第五章 5



 秋である。

「お前たち、お父上ももういないんだから、別邸にお帰りよ。なにかと不便だろ」

 とアレクサンダーが言うので、ローレンとウリエンスを連れて公爵邸の別邸に戻ることになった。

 王家の外戚になろうとしていたことが露見した父について行こうという騎士はおらず、彼らの多くはアルヴァロッドに仕えるということで話がまとまった。だが、相変わらず別邸に住むのはウリエンスただ一人である。

「そんなことでいいんでしょうか」

 アレクサは戸惑いがちに言う。

「公爵様のおつきの騎士様がお一人しかいらっしゃらないなんて、なんだか格好がつかないように思いますけど……」

「私もそう思います。ですが、そういう時には公爵様はきちんと騎士を揃えてお立ちになるのでご心配には及びません。普段使いには騎士は一人で充分だ、といつもおっしゃっておられるのです」

「まあ、普段使いだなんて、そんな言い方」

 アレクサは笑う。

 この別邸に来るようになって、アレクサはよく笑うようになった。それもこれも、ウリエンスとローレンのおかげだ。この二人が交わす、ちょっとした邪気のない会話がどれだけ彼女を救ってきたことだろう。

 そしてそのことに、本人たち自身で気づいていないのだ。

 表が騒がしくなって、誰かがやってきたのがわかった。

「まあ、どなたでしょう。朝から」

 ローレンが玄関に出ていったと思ったら、すぐに戻ってきた。

「アレクサ様、神殿の方がお見えです」

「神殿の?」

 秋の奉納は、終えたばかりである。しばらくそういった儀式はないはずだ。首を傾げていると神殿の者が案内されてきて、

「アレクサ様」

「大変でございます」

「なにがあったんですか」

「海が、海が」

「また赤くなりました」

「海が?」

 アレクサは表に出て、高台から海を見渡した。

 海の一部が、不気味に赤く染まっている。

「……あれは……」

「あの辺り一帯はちょうど海苔の養殖をしている場所でして、全滅だそうです」

「魚の被害の報告も出ています」

「神殿へお越しください」

 アレクサはすぐに支度をして、神殿へ赴いた。

 信者たちが神殿に殺到して、大騒ぎになっていた。

 どういうことだ。神官長を出せ。巫女に説明をさせろ。また海が赤くなったぞ。魚が死ぬ。海が死ぬぞ。海神のお怒りだ。巫女がいなくなったりしたからだ。まだ怒りが解けていないんだ。どうにかしろ。

