エピローグ

「瀬尾君、卒業おめでとう!」 


 事務所のメンバー全員の合唱に気圧されたように、瀬尾はちょっと身体を後ろに引いた。

 すっかり馴染んだスーツはバイトのために買い足した三着目。のけ反りから姿勢を戻しながら、照れた表情を浮かべている。


 オフィスの大きな窓からは、花曇りの空が鈍くのしかかっている。ブルーグレーの空に太陽の光は遮られているようだ。だが空の曇りを晴らすように、瀬尾のラスト出勤を祝う事務所のお祝いムードは晴れやかだった。


 瀬尾は初年度の三月三十一日に契約が切れても、特別相談窓口でのバイトをやめようという気にならなかった。はじめの頃はその日を指折り数えて待っていたのに、いつのまにかそんな期限があったことすら忘れていた。

 瀬尾はあたりまえのように四月一日も出勤したし、事務所のシフトにもふつうに入れられていた。所長だけが三回生になった瀬尾にニヤリと笑って、「契約更新だね」と言った。


 特別相談窓口はもうけにならない繁盛を重ね、途中でついに事務所のワゴン車に買い替えの時期が来たり、由利にもうひとり子どもが生まれたり、瀬尾が卒業するまで毎日がばたばたと忙しかった。

 車選びの際には意味もなく車はMTでなきゃと言う所長に絶対にATがいいと食い下がり、普段自己主張のすくない瀬尾君が言うならとオッケーをもらえて思わずガッツポーズをした。

 これで、この仕事を引き継がせる後輩の幅がぐんと広がった。


 瀬尾の身の回りで起きていた怪異は、桜の木に祈ってからふっつりとなくなった。だけど年に一度、桜の咲く時期だけ櫻子がそばにいるように感じることがある。


 そのことが、なによりもうれしい。


 瀬尾の心霊に関するスタンスは、ほんの少し変わった。相変わらず心霊関連をおもちゃにすることは嫌悪する。怪談話だって自称霊能力者だって好きじゃない。だけど、あの世とこの世のあいだを彷徨うなにかがいることは信じてしまっているし、そういうものと通じ合える人がまれいることも、由利とのつき合いで実感させられた。


「頑張れって言わなくても頑張ると思うけど身体を大事にね」

「炭水化物以外も食べるんだよ」


 まるで旅に出る桃太郎に言っているみたいな言い方だ。しかも生活習慣に関することばかり。たしかにちょっと余裕が出ても健康的な自炊とは無縁の生活だった。先生たちからのコメントで、大人になりきれていない自分が浮き彫りになっている。


 大学を無事に卒業した瀬尾は、これから一年間の司法修習に入る。だからこの藤倉弁護士事務所とも一旦お別れだ。特別相談窓口の仕事も、任せられそうな後輩にしっかり引き継いだ。もちろん、運転免許の有る無しのみで選んだわけではない。


 心霊関係は苦手でないか。見ず知らずの故人に敬意を持ち、心を尽くせるか。


 あのとき先輩が基準で瀬尾に声をかけたのかはわからない。ただ、瀬尾が車係を引く継がせる後輩を物色していて思ったのは、あの頃の自分がなんとなくやばそうだったからじゃないか、ということである。


 心霊嫌いに凝り固まっている、トラウマ持ちっぽいやつ。

 あの先輩には何度聞いてもはぐらかされるのだが、三年たつとそんな気がしないでもない。


 「由利さーん、いけたー?」と、先生のひとりが事務スペースに向かって声をかけた。「はい、いきます」と敬礼をするような調子で返事がある。


 音をたてずにできた人垣の割れ目をしずしずと進んできた由利の手には、抱えるほどの花束があった。


「どうかな。好きそうな花をまとめてみたんだけど」


 どうぞ、とやさしく手渡される。抱える腕の中に、一気に花の香りが広がった。


「朝から良さそうなお花を花屋さんで選んで、ラッピングまで由利さんがしたんだよ」


 ええっ、と驚嘆が口をついて出た。さっきから姿が見えないと思ったら、まさかこんなものを作ってくれていたとは。

 最後まで由利のポテンシャルには驚かされ通しだった。


 春を集めたような花束には、桜の花も蕾をほころばせていた。瀬尾の名前の知らない花たちに混じって、淡く結んだ桜の蕾はこれからの楽しみを約束してくれている。


「今度は、瀬尾先生として帰ってきてね」


 微笑む由利のやわらかいシルエットに、出会ってからの様々な思い出がコマ送りで脳裏に甦った。


 俺はこの人に認められたかった。片腕でありたいと願ってきた。


「はい、頑張ります」


 ありがとうございましたと頭を下げながら、瀬尾はあふれる思いをこらえていた。


 最初はあんなに嫌がっていたのに、あっけなく考えはひっくり返った。希望が叶って卒業する今、特別相談窓口の車係をやめたくないと思っている自分に苦笑する。


 桜は瀬尾の腕の中で、ほのかに香りを放っていた。


〈了〉

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こちら特別相談窓口 東雲めめ子 @nonomeme

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