第五章 4
2
荒れていた海は、確かに収まった。
しかし、それで終わったわけではなかった。
魚が獲れない。
一匹たりとも網にかからない。釣り糸を垂れても、引っかからないのである。
その理由は、アレクサにはわからない。
しかし、なんとかしなければならなかった。
アレクサは連日神殿に立て籠もり、一心に祈った。
海神よ、魚をもたらしてください。今再び、ロレーナに豊穣を。
ただひたすら、それだけを祈った。
周りでは香が焚かれ、神官たちが祝詞を唱えている。
海神よ、私の声を聞いてください。私は確かに一度、逃げた。でもこうして戻ってきました。私は海が好きだ。ずっと海の側にいたい。海にこの身を捧げます。だからどうか、海神よ。私の願いを聞き届けてください。魚もたらしてください。ロレーナを、助けてください。
その晩、アレクサは不思議な夢を見た。
海藻に身を包み、珊瑚の角を持つ長身の得体の知れない生き物がアレクサの前に立ち、ロレーナの海らしき場所を指し示しているのである。それはまっすぐ北の岬を指差していて、アレクサがそちらへ目を向けると、ほのかに米酒の香りが鼻孔をくすぐった。
朝起きたアレクサは、その夢のことをアルヴァロッドに話した。
「それは、まぎれもなく神託だな。神官長に話した方がいいだろう」
と彼が言うので、神官長にもその夢の話をすると、
「海藻に身を包んだ、珊瑚の角の長身の得体の知れない生き物、ですか」
「はい」
「……」
神官長は厳しい顔つきになって本棚へ歩いていくと、そこから分厚い本を取り出してきてぱらぱらと頁をめくった。
「それは、こういったものではありませんでしたかな」
と、見せられたものはまさしく、海藻に身を包んだ、珊瑚の角を持った生き物である。
「ああ、これですこれです。この生き物が現われて、北の岬を指差したんです」
「この文献には、これは海神が人の前に姿を現わす時の仮の姿だとされています」
「海神の……」
「それが本当ならば、このご神託は海神のお言葉ということになります」
「じゃあ……」
「アレクサ様。正確に思い出してください。海神は北の岬を指し示して、そしてどうしたのです」
「さあ……ただ、北の岬を指差しただけで」
「よく思い出してください」
アレクサは目を閉じて、あの夢を思い出した。
あの生き物は私の目の前に現われて、まっすぐ私の後ろを指し示した。それで私は後ろを振り向いた。そこには北の岬があって、日の光が岬を照らし出していて、それから、……それから。
「……お酒の、においが」
「酒の?」
「米酒の、においがしました」
「確かですかな」
「ええ。かすかですが、はっきりとしました。あれは米酒です」
料理でも使うから、よくわかる。あれは米の酒のにおいだ。
「だとしたら、北の岬を米酒で清めるということなのか……?」
「今から行ってみましょう」
アレクサは神官長と神官と共に、北の岬に赴いた。
「あっ……」
「こ、これは」
そこには、死んだ獣の死骸が散乱していた。
腐臭が立ち込め、腐った肉に蝿がたかり、見るも無残である。
「これは、穢れです。海神はこれに怒っていたのです」
「すぐにこの死骸を処分しろ」
すぐさま人がやられ、死骸を始末したのちに米酒でその場所を清め、海にも米酒を捧げた。そして、改めてそこで儀式を執り行った。
アレクサはそこで、清めの舞を舞った。
海神よ、穢れは取り払いました。どうかお怒りをお鎮めください。魚をもたらしてください。ロレーナに再び豊穣をもたらしてください。
その夜アレクサが見た夢は、不思議なものだった。
銀色の波が、うねるように海岸をやってくるのだ。それは大きく波打っては打ち寄せ、また波打っては打ち寄せてきて、浜辺へ殺到してくる。人々はそれを、歓喜のまなざしで見ているのである。
よく見るとその波は、魚なのだ。
朝目が覚めると、アルヴァロッドの部屋に行く前に廊下で女官たちが激しく行き来していて、慌ただしい。そのなかにローレンもいたので、
「どうしたんですか」
と尋ねると、
