、L氏は二階へと戻った。階上には自室にしている部屋以外にも一間あるが、そちらは雑貨がいくつか散らかっているだけで、何かのノイズのような音など発生しようがない。念のため部屋の入口から首を突っ込み、異状ないことを確認し、L氏は無言で自室へと引き上げた。

(もしかしたら、これは耳鼻科の領域なのか? それとも、脳神経科か)

 気が滅入るようなことを内心で呟きながら、練習を再開しようとイスにどっかり腰を下ろす。

 途端に、ぎぃっと何かがきしむ音が聞こえた。

 一瞬身を固くしてから、腰の下を覗きこみながら少し身を揺らせてみる。イスの座面と脚との継ぎ目で、ぎぃ、ぎぃと木材が擦れ合っていた。もう四代目になる電子ピアノはそこそこ高級なモデルを使っているが、イスは十五年ぐらい使い続けている安物で、ボルトの締め付けが時々甘くなるのだった。

 曲が高音部に移る際にはどうしても体が右に傾く。楽譜の特定部分でイスが鳴るのは、しごく当然の現象だったのだ。

「何を大騒ぎしてたんだ、俺は」

 声に出して言い、うつろな笑いを漏らす。春の陽気でボケているのか、はたまた年のせいか、それとも――慣れない土地に来たせいで、自覚している以上に神経質になっていたのかも知れない。

 伸びをするように天を仰ぎ、ちょっとの間体の動きを止めてから、L氏は立ち上がった。

 こんな上天気の日に、鳴ったか鳴らないかぐらいの物音で神経をすり減らして時間をつぶしていたなんて。まさに滑稽そのものだ。そもそも、せっかく一戸建てに引っ越してきたのに、ヘッドフォンで行儀よく消音に努めなくたっていいじゃないか。

 窓は全部閉めている。最低限のマナーは守っているのだ。なら、今日は陽が翳るまで生音にしよう。この家中の空気を、ピアノの響きで満たそう。気遣いも遠慮もとっぱらっちまえばいい。せめて、直接苦情を言い立てる輩が現れる、その時までは。

 軽い足取りで階段を降り、一直線にリビングのアップライトへ向かうと、一挙動でふたを開け、ひっぺがえすように鍵盤カバーをはぎ取って、L氏は嬰ヘ長調の三和音を軽やかに連打した。

 たちまち、グリーグのすがすがしい音楽が、古い戸建ての隅々にまで染み渡った。ちょっと妙な感じだ。この家が建ったのは自分が親元を離れた後だったから、この部屋でこのピアノをここまで鳴らしたことはないのだ。それなのに、家全体がピアノの音を実に自然に受け止めている。まるでこれまでずっとそうしてきたように――いや、ずっとこうなる日を待っていたかのように、だろうか?

 やはりピアノ本体の鳴り方のなせる業だろう。なにしろ年季の入った楽器である。馥郁とした響きは、新品のグランドピアノなどよりもずっと豊かで、複雑で、味わい深い。L氏としてはそれを認めるのにやや葛藤を感じるものの、もちろん最新型のデジタルピアノの音響モデリングなどよりも。

 それにしても、と今更ながら思う。なんでこの楽器はこんなに状態がいいのだろう? おそらくは、姉が最低限の調律メンテナンスを頼んでいたからだろうが、そもそも成人後の姉はピアノにほとんど興味を向けなかったはずである。小中学校時代はそこそこ真面目に練習していて、「愛の夢」ぐらいは弾き飛ばせる腕前だったけれども、弟のL氏がうまくなりすぎて内心面白くなかったらしく、高校卒業後に弾く姿を見ることはなかった。老化防止とやらで再開する気分にでもなったのか? それなら雑談の端にひとこと触れてよさそうなものなのに――

 旧き日々へ思いを馳せつつ、静かにアルペジオのピアニシモが消え入るのに耳を澄ませていると、突然チャイムが鳴った。

 ここから何をメドレーしてやろうか、と胸を膨らませていたL氏は、一度胡乱そうな視線を玄関に送り、肩をすくめて独りごちた。

「……短い栄華だったな」

 それから観念した気分でインターフォンを確認する。どうも相手は先ほどこちらに視線を送っていた二人連れの、女性の方らしい。メガネ姿の、何となくインテリっぽい物腰で、引き締めた口元がいやでもろくでもない未来を想像させる。

 こういう相手は先手必勝。腹をくくったL氏はインターフォンには出ず、さっさと玄関を開けるとすたすたと門の相手に歩み寄った。眉間にしわを寄せ、心からの遺憾の情を示しながら、大げさなぐらい申し訳なさそうな声で女性に呼びかける。

