風の始まりの色

kou

風の始まりの色

 その年の初夏は、異常な暑さで始まった。

 中学生・佐京さきょう光希こうきが住む街は連日、うだるような熱気に包まれ、山から吹き下ろす風は、まるで熱い息のように乾ききっていた。

 午後の教室で光希は、友人の木村風樹かざきと居た。

「あっちぃー。マジで溶けるって……」

 風樹は机でへばっていた。

 光希は訊いた。

「風樹。今日の風、変じゃないか?」

「変って? 暑くてカラッカラなだけだろ?」

「……いや、なんていうか。色が見える気がするんだ。風が吹いてくるとき、一瞬だけ」

「色? 光希、お前、暑さで頭やられたか?」

 風樹は笑い飛ばしたが、光希には確かに見えていた。

 陽炎とは違う、もっと鋭く、燃えるような、赤みがかった金色の残像。それは風が吹き始める瞬間にだけ現れ、すぐに掻き消える。

 武術ウーシューの修行で《気》の流れを感じているせいか、光希は人より少しだけ、そういう気配に敏感だった。

 日常生活の中で、光希はその「色」を頻繁に目にするようになった。

 ベランダの朝顔が急に萎れた朝。

 公園の噴水の水が妙にぬるく感じられた午後。

 池の魚が水面近くで苦しそうに口をパクパクさせていた時。

 夜、部屋で寝ていても、窓の外を吹き抜ける風の音に、あの燃えるような色が重なって見える気がして、なかなか寝付けない。

 風の色は、もはや無視できない存在として光希の日常に入り込んできていた。それは恐怖というより、巨大な、理解を超えた何かがすぐそばにいるという、おそれに近い感覚だった。


 ◆


 ある日の午後。

 空は抜けるように青いが、風は相変わらず熱く乾いていた。

 光希は、街にある、古びた神社に来ていた。

 なんとなく、ここにいれば何か分かる気がしたのだ。

 光希が境内に立っていると、ひときわ強い風が、山の方から吹き下ろしてきた。

 それは、今まで感じたことのないほど濃密な《気》の奔流だった。

 そして、光希は見た。

 目の前の空間が歪み、風そのものが鮮やかな色彩を帯びるのを。燃え盛る炎のような橙、溶けた黄金のような輝き、乾ききった大地の錆びた赤。

 それらが渦を巻き、混ざり合い、巨大な熱量の塊となって、すぐ目の前を通り過ぎていく。

 幻ではない。

 それは確かに存在する色であり、《気》だった。

 その圧倒的な色彩の奔流の中心に、光希は意識を集中させる。

 龍と馬の特徴を持つ獣・麒麟きりんを見た。

 ただ、荘厳で、巨大な自然の意思のようなものを感じた。燃えるようなたてがみを揺らし、大地を踏みしめる獣の幻影。

 それは恐れではなく、ただそこにあるべくして存在する、抗いがたい力の象徴のように見えた。


麒麟颶きりんぐ

 台湾ではフェーンという乾燥した熱風に悩まされることが多い。この乾燥した熱風は、地面の草木や農作物を枯らしてしまう。

 台湾人は、風の中に炎の雲があり、火を踏み風に乗り熱風を連れて来る奇獣・麒麟颶きりんぐを想像した。

 台南市の枕頭山。

 そこには水火同源すいかどうげんという、水の上で火が燃えている不思議な場所があるが、その火は麒麟きりんが吐いたとされる。


 光希は拳を握りしめなかった。

 構えることもなかった。

 ただ、じっとその色彩の奔流を見つめ、その奥にある気配を感じ取ろうとした。

 それは、人の営みとは関係なく巡る、自然の大きなサイクルの顕現。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 風の勢いがゆっくりと弱まり、空間を染め上げていた鮮やかな色彩も、陽炎のように揺らめきながら薄れていく。

 麒麟颶きりんぐの気配も、熱風と共に遠ざかっていくようだった。

 後に残ったのは、少しだけ和らいだ風と、西に傾きかけた太陽に照らされた、いつもの神社の風景だった。

 さっきまでの圧倒的な熱気と色彩の奔流が嘘のように静まり返った境内で、光希は深く息を吸い込んだ。

 すると、どうだろう。

 風の音、木々の葉擦れの音、遠くで鳴く蝉の声、それら全てが、以前とは比べ物にならないほど鮮明に、立体的に感じられるのだ。

 単なる音ではない。それぞれが持つ微かな《気》の流れ、その存在感そのものが、まるで掌に取るように感じられる。

 自分の掌を見つめる。武術ウーシューの稽古で意識してきた《気》が、今は指先から陽炎のように揺らめき立ち上っているのが、感覚として見えた。

 麒麟颶きりんぐはただ通り過ぎただけではなかった。その圧倒的な存在は、光希の感覚を強制的にこじ開け、世界の見え方、感じ方を変えていた。

 型をなぞるだけでなく、自身の内と外の《気》の流れを読み、感じ、調和させようとする意識が格段に強くなった。

 突きや蹴りの一つ一つに、以前にはなかった鋭さと深みが加わり始めていた。

 そして、ふとした瞬間に吹く風の中に、彼は今も微かな「色」を探す。

 だが、それはもう単なる不思議な現象ではない。

 風の色だけでなく、その奥に潜む自然の息遣い、微細な《気》の揺らぎ、時には天候の変化の予兆までも、彼は感じ取れるようになっていた。

 彼だけが知る、世界の奥深さを示す、風の始まりに見えた色。

 それは、光希にとって、新たな感覚と、己の中に眠る更なる可能性への扉を開いた、始まりの出来事となっていた。

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