「あ、アレクサ様。大変でございますよ。魚です。魚の大群がやってきて、浜へ押し寄せたんですって。浜辺は今、とんでもない騒ぎになってますよ」
アルヴァロッドも出てきたので、アレクサはゆうべの夢のことを話した。
「そうか。それはよかったな」
と彼が言うので、
「なにがですか」
「悪い託宣ばかりではないではないか」
「――」
「ちゃんといい神託もできる」
彼が微笑するので、アレクサはなんと返事をすればいいのかわからなくなって、その場に立ち尽くしてしまった。
「アレクサ様、神殿からお迎えが来ております」
「あ、はい。今行きます」
そうしてアレクサを送り出して、アルヴァロッドはロレーナに戻ってきてから気になっていたことを片づけてしまおうと、公爵邸の別邸へと赴いた。
別邸はアルヴァロッドの住まいであり、彼に仕える一部の者たちが住まう場所でもあった。
しかしアルヴァロッドがロレーナを出奔してからむこう、主人を失って住む者は本来、いないはずである。
だが今現在ウィグムンド公爵家の実権をアルヴァロッドの父アートリアが握っている以上は、アルヴァロッドに仕えている騎士たちは本家にいることはできないであろう。
よって、彼らは別邸にいるはずだという彼の憶測は果たして、当たっていた。
呼び鈴を鳴らすと、知った顔の騎士が不景気な面を下げて玄関を開けてきたので、
「おいおい、久しぶりだからといってそんな仏頂面で迎えないでくれ」
「あっ公爵様」
「留守にして、すまなかった。冷や飯を食わせてしまったな」
「と、とんでもないことでこざいます。お帰りになったとは知らず、ご無礼を」
「事情があって、王城で暮らしている。ここに戻れるのは、もう少し後だ。申し訳ないがそれまでもう少し辛抱してくれ」
「なにをおっしゃいます。我々は公爵様は必ずお帰りになるものと信じて、お待ち申し上げておりました」
「うん。そのことだがな。ウリエンスはどうしている」
彼が言うと、騎士は暗い表情になった。
「大旦那様に蟄居閉門を申しつけられて、このお屋敷の自分の部屋に閉じこもっております。食事の時に一目会えるかと思っていたら、扉の前に置いておいてくれ、自分は蟄居を言い渡されている身分、誰かと会うわけにはいかない。とこう言いますので」
「相変わらずくそ真面目だな」
「そうなのでございます」
「よし、私が行こう」
アルヴァロッドはウリエンスが暮らしている部屋の前までやってくると、そっとその扉をノックした。
「ウリエンス、私だ」
「帰れ。私は蟄居中だ。誰とも会うわけにはいかん」
「しかしウリエンス」
「帰れと言ったら帰れ。蟄居中にひとと会ったことが知られれば、重大な違反となる」
「相変わらず馬鹿真面目だな」
「誰が馬鹿だ」
「お前がだ」
む、となかでウリエンスが唸る声がした。
「どなたかは知らぬが、ここであなたと喋っていると見咎められる。大旦那様の間者が、どこにいるかわからないのでな。お帰りいただこう」
「しかしウリエンス、私だぞ」
「だから知らぬと言っている」
「主君の声も忘れたのか。薄情者め。私はアルヴァロッド・フォン・ウィグムンドだ」
「……」
しばしの沈黙があった。
たっぷりふた呼吸ほどしてから、なかから、
「……公爵様?」
と、ウリエンスが恐る恐る声をかけてきた。
「ようやくわかったか。馬鹿者めが」
「お帰りなのですか」
「ああ、帰った。ついてはお前を解放したい。だから、出てこい」
「いけません。私は」
「ウリエンス。お前の主人は誰だ」
「――」
「お前が仕えているのは私であって、父ではない。仕えてもいない男の命をいつまでも馬鹿正直に聞く必要はないのだ。こうして主人が戻ってきて出てきてよいと言っている以上は、出てきていい。これは命令だ」
部屋のなかを、ばたばたと騒がしく移動する足音が聞こえてきた。そして、
「公爵様」
という声と共に扉が開くと、ウリエンスはそこに跪き、
「お会いしとうございました」
「大袈裟な奴だ。いいから立て」
「は……」
「お前にはやってもらいたいことがある。忙しくなるぞ」
そう言ってアルヴァロッドは歩きだした。
