立ち上がれ哲学者
N氏@ほんトモ
第1話
立ち上がれ哲学者
男はトイレに座っていた。小さな個室の中で、彼は己の苦しみと向き合っていた。昨晩、街の居酒屋で散々飲み食いしたツケが、容赦なく腹にのしかかっている。焼き鳥、揚げ物、刺身、締めのラーメン、そして何杯も流し込んだ酒――それらすべてが、今になって彼の腹の奥で暴れ回っていた。
額にはじっとりと汗が滲み、呼吸は浅く、不規則になっている。指先は微かに震え、両脚は妙なこわばりを感じていた。腸がぐるぐるとうねり、体内で何かがせめぎ合っているような感覚がする。時折、鈍い痛みが腹の底からじわじわと広がり、彼は無意識のうちに奥歯を噛みしめた。
「人間の尊厳とは何か?」
ふと、そんな問いが彼の脳裏をよぎった。
食べること、飲むこと、それが生きることだと信じていた。空腹を満たす歓び、酔いの心地よさ、それらを追い求めてきた結果が、今のこの惨状だ。全身の力を振り絞り、冷たい便座の上で耐えながら、彼は思う。尊厳とは、こんな状態になってもなお、人間であることを意識することなのか。それとも、ただひたすらに苦しみに身を委ね、時が過ぎるのを待つことなのか。
哲学書を読むのが趣味だった。分厚い本のページをめくるたびに、新たな思索の世界へと足を踏み入れる。ヘーゲルの弁証法に思いを巡らせ、ニーチェの超人思想に衝撃を受け、ハイデガーの存在論に酔いしれる——難解な理論を咀嚼し、それを自分なりに解釈することが彼の密かな楽しみだった。そして、そうして得た知識を酒の席で熱く語るのが、何よりの至福のひとときだった。
「人間の本質とは何か?」「自由意志とはどこまで本当に自由なのか?」そんな問いを投げかけると、仲間たちはそれぞれ異なる反応を見せた。何人かは「また始まった」とばかりに面倒くさそうに笑いながらグラスを傾け、何人かは興味深そうに身を乗り出し、彼の言葉に真剣に耳を傾けた。時には激しい議論に発展することもあったが、それすらも彼にとっては心を満たすひとときだった。
彼にとって、その時間はただの会話ではなく、魂の糧だった。考えること、語ること、それによって自分の存在を確かめること——それこそが、彼の生きがいだった。
しかし——今、この瞬間、そんな崇高な思想も、哲学的命題も、便意の前では何の役にも立たない。己の肉体が発する原始的な衝動に翻弄され、ただ苦しむしかない自分。こんな状態に「尊厳」などあるのか?
男は力なく顔を上げ、トイレの壁を見つめた。そこには、どこにでもあるありふれた注意書きが貼られている。
「使用後は必ず流しましょう。」
そんな当たり前の言葉に、不意に心が引っかかった。流す——そう、もし人生のすべての汚点が「流せる」ものだったら、どれほど気楽だろうか? もし、人が犯した過ちや恥が、水の流れとともに消え去ってしまうのなら……。
人間は生きるうえで、数え切れないほどの失敗をする。取り返しのつかない言葉を吐き、誰かを傷つけ、時には自分をも裏切る。そんな痕跡をレバー一つで洗い流せるなら、どれだけの人が救われるだろう。後悔に苛まれず、過去に囚われず、ただ「清められた」自分として生きていけるなら……。
だが、人生はそう甘くない。流せないものばかりが積み重なっていくのが、人間の生というものだ。誤ちも、恥も、罪も、消えずに残る。水に流すことのできない記憶が、時に人を苦しめ、時に人を成長させる。
「結局、人間の本質とは排泄ではないのか?」
哲学者たちは、この問いにどう答えるだろうか?
カントは規則正しい生活を送り、毎日決まった時間に散歩したという。では彼の腸もまた、規則正しく活動していたのだろうか? 朝のコーヒーを飲んだあと、トイレに駆け込んだことは? 厳格な道徳法則を唱えた彼も、便意には逆らえなかったはずだ。ニーチェは「神は死んだ」と叫んだが、腸が彼の意志に背いたとき、どんな形而上学的絶望に襲われただろうか? ストア派の哲人セネカも、ある朝、硬い椅子に座ったまま眉間にしわを寄せ、「排便とは自然な営みである」と自分に言い聞かせながら、便秘の苦しみに耐えたことがあったのではないか?
ソクラテスは「無知の知」を説いた。しかし下痢に襲われるとき、人間は己の無力さを痛感する。「無知を知れ」どころではない。「己の腹を制御できぬ者が、何を知り得ようか?」と、彼なら冷静に言い放つだろうか? あるいは、苦痛のあまり沈黙するか?
「思考する葦は便器の上でも思考できるのか?」
人間は知性を誇り、文明を築き、倫理を語る。だが、この瞬間、知性も倫理も関係ない。哲学の命題よりも、肛門の締まり具合のほうが重要だ。いや、もはや意識のすべてが、そこに集中している。快楽や苦痛の問題を語るヒュームも、この状況に置かれれば「経験的に判断するに、これは間違いなく苦痛である」と即断するしかない。
排泄とは何なのか? これは単なる生理現象か? それとも、もっと根源的な、人間の本質に関わる行為なのか?