「ああ、これは申し訳ない。最近越してきたばかりで、つい音の加減が分からず、やかましくしてしまい――」

「すばらしい演奏でしたわっ!」

 驚いたことに、女性はいきなりアップで迫るとL氏の手を両手で握りしめ、輝くような笑顔になって賛辞を口にしたのだった。

「は?」

「私、すっかり聴き惚れてしまいましたっ。深峰さんの弟さんでいらっしゃいますよね? お話はかねがね」

「は? はあ」

「なかなか音を聞かせていただけないから、もうこちらからお邪魔してお声がけしようとしていたんです。そしたら、今日になってあんなリストが聴けるなんて! そしてあのグリーグ。あんな素敵なテンポ感はちょっとCDでも耳にしたことがありません! それにあの音色も! アップライトであれだけの色彩感が出せる人は――」

 そこでようやく女性はL氏の困惑した顔に気づいたようだ。少し笑って、事情を最初から話し始めた。

 女性は市内のアマチュアオーケストラのメンバーだった。昔からある団体で、いわゆるクラシックを中心に定期演奏会を開いたりしているが、オケの活動とは別に、有志が集まって小さなアンサンブルを組んで楽しんだりもしているらしい。

「お聞きになっていませんか? どういうわけかこの市って、色んな楽器の腕自慢が多いんです。音大出身者とか留学経験者とかがそのへんで働いてたりとか。オケのレベルは並程度なんですけど、アマチュアの室内楽はかなり盛んで」

「ほ、ほう」

「でも室内楽に参加してくれるピアニストって少ないんですよ。歌とか器楽の伴奏はこなせても、三人四人のアンサンブルできちんと協調して音楽を作っていくというのはね……結構適性が問われるというか」

「なるほどね。……え? つまり、それは」

「はい。あなたをヘッドハンティングに来ました」

 そう、女性はいたずらっぽく宣った。想像だにしなかった事態で、L氏は柄にもなく取り乱しそうになる。

「いやいやいやいや。あの、失礼ですが、何か話の行き違いがあるんじゃないですか? 私は、まあ多少ピアノが弾けますが、別に専門的な教育は一切受けてませんし、人前で弾いた経験も、せいぜい学生時代の発表会――」

「あれだけのリストを聴かせておいて、何をおっしゃいます」

 にこりともしない顔で、まっすぐこちらの目を見ながら女性。L氏ははっきりと冷や汗がにじみ出るのを自覚しながら、

「で、ですが、本格的な室内楽の経験なんて……ほら、さっきも適性が問われるとかなんとか」

「ええ。でも、あなたなら大丈夫です。彼も太鼓判押してましたし」

「彼?」

「ああ、さっきまでそこで立ち話してたんですけど、夕方から出勤だって先に帰ってしまって。一応、すご腕のチェリストなんですよ。ピアノの伴奏者とはもう何十人も相手してきたから、いい関係になれるかどうかは、ソロを一曲聴いたらわかるんですって」

「…………」

 L氏はもはや何も言えなくなって立ちすくむばかり。女性は少しだけくすりと笑って、

「で、率直に申しまして、私も同感です。さっきのグリーグなんか……とても熱があるのに、根っこでしっかり落ち着いてテンポをコントロールしていらっしゃる。きっといいアンサンブルができる方とお見受けしました。それに、あの歌い方。歌の感覚が合う人って、そう見つけられるもんじゃないんです」

 もう一度女性はL氏の手を取ると、真剣な目で言った。

「ぜひ、私たちと音楽を作る仲間になってください」

 少し傾いてきた日差しの中を、風がひとわたり通り抜け、庭の植木の小枝をさざめかせた。その時になって、ようやくL氏は、ああそうか、と納得できたような気がした。

 この半生を決して後悔しているわけじゃないけれども。

 今の自分を否定しようとは思わないけれども。

 ずっと、何か満たされないものがある、と感じていた。

 それが、これか。

 思えば、高校時代がひときわ輝いた頃に思えるのも、そういうことだったのかも知れない。合唱部の部員たち。コンクールへ挑戦したクラスメート。みな、ただひたむきに音楽に没入していた。目の前の演奏へ、自らの思いの全てを注ぎ込んで。

 そんな純粋さはでも、本格的にプロで食うことを目標とする音楽大学という場所では、いったん横に置くことを求められる。評価点、人気度、見込み収益、売れ線のジャンル、話題作りにつながる演出、そんな数字で音楽を語り、自身をも語られることすらよしとしなければならない。

 あるいはあの時期に急速に進学の意欲がしぼんでいったのは、そういうストレートな情熱を否定されそうな空気から逃げたかったからなのか。

 だが、もう逃げなくていい。

 ストイックさを守るためには、自分の城に閉じこもるしかないのだと思い込んでいた。ヘッドフォンをつけて自身の演奏と向き合い続ける環境さえ確保すれば、それで自分の音楽が完結できると思い定めていた。間違ってはいないけれども、音楽は外にもあるのだ。求めればいくらでも、豊かに、無限に。