「私の騎士のなかで、一等見目がいいのは誰だ」
「はっ?」
「見た目だ見た目。美青年は誰かと聞いている」
「そうですね……アストリーズでしょうか」
「あいつか。では呼んで来い。任務がある」
「は」
ウリエンスが騎士アストリーズを連れてくると、久しぶりに彼に会ってアルヴァロッドはなるほどな、と納得していた。
絹のような、やわらかな巻き毛の金髪。明るい水色の瞳。水晶を彫り上げたような繊細な面持ちである。大理石のような白い肌はきっとまた、大理石と同じように冷たいのだろう。
「お呼びでございますか」
「うん。ちょっとお前に頼みたいことがある」
「任務、とウリエンスからは聞いております」
「任務といえば、任務だ。しかし、あまり愉快なものではないぞ」
「騎士となったその日から、ある程度の覚悟はできております。主の頼みとあらば、いかなることでもやってみせます」
「よく言ってくれた」
アルヴァロッドがその任務の話を進めるうちに、若い騎士の表情が見る見る曇っていった。だが主が話し終える頃には、騎士の顔は完璧なまでに無表情になっていた。
「どうだ。言ったとおり、愉快ではないだろう。それでもお前はやってくれるか」
「公爵様の仰せとあらば」
拳をぐっと握って、アストリーズはそうこたえた。
「では早速作戦を立てよう。まず……」
そうして密談は重ねられていき、時に王子やウリエンスも交えて、それは続けられて行った。
二週間が経ったその日、リィラはアレクサンダーを探して廊下を歩いていた。
「殿下? 殿下ったら」
きょろきょろと辺りを見回して、彼女はなおも歩く。
「おかしいわね。確かこの辺りにいたって聞いたのだけれど」
ふと、庭の方向から笑い声が聞こえた。アレクサンダーの声だ。
「あ、いらしたわ」
リィラは呟いて、早足でそちらへ歩きだした。
光の溢れる庭で笑うアレクサンダーと、彼よりは少し背の低い青年が談笑していた。
「――」
一幅の絵のようなその美しいたたずまいに、リィラは思わず立ち尽くしていた。
庭の緑が、きらきらと光を反射して光っている。
太陽が、まぶしい。
アレクサンダーと青年は本を読んでいるようだ。熱心にその頁に目をやり、指で指差して、何事かを語り合っているようである。
ふと、二人の手と手が重なった。
青年はさりげなく、手をどけた。
アレクサンダーがその手を取った。
青年が驚いて彼を見上げる。アレクサンダーは青年の顎に指を這わせて、その珊瑚のような唇にそっと自分のそれを重ねた。
思わず後退ったリィラが、その拍子に庭の用具にぶつかった。それは派手な音を立てて崩れた。
それでそこにひとがいるとわかって、アレクサンダーと青年がそちらの方を見た。
リィラは急いで踵を返して、その場から走り去った。
頭が混乱して、なにを見たのかよくわからなかった。
どういうこと。どういうこと。どういうこと。
あれはなに。あれはなに。あれはなに。
王子といた、あれは誰? 二人でなにをしていたの? ううん、なにをしていたかくらい、そんなのわたくしにだってわかる。問題は、王子が男にしか興味がないかということだわ。そんな話は、今までに聞いたことがない。これまでだって、女性にしか目を向けていないって、そう聞いているわ。
「やあ、ここにいましたね」
後ろから声をかけられて、リィラははっとした。誰かと振り向いてみてみれば、それは紛れもなく先ほど王子と談笑していたあの青年である。
「あ……」
「さっき殿下と僕が庭にいたのを見たの、あなたですよね」
青年は薄ら笑いを浮かべながら近づいてきた。
「僕、アストリーズっていいます。殿下のお側に仕える、騎士です」
彼は近くに寄ってくると、リィラの側に跪いてその服の裾にくちづけした。そのあまりの優美さに、そしてその顔の美しさに、リィラはうっとりとみとれてしまい、ぼーっとなってなにを言われているのかもよくわかっていなかった。
「僕たち、長いんです。ずっと、もうずっとなんです」
「え……」
「人目を忍ぶ関係ではあるけれど、決して許されるものではないけれど、お側にいられるだけでいいんです。僕は殿下を愛してる。殿下も僕を愛してる。それだけでいいんです。
だから、あなたのようにぽっと出のひとがいきなりやってきて殿下に色目を使うのがどうしても許せない」
「あ、あの……」
「ねえ、試してみる? 僕、両方いけるんだ。僕を殿下だと思って、一度でいいから寝てみようよ。きっと楽しいよ」
壁際に追い込まれて、覆いかぶさるように両手で進路を塞がれる。
「殿下もきっと許してくださるよ。ねえ、いいだろう?」
ゆらり、髪をひと房掴まれてそこにくちづけされた。
それでもう恐怖でどうにもならなくなってしまって、リィラはアストリーズを突き飛ばしてそこから逃げ出した。
アストリーズは覚めた瞳で、それを見送っていた。
物陰に隠れていたアルヴァロッドは、そっと出てきて彼に言った。
「よくやった」
「あれでよろしゅうございますか」
「上出来だ。あの女はきっとつるんでいる誰かの元へ行って、見たままを話して聞かせるだろう。ウリエンスが尾行しているはずだ。すぐにわかるだろう」
「それにしても、あまり気分がよいものではありませんね」
アストリーズはうかない顔で言った。
それはそうだろう。
騎士というものは、名誉をなによりも重んじるものである。
それが、そうでもないのに男色を偽り、あまつさえ女性をたぶらかすとは、まったくもって不名誉極まりない行いである。
「お前には、本当にすまないと思っている。特に王子とのことは」
「いえ、それはもう」
そこへ、二人を追ってアレクサンダーがやってきた。
「どうー? うまくいったかな」
「さっき出ていきましたよ」
「そう。そうでなくちゃ僕もアストリーズもしたくもないくちづけした意味がないってもんだよ。まったく、男とするなんて興ざめだよね。どこかで口直ししないと」
「王子」
アルヴァロッドがたしなめるように強く言うと、アレクサンダーは手を頭の後ろで組み、口笛を吹き出した。
ウリエンスはその日の夜遅くに帰ってきた。
「あの女、伯爵邸に行きました」
「まあ、伯爵令嬢なのだからそうだろうな」
「父親らしき男と話した後、その父親が出かけて行ったので尾けましたところ、驚いたことにその父親、ご本家に向かったのです」
「本家って、ウィグムンド邸か」
「さようでございます」
「そこでなにを話していたか、聞けたか」
「そこまでは。あそこでは私も顔を知られているゆえ、忍び込むにも勝手ができず、却って危険かと思い戻って参りました」
アルヴァロッドは沈黙した。
王子に取り入ろうとしている女の父親が、私の父と親しいとはとういうことだ。
これは、なにかあるな。
「よし、下がっていい。ご苦労だった」
父はそろそろ、私が帰ってきたことに気づく頃だろう。そうすれば、ウリエンスの蟄居を解いたことを知るはずだ。動きにくくなる。今のうちに、やれることをやっておこう。
アルヴァロッドがこれからのことを頭のなかでぐるぐると考えていると、部屋の扉がノックされた。
「旦那様」
アレクサだった。
「お前か。どうした」
また神殿でなにかあったのかと思い、アルヴァロッドは案じ顔になって彼女を招き入れた。
「大したことじゃないんです。ただ、これをお見せしたくて」
それは、刺繍糸を編んだ飾り紐であった。
「……これは……」
「これ、今日信者の方からいただいたんです」
「信者に?」
「はい。ようやく戻ってこられて安心した、魚も海も元通りだ、ずっとロレーナにいてほしい。って言って、これをくださったんです。自分で編んだと言って」
青と紫の糸で編まれた、複雑なものである。
「私、信者の方にそんなこと言っていただくの、初めてです。だから旦那様にお見せしたくて。申し訳ありません、お疲れだったでしょう。もう行きます」
「いや、疲れてはいない。もう少しここにいて、今日あったことを話してくれ」
「いいんですか?」
アレクサはちょっと驚いたように目を見開いて、それから彼がああ、とこたえると、勧められるままにそこに座って一日のことを話し始めた。
アルヴァロッドは髪をほどきながら、話すアレクサの笑顔をしみじみと見つめていた。
