『葡萄真砂と潰されたケーキ』

スナコ

『葡萄真砂と潰されたケーキ』

代々葡萄家の子供達が生徒として三年間を過ごしてきた中