「みなさん、お静かに」

 神官長が出てきて、難しい顔で言った。

「海が赤くなった理由は、まだわからないままです。ですが、今のロレーナは無力ではない。海の巫女がいる。必ずなにかできるでしょう。待っていてください」

 そこへアレクサがやってきたので、ひとまず人々の不満は引っ込んだようである。

 奥へ案内されて、アレクサと神官長と神官たちは話し合った。

「どうすればいいのでしょう」

「わかりません。過去の記録にも、海が赤くなった時の手立てはどうにもならない、時が過ぎるのを待つしかない、としかないのです」

「だがこのまま手をこまねいて待っていては民衆が暴動を起こすぞ」

「待つ、とは、具体的にどれくらい待つのですか」

 アレクサが問うと、

「規模にもよりますが、ニ、三週間、とあります」

「とてもそんなには待てませんね」

「どうすればいいのか……」

「祈るくらいしか、我らにできることはない」

 神官の誰かが言った。

「そうだ。祈ることしかできない」

 彼らは口々に言うと、めいめいに祝詞を唱え始めた。一人が二人に、二人が四人に、それが六人、八人と増えていき、部屋のなかは呪文であふれた。

 アレクサの周囲が、神気に満ちた。

 ああ、なんて透明な なんて荘厳な 空気

 私のなかに なにかが 溜まっていく

 アレクサはふっと目を伏せた。

 唱えよ 唱えよ 言霊を 唱えよ

 讃えよ 我を 讃えよ 讃えよ

 再びアレクサが目を開けた時――

 彼女はすっと立ち上がった。

「アレクサ様?」

 誰かが気がついて声をかけるも、それに気がつく様子はない。

 まるでなにかに憑りつかれたかのように、アレクサはなめらかな足取りで歩いた。

 広間で待つ信者たちは、巫女の突然の登場に浮き足立った。そして、何事かと顔を見合わせ、なにかあったのかと口々に囁き合った。

 巫女は、それには構わないかのようにすたすたと表に出ていく。神官たちが、慌てて後ろから追いかけてきた。

「アレクサ様、どちらへ」

「アレクサ様」

 誰かがとうとう追いついて、その手を取った。アレクサは、それを無言ではたいた。

「……」

 まるで、アレクサ様ではないようだ。

 その神官はそう思ったと、のちに語った。

 その後ろ姿を見つめていると、どうやら海辺へ行くようである。

 まさか入水するわけでもなかろうかと、走って追いかけていく。

 するとアレクサは、どうやらあの赤い水が出ている辺りまで歩いていくようなのである。

 そして水が赤い一帯までやってきてしまうと、その海のなかへ入り腰まで浸かり、目をそっと閉じた。

「……」

 誰もが固唾を飲んでそれを見守った。

 一瞬の沈黙の後、それは突如として起こった。

 ゴオ、という轟音と共に海が渦を巻いて、天まで届かんばかりに高く波立ったのである。

「おお……」

 民衆も神官たちも、声を上げて驚愕した。

 およそ、人間のわざとはおもえないほどのものであった。

 しかし、確かにアレクサがしてのけたことであったのだ。

 渦巻きが天を高く突き、それが収まって水しぶきが辺り一面に放たれたかと思われた瞬間、アレクサはその場に昏倒した。

 海の赤い部分は、きれいになくなっていた。

 アレクサは公爵邸に運ばれた。

 それから二日間、彼女は目を覚まさなかった。

 ローレンが心配して、夜通し看病していた。

 ようやく目を覚ました時、アレクサはなにも覚えていなかった。

「奥の部屋でみなさんが祝詞を唱えているところまでは覚えているんですけど……」

 その後のことはなにひとつ記憶にないという。

「でも、心の奥底で低い声が、我を讃えよ、言霊を唱えよ、って言っているのだけは聞こえていて」

「おお、恐れ多くも、それは海神のお声でございましょう」

 神官長が恭しく一礼して言った。

「海神と通じることができる巫女は、歴史のなかでも数少ないとされています。その出現は稀で、多くは不吉な前兆と共にやってくると言われています」

「不吉な……」

「悪いご神託ばかりされていたのは、もしかしてそのせいなのでは。ですが、こうして開眼された今では気に病まれることはありません。あなた様は海神と無事通じることができたのです」

「……」

 アレクサは右手を胸にやってなにかを考えているようだった。神官長は神官たちにそれを知らせなくては、と勇んで出ていき、ローレンは食事の支度をしにいった。

「どうした」

 アルヴァロッドは茫然としているアレクサに肩に手を置いて、やさしく尋ねた。

「なにを考えている」

「……ちょっと……こわいです。なにか、私が私でなくなってしまうような」

「そんなことはない」

 アルヴァロッドは笑った。

「いつどんな時も、お前はお前だ。大丈夫、私やローレンやウリエンスがいる。平気だよ」

 そうだろうか。

 口には出せず、一抹の不安がよぎる。

 翌朝神殿に行くと、信者たちが自分を手放しで歓迎してくれた。

 巫女様。巫女様。赤い海をはなってくれた。海神様の御使いだ。海神さまと、通じてるんだってさ。へへえ、そりゃありがたいね。ひとつ、私に祝福をしてくださいませんかね。あっしにも。いや、俺にも。いえ、私よ。

 そんな声が飛んでくる。

 アレクサンダー王子の、奴らは勝手なんだよ、自分の不安をぶつけてるだけさという言葉が、再び蘇る。

「アレクサ様、こちらへ」

 神官が飛び出してきて、奥の間へ連れて行かれた。

「先日の件が国中に広まって、今やあのことを知らぬ者はおりません」

「……そうですか……」

「これでアレクサ様のお立場も盤石というものでございましょう」

「名誉なことと言わねばなりますまい」

「……」

 立場。名誉。

 それは、本当に私の求めていたものだっただろうか。

 私はただ、人々を助けたくて。

 みんなに認めてもらいたくて。

 ――なのに、一度は逃げ出して。

 そんな私を、受け入れてくれて。

 名誉がなに? 立場が盤石?

「……違う」

 膝の上で握り締めた掌に、涙がぽつりとこぼれ落ちた。

「アレクサ様?」

「ちがう」

 アレクサはそこにいられなくなって、部屋から出ていった。泣いているところを、誰にも見られたくなかった。

 広間に行けば、また信者に囲まれてしまう。裏口から行こう。

 そう思って、そっと裏から出ていった。

 そこから出ていくと、そのまま海岸線に出る。浜辺を歩いていると、少し気分が落ち着いた。

 沖で、小舟が揺れている。釣りをしているようだ。

 歓声が聞こえるところを見ると、子供がいるらしい。ふふ、と笑って歩きだすと、突然悲鳴が上がった。

 何事かとそちらの方向へ目をやると、先ほどの小舟がひっくり返っている。

 小舟には誰か男が掴まっており、そこから少し離れた場所で子供が溺れているのが見えた。

 アレクサは目を見開いて、なにも考えずに海に入った。

 あの二人、両方とも泳げないんだ。

 咄嗟にそう考えて、まず溺れている方を助けようと思った。前から行くと縋られて自分も溺れる危険があるので、背中から回って助けた。

 子供を抱えて浜へ運ぶと、次にひっくり返った小舟に掴まっている大人の方を助けた。

 幸いこちらには意識があったが、子供の方は水を大量に飲んだらしく、呼びかけても返事がなかった。

 頬を叩いても、反応がない。

 身体が、冷たい。

 アレクサはぞっとした。

 子供が死んでしまう。

 どうするんだっけ。こういう時、どうするんだっけ。

 ロレーナの人間なら、海辺の人間なら、誰でも子供の時に教わること。

 どうするんだっけ。ああ、思い出せない。思い出して。思い出して。

 助けて、誰か、誰でもいいから誰か。旦那様、ウリエンスさん、ローレンさん、海神様、誰でもいいから誰か助けて。

 アレクサは必死に呼びかけた。

 しかし、誰も呼びかけにこたえてはくれなかった。

 代わりに、自分の声がした。

 誰も助けてはくれないわ。

「――」

 あなたがやるの。誰かではない、誰でもない、あなたがやるのよ。あなたがやらなくちゃ、この子は死ぬの。今この瞬間にも、死のうとしているのよ。

 そうだ――。

 アレクサは目を閉じた。

 私は私。海の巫女でも婚約者候補でもない、ただのアレクサ。

 そして今、この子を助けるただのひとりの人間。

 目を開けて、思い切り子供の胸を叩いた。

 ごほっ、という声と共に、子供が大量に水を吐いた。

「ああっ、意識を取り戻しました」

「神殿から、人を呼んで来てください。アレクサが呼んでいると言えば、わかります」

 もう大丈夫よ、子供の髪をなでながら、上着を脱いでそっとその身体にかけた。

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