――屋敷に来た頃はあんなに怯えていたというのに、お前は見違えるようになったな。
ずっと笑っていてくれ。私のためにも。
アレクサが辞していって、アルヴァロッドはウリエンスから受けた報告のことをちらりと考えたが、いや、今はやめておこうと思い、そのままその日は眠った。
翌日、リィラは冴えない顔色のまま王宮を歩いていた。
ふと、あちらで笑い声がするので顔を上げると、それは紛れもなくアレクサンダーのものである。思わず笑顔になり、近くへ行こうと歩む速度を上げる。
しかしお目当ての王子が誰といるかを目にして、リィラの表情が見る見る曇った。
彼は、あの美貌の騎士と話していたからである。
その笑顔は、リィラが未だかつて見たこともないほど明るく屈託のないものであった。
――なによ。あんな男。わたくしだって。
そう、王子とて、女性に興味がないというわけではない。今からだって、遅くはないはずだ。
リィラはそう思い直して、奥歯をぎりぎりと噛みしめて覚悟を決めて、笑顔を作ってその場に乗り込んだ。
「ごきげんよう、みなさま」
王子が振り返った。
「やあ」
あら、今日は機嫌がいいわ。この男のせいかしら。
王子が振り返っているというのに、騎士は我関せず、リィラを相手にしていないのか、こちらを見ようともしない。
「君か。なにしに来たの」
「なにをお話ししていましたの。わたくしも仲間に入れてくださいな」
「君にはどうせわからないよ。ねえアストリーズ」
「ええ」
アレクサンダーとアストリーズが、なにかを囁き合いくすくすと笑いながらこちらを見る。リィラはむっとして、
「あら、わかりませんことよ。話してみないことには」
「無駄無駄。ねえ、そうだろアストリーズ」
「はい殿下」
王子と騎士は何事か愛の言葉を言い交わし合いながら、耳に触れたり胸元に手を差し入れたりしてじゃれ合っている。
「ねえアストリーズ」
「あん、いけません殿下。人目が」
「いいじゃないか」
と、どんどん二人が自分たちの世界に入っていってしまうので、リィラは目のやり場に困ってしまい、その場にいることが息苦しくなってきて、
「わ、わたくし、これで失礼しますわ」
と、その場を去ってしまった。
アストリーズの胸元に唇を這わせていたアレクサンダーはそれを聞いて、
「……行った?」
「行きました」
「確かなの」
「この目で見ました」
「わからないよ。柱の陰にいるかも」
「いえ、大丈夫です。足音でわかりますから」
「そう。じゃあもう離れても大丈夫だね」
やれやれ、とアレクサンダーはアストリーズから身体を離して、
「ごめんね。演技とはいえべたべたしちゃって」
「いえ、こちらこそ馴れ馴れしくしてしまって、申し訳ございません」
アレクサンダーは手をひらひらと振った。
「いいのいいのー。これであの女を追い払えるんだったら安いもんだよ。もう一息ってとこだね」
「うまくいけばいいのですが……」
アストリーズの顔に影が差した。これ以上、こんなことはやりたくないとでも言いたげだ。
「辛いだろうけど、もうちょっと辛抱しておくれよ。悪いようにはしないから」
「……はい」
「アルヴァに、あとで僕の部屋に来るよう言っておいて。下がっていいよ」
「は。失礼いたします」
アルヴァロッドは、その日の夕方にやってきた。なにやら、案じ顔である。
「私の騎士が、ひどく悩んでいるようですが」
「そりゃそうだよ。そうでもないのに男色の真似事なんてしなくちゃいけないんだからさ。
誰かに見られでもしたら、瞬く間に噂の的だよ。それって騎士にとっては、不名誉なんじゃないのかな」
「そうなんでしょうが……」
まあいいでしょう、とアルヴァロッドは気を取り直して王子と話を進めた。
「ウリエンスが伯爵邸に忍び込んで、色々と情報を集めています。リィラ嬢の父親という男は四十代の野心の強い男で、父とは最近知り合ったようです」
「そんな男と懇意にしてどうしようっていうのかなあ」
「もう少し調べればわかると思うのですが……」
「引き続き、頼んだよ。こっちはもう少し、したくもないイチャイチャを堪能するとしよう」
「あなた、結構楽しんでるでしょう」
「そんなことはないよ」
なにを言う、とでも言いたげな大袈裟な身振りと表情で、アレクサンダーはおどけて見せた。しかし、アルヴァロッドの言葉が的を得ているのは間違いがない。この王子、普段暇で暇でしょうがないため、こういった余興は大歓迎なのである。
「まったく……」
アルヴァロッドは呆れ果ててため息を一つつき、王子の部屋を辞した。そしてそのまま、王子の馬車に乗って別邸に帰った。もうじき夕食の時間だ。
アレクサが玄関まで迎えに出てきて、
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ただいま。なにか、いいにおいがするな」
「はい。今日は、ウリエンスさんがお夕食を作っています」
と、くすくす笑いながら言うので、アルヴァロッドはちょっと眉を寄せて、
「む、ウリエンスがか。そうか」
と唸った。
「確かに豪快ですね。なんというか……」
「あいつの剣そのものだ。包丁も剣だと思っているんだ、あいつは」
額に手をやって、アルヴァロッドは悩ましげに呟いた。そうか、今日の食事当番はウリエンスか。致し方ない。
献立はアレクサが考えたが、料理の担当はウリエンスである。それを裏づけるかのように、切ったはずの大根はつながっていたし、野菜の皮の所々は剥き切れていなかった。
そんなところにある意味のなつかしさを感じながら、アルヴァロッドはアレクサにその日のことを尋ねた。
「今日はどうしていた」
「はい。今日は祝福を希望される方がたくさんいて、大わらわでした。全部でえーと、七組、でしたかしら。それくらいのご夫婦がやってこられて、その方たちに祝福して、あとは生まれた子供にも祝福をしました。五人くらい」
「祝福三昧だな」
「そういう日は、気分が落ち着きます。なにせ、お祝いしかしないので」
「毎日そうであってほしいものだ」
海の巫女の生活というものは本来、安寧と平穏に満ちたものであるとされている。
アレクサのそれのように、不安と憂慮に苛まれていてはならないのだ。
出奔の生活を経てロレーナに戻ってきて、民のアレクサに対する視線が変わってきたようである。
今までは不吉の予兆、悪い託宣しかしない巫女とみなしていたのを、段々と彼女を受け入れるようになってきた。
それは、アレクサの実力を認めているということにも繋がっている。
ようやく、彼女が日々努力していることが人々にも見えてきたのである。
翌日、登城したアルヴァロッドは王子とアストリーズと相談して、最後の一手を決めることにした。
それは綿密に、しかし確実に実行された。
リィラはその日、ローレンという侍女に言われて王子の伝言をもらった。
「殿下が……?」
「はい。お見せしたいものがあるから、今夜八の刻ぜひぜひ寝室にお越しいただきたいとのことでございます」
「寝室に?」
「どなたにもお知らせせず、必ずお一人で来るように、とのご厳命でございますよ」
とその侍女が声をひそめて言うので、リィラは頬を染めた。
あの王子が、私室に彼女を近づけたことは今までに一度もない。
しかし、とうとう自分にその気になってくれたのだ。
彼女はそう思った。
なによ、あんな騎士。わたくしだって、本気を出せばこれくらい。
湯に長いこと浸かって香油で肌を潤し、髪を入念に
寝室の扉の前で、深呼吸を一つした。
とうとう、わたくしの花の操を捧げる日が来たのね。
扉をノックしても、なかから
もう一度ノックしてみる。やはり、返事はない。
「殿下?」
声をかけたが、同じだ。気ばかりが急いて、若いリィラは仕方なしに扉をそっと開けた。
そこで彼女が見たものは――
裸でベッドの上に横たわるアレクサンダーと、アストリーズの姿であった。
「なっ……」
「ああなんだ、君か。どうりでうるさいと思った。そういえば呼んでいたっけ。なんの用?」
「あ……あ……」
リィラは今度こそ青ざめ、打ちのめされて声も出せず、後退るとそのままそこから駆け出してしまった。それを見ていた王子はくくくくく、と忍び笑いを漏らしていたが、やがてたまりかねたようにその笑いも大きくなっていき、彼はとうとう大声で笑い出した。
