第五章 6

アレクサが溺れた親子を助けたという一報を聞いて、アルヴァロッドは馬車で駆けつけた。

「なにがあったというんだ」

 アレクサは毛布を頭からかぶって、奥の部屋で暖炉の前に座っていた。

「旦那様」

「秋の海だぞ。なんということをしたんだ」

「無我夢中で、気がついたら飛び込んでいました」

「まったくお前というやつは」

 アルヴァロッドは着替えを彼女に渡しながら、ぶつぶつと文句を言っている。

 帰りの馬車のなかでも、彼はあれこれと世話を焼いた。

「熱、出てないか」

「寒くないか」

「腹はへっているか」

 アレクサは笑ってそれにいちいちこたえた。

「旦那様。私平気です。熱はないし、寒くもないし、お腹はちょっとすいてるけど、まだお夕食まで時間がありますよ。大丈夫ですって」

「む。そうか」

「はい」

 アルヴァロッドがアレクサの頭をぐい、とその手で寄せてきたので、アレクサは素直に彼に寄りかかった。

「旦那様」

「なんだ」

「ご心配かけてしまって、申し訳ありません」

「これきりにしてくれ。寿命が十年縮まった」

「はい」

 翌朝、別邸の玄関に人が押し寄せた。

「なんの騒ぎだ」

「あ、旦那様」

 起きてきたアルヴァロッドは、その騒がしさに眉を寄せた。

「信者の方々が、アレクサ様にお会いしたいと。ウリエンス様だけでは押さえきれないので、本邸から人を呼んでいるところです」

「アレクサに? なぜだ」

「溺れた子供を助けた海の巫女を讃えたい、一目お会いしたいと、それはもう物凄い勢いで……」

「――」

 そこへ、噂を聞いたアレクサンダー王子が、

「やっほーアルヴァ。アレクサちゃん大活躍したんだって? 話を聞かせてよー退屈でしょうがないんだ」

 とやってきた。

「まあ殿下」

「王子……」

 アルヴァロッドは片手で目を顔を覆って、

「あなたというひとは……」

「いいじゃない。お前も名実ともに公爵なんだしさあ。これでアレクサちゃんとやっと結婚できるんじゃないの? ん?」

「な、ば、ばかなことを言わないでください」

「照れちゃってかーわいっ」

「旦那様、本邸から騎士様方がお見えになりました」

 ローレンに案内されて、騎士が五人ほどやってきた。

 その中の一人に、アレクサンダーは見覚えがあった。

「やあ誰かと思ったら君かあ」

「あ、殿下」

「助っ人に来たんだってね。アルヴァを頼んだよー」

「はい」

「ローレン、アレクサはどうしている」

「先ほど朝食を終えられて、お部屋でお着替えを」

「そうか」

 アストリーズはアルヴァロッドが部屋を出ていくのを目で確かめると、ふっと自嘲気味に笑って小さく言った。

「あの方のお側にいられるのなら、想いが届かなくてもいいと思っていました」

「――え?」

「あの方は、ふだんは別邸におられます。私は本邸に。こうして、たまにしかお目にかかれないのです。それでも、いいと思っていました。それが、あんな形で近くに行けるとは、思いもよりませんでした」

「――」

 アストリーズ、とあちらでウリエンスが呼ぶ声がした。アストリーズはそれにこたえ、

「それでは失礼します」

 と一礼して行ってしまった。アレクサンダーはしばらくぽかんとしていたが、やがて、

「ふふ……まったく僕の親友は、ずいぶん罪作りな男だなあ」

 と誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。



 扉をノックすると、ややあって返事があった。

「私だ。入っていいか」

 どうぞ、と返事があったので、少し待ってから扉を開けた。

 アレクサは、碧色の服を着ていた。

 彼女がこの服を着るのを見るのは、初めてだった。

「――」

 その冴え冴えとした姿に、アルヴァロッドは目を奪われた。

「旦那様?」

「え、ああ」

「どうかされたのですか」

「なんでもない」

「なにか、外が騒がしいようですけど」

「うん。そのことだけどな」

「はい」

「民衆が、お前に会いたいと言ってやってきている」

「え?」

「子供を助けたお前に、会いたいとさ」

「――」

「どんな気分だ」

 彼はそっと聞いた。

 長い間、彼女は黙っていた。

 足元でアルバが伸びをして、しっぽがぴん、と張った。虎はアレクサを見上げて、それからアルヴァロッドを見ると、あくびをして眠ってしまった。

「なぜでしょう……うれしいです」

 アルヴァロッドは破顔した。

「それでいい」

 彼はアレクサの手を取った。

「よしよし、母の指輪をまだしているな」

「え? はい。旦那様が、いつもしていろとおっしゃったので」

「では私もちゃんと言おう」

 こほん、彼は咳払いをした。

「アレクサ」

 アルヴァロッドはアレクサの青い瞳を見つめて、一息で言った。

「私の妻になってほしい」

 初め、アレクサはなにを言われたのかわからなかった。

 だから、ぽかんとして座っていた。

 しかしいつまでも彼が自分を見つめているものだから、ああそうか、これは返事をするものなのだとそこで思いが到って、散々迷い、散々考えて、それで、

「……はい」

 と言ってしまった。

 その返事を聞いて、アルヴァロッドは大きく息をついた。

「よかった」

 彼は目に見えて安心したようだった。

「なかなか返事をしてくれないので、断られるのだとばかり」

「えっそ、そそそんな」

 ぶんぶんぶんと慌てて手を振って否定するアレクサを、アルヴァロッドは笑って見た。

「そんなことは、ありません」

「では、行こうか公爵夫人。みなが待っている」

 アルヴァロッドは立ち上がって、アレクサに手を差し出した。アレクサは迷わず、その手を取った。

 二人は微笑み合いながら、ゆっくりと歩きだした。

 扉の向こうには、二人を知る人々が、民衆が、海が、待っている。


                                 了

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海は遠きにありて 青雨 @Blue_Rain

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