「少し、確認させていただきたい」

 しばらく遠くへ投げていた視線を女性に戻して、L氏は言った。不安そうな面持ちで、女性が首を傾げた。

「何でしょう?」

「姉からはこの辺の話、何も聞いてないのですが、どういうご関係でした?」

「ああ……。何度か練習場所としてお宅を使わせてもらったことがあるんですよ。市の音楽協会で、マッチングみたいなこと、してるんです。使ってないピアノのあるご家庭と、練習場所を確保できない演奏家とか学生とかの」

「それで、うちのピアノを? では姉が弾いていたわけではなくて?」

「深峰さんは、最初の頃はなんだか自分も参加したそうな感じだったんですけど、そのうち気後れしてしまわれたのか、いつの間にかマッチングもお断りなさることが多くなりましてねえ」

「あー、それは」

 いかにも姉らしい、と失笑せずにはいられなかった。辛辣な言い方をすれば、姉のピアノは虚栄心が十割なのだ。「幻想即興曲」をさらっと弾いて拍手してもらって満足するような、中学生レベルの演奏姿勢。今のフレーズのハーモニーはどうだったか、リズムは、タイミングは、と何度も何度も振り返って議論をぶつけ合うような音楽づくりには、到底ついていけなかったのだろう。

 あんたにはちょうどいいかもね、と、面白くなさそうに口をとがらせていた姉の顔を思い出す。なるほど、あれは拗ねていたのだな。

「納得しました。それにしても、自分からそんな活動に参加しておいて、興味が失せたらさっさと脱落するなど、身内がとんだ失礼を」

「いえいえ、とんでもない。……それに、マッチングは深峰さんご自身が始めたことじゃなかったようです。お亡くなりになったご両親からの契約を引き継いだという話で」

「え、うちの……父と母が、ですか?」

「はい。お二人は、この企画のいちばん最初からのサポーター会員さんでいらっしゃいました。その頃から、息子さんのお話はちらちらと伺っておりましたので」

 L氏は意外な真相にしばらくぼんやりしていた。記憶にある限り、両親はクラシックを深く嗜むような趣味はなかったはずだが……まあ三十年以上も不在にしていれば、人の習慣もある程度移ろっていくだろうし、何よりもこの話は――

(罪滅ぼし、みたいな気分もあったんだろうなあ)

 誰もいないはずの家へ、つい視線を投げかける。正直、余計なしがらみを遺しやがって、みたいな気分もないではないものの、少なくとも不愉快ではない。むしろ、改めて腑に落ちた気分だった。

 外に音楽を求めるとは、こういうことでもあるのだなと。

 ならば、もう迷うことはあるまい。

「で、いかがでしょうか? あの、ご返事を……」

 やや緊張した面持ちでこちらを見ている女性に気づいて、L氏は今一度表情を引き締めた。

「今少し、大事なことを訊いておきたいんですが」

「な、何でしょう?」

「室内楽とおっしゃいましたが、どんな種類の? あと、あなたの楽器は何ですか? 人数に合わせて、居間を整理しなければなりませんので」

 一瞬ぼうっとした女性が、目を大きく見開いて、両手を胸の前で祈るように握りしめた。

「あ、ありがとうございます! あ、私はヴァイオリンで……トリオをやりたいと思ってるんです! ピアノトリオで、あの、曲目とはまだ本決まりじゃないんですけど、フランクなんかどうかな、と――」

「ああ、フランク」

「お気に召しませんか?」

「いえ、そういえば学生時代にヴァイオリンソナタの伴奏したことがあったな、と。あれはいい曲ですよね」

「はい! 私も大好きで」

「たぶん今でも弾けると思います。何なら合わせてみますか?」

「え、今から、ですか?」

「あ、お忙しいようでしたら、またの機会でもいいんですが」

「いえ! いえ! 私、楽器取ってきます! すぐ近くなんで! すぐに戻りますから!」

 女子高生みたいにはしゃいで走り去っていく女性を見送りつつ、L氏は、引っ越し以来、全然手をつけていない庭を眺め渡した。少しちゃんと見栄えを整えた方がいいかもしれない。お客さんがたびたび出入りするようになるのなら、最低限の気配りは必要だろう。

 あとはピアノ周りの体裁を少し整えて……と考えて、不意に思い至った。アップライト用に使っているイスはこれまた年代物で、演奏時にもぎいぎい鳴るもんだから耳障りなことのこの上ない。上のデジタルピアノのイスと交換しておいた方がいい。今すぐ、緩みかけている脚のボルトを締め直して――

 レンチは物置の中にあっただろうかと、慌ててL氏は家の裏手へ駆け出した。



   <了>


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春に寄す 湾多珠巳 @wonder_tamami

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