食欲、性欲、睡眠欲――これらは人間を根源から突き動かす三大欲求として広く認識されている。しかし、生命を維持するために不可欠でありながら、あまりにも当然の営みとして見過ごされがちなものがある。それが「排泄」だ。
我々は食べることで生命を維持する。食事は単なる生理的行為ではなく、文化や社会性、さらには精神性までも内包する。しかし、その行為の帰結として生じる「排泄」については、語られることが少ない。食べれば出す。それは循環の原理であり、自然の摂理である。摂取したものが身体を巡り、栄養となり、そして不要なものは捨て去られる。このプロセスを欠くことは、すなわち生命の停止を意味する。
この観点からすれば、人間とは「取り込み、変容し、排出する存在」と言えるのではないか。思考や感情においても同様のことが言える。情報を受け取り、咀嚼し、自らの内で熟成させ、何らかの形で外部へと吐き出す。言葉も、思想も、創作も、ある意味では「精神の排泄」なのかもしれない。もしそうだとすれば、排泄は単なる生理現象にとどまらず、生命の本質そのものではないだろうか。
どんなに高邁な思想を掲げようとも、人間は排泄なしには生きられない。この不可避の事実を直視したとき、我々の存在は驚くほどシンプルに還元される。「生きる」とは「排泄し続けること」であり、「自己とは何か」という問いすら、「何を取り込み、何を排出するか」という問題へと変容する。ならば、人生とは「より良く排泄することを模索する営み」とすら言えるのではないか?
排泄とは単なる不要物の排出ではなく、世界との関わりの証明であり、生命の連続性の表現である。人間の本質は、そこにこそあるのかもしれない。
だが、この苦しみの最中に、そんな哲学的な考察を続ける余裕はない。理性はどんどん曖昧になり、ただひたすらに「早く解放されたい」という一念がすべてを支配する。知性がどれほど発達しようと、人間はこの瞬間、本能に屈するしかないのだ。
便意が最高潮に達したその瞬間、男の思考はある種の悟りに至った。
「トイレこそが、究極の民主主義ではないか?」
ここでは、誰もが等しく屈み、踏ん張る。王であれ、奴隷であれ、貴族であれ、庶民であれ、全ての人間が同じ姿勢を取り、同じ表情を浮かべ、同じように苦しみ、そして同じように流す。そこに階級の差はない。資本主義の支配も、封建制度の名残も、独裁の恐怖も、この個室の中では無意味だ。トイレは、真の意味で人間を平等にする神聖な空間なのではないか?
彼は苦痛に耐えながら、さらなる思索を巡らせた。
「神の前では皆平等、と言うが、むしろ便器の前では皆平等なのでは?」
宗教は死後の世界における平等を説く。信仰を持つ者は、天国や極楽浄土を信じ、そこで全ての魂が同じ価値を持つと教えられる。しかし、トイレはそんな遠い未来を待たずとも、今この瞬間、生きている者すべてを平等にする。ここでは権力者も貧者も同じ苦しみを味わう。どれだけ財を成しても、どれだけ支配力を誇示しても、便意の前ではただの人間なのだ。
もし、歴史上の独裁者たちがこの事実を深く理解していたなら、世界はもう少し平和だったのではないか?
たとえば、ナポレオン。彼は戦場では天才的な指揮をとり、政治の世界でも精密な戦略を巡らせた。しかし、彼もまた胃腸の不調に悩まされていたという。もし彼がトイレの中で、自らが兵士たちと同じ生理的苦痛を分かち合っていることを強く自覚していたなら、彼の統治はもう少し穏やかなものになっていたのではないか?
あるいは、ヒトラーやスターリン。彼らの暴力的な支配も、もし彼らが便座の上で「私は人民と同じ苦しみを共有しているのだ」と認識していたなら、異なる形になっていたのではないか? トイレという究極の民主主義空間が、独裁の暴走を抑止する可能性を持っていたのではないか?
そう考えると、トイレは単なる排泄の場ではなく、人類の平等を象徴する神聖な場なのかもしれない。
そしてついに、男はすべてを出し切った。
長く、苦しい戦いだった。全身の力が抜け、彼はゆっくりと天井を仰ぐ。達成感と虚脱感が入り混じり、どこか恍惚とした気分になる。この感覚は何なのか? 解放? 安堵? それとも、もっと深遠な何か?
「これはいわば、一つの解脱ではないか?」
仏教では、煩悩から解放された境地を「解脱」と呼ぶ。しかし、それは何も精神世界に限った話ではないのではないか? 長きにわたる苦痛からの解放、内なる不要なものをすべて出し尽くした後のこの感覚は、まさに一種の悟りではないか?
便意とは人間にとって不可避の運命であり、排泄とはそれを克服するための儀式である。そう考えれば、トイレとはただの衛生設備ではなく、人間の生と死、苦しみと救済を象徴する場なのかもしれない。
男は、静かにレバーを捻る。
水が流れ、すべてが消えていく。その音を聞きながら、彼は思った。
人間の尊厳とは、最後に立ち上がれるかどうかだ、と。
<了>
立ち上がれ哲学者 N氏@ほんトモ @hontomo_n4
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