「あははははは。見た? あの女のあの顔。やってやったよ。たかだか男同士で服脱いだだけだってのに。なのにあんなに青くなっちゃって。あはははは。おかしいったらありゃしない」
「……」
「今ごろ、あの女はお父上のところに泣きつきに行ってるだろうね。ウリエンスが尾行してるはずさ。君、君もご苦労だったね。行っていいよ」
「……はい」
どこか様子のおかしいアストリーズが出ていっても、アレクサンダーはそれには気がつかずしばらく笑い続けていた。アルヴァロッドが尋ねてきて、
「首尾はいかがですかな」
「こんなに愉快なのは久しぶりってくらい愉快だよ」
「うまくいったということですね」
「僕を誰だと思ってるんだい」
ふふん、と鼻先で笑い、アレクサンダーは言った。
「上々に決まってるだろ。上も上、さらにその上をいく上だよ」
「大変けっこう」
しばらく待っていると、ウリエンスが戻ってきた。
「どうだった。リィラ嬢は伯爵に会いに行ったか」
「泣きながら会いに行きました。こんな侮辱には耐えられないと、しばらくの間修羅場でございました」
「へへえ」
「それで?」
「伯爵はなにか考えていましたが、大旦那様に使いを出して、明日の夜会いに行くという旨を伝えたようでございます」
「明日の夜だな」
「はい」
そこでアレクサンダーとアルヴァロッドは次の日の夜を待って、ウリエンスの手引きでウィグムンド本邸に忍んで行った。本邸の人間には三人とも顔をよく知られているので、一時たりとも油断ができなかった。
そうしてなんとか見張りや当番の目をすり抜けて当主の執務室の扉の前へやってきてそこに耳をつけると、当主と伯爵はどうやら密談の真っ最中である。
「どういうことですかな公爵。あなたが王子は狙い目だというから私は自分の娘を」
「まあそういきり立つな。私とて驚いているのだ。まさか王子が両刀だったとは」
ぷくく、と聞いていた王子が忍び笑いを漏らした。
「しかも、王子つきの騎士といい仲だというではありませんか。娘の面目は台無しだ」
「うーむ」
「王子が男に夢中だというのなら、計画も練り直しということになりますぞ」
計画……?
アルヴァロッドはアレクサンダーと顔を見合わせた。
「両刀というのなら、お前の娘もまだ使いようがあるというものだ。なにせ、王子はついこの前までは女の尻を追いかけていたのだからな」
「私の娘と王子を結婚させたのち、私を公爵家の養子にしてあなたの息子にし、王家の外戚になるというあなたの野望はわかる。だが、肝心の王子がなびかないというのならこの話はなしだ。娘をこれ以上傷つけるつもりはない」
そこまで聞いて、アルヴァロッドとアレクサンダーは驚きで小さな声を上げていた。
「なんだと……?」
「なるほどね」
アレクサンダーは呟くと、立ち上がった。
「話は聞いた」
彼は扉を開けるのと同時にそう叫んだ。
「な……で、殿下」
「ここでなにを」
「公爵、いや、引退したから元公爵というべきかな。あなたの企みはすべて聞かせてもらった。人間を物のように扱って自らの道具にするとは言語道断。伯爵と共に、国外追放とする」
「な、な、そんな権限が」
「あるんだよ。残念ながらね」
「父上、あなたというひとは」
アルヴァロッドはため息をつきながら部屋のなかに入った。
「呆れ果てて、ものも言えません」
「あ、アルヴァロッド、おお前まで」
「騎士たちの身柄は、一旦私が預かります。彼らまで巻き込むのは、あまりにむごい」
「そういうことで、早くここから出ていって。僕、みにくいものがなにより嫌いなの。みにくい人間、みにくい動物、あ、みにくい心の持ち主もね。じゃ、そういうことで、よろしくね」
片手を上げて背を翻し、王子は颯爽とそこから去っていった。アルヴァロッドは後ろを振り返りもせず、その後を追った。ウリエンスは一礼して出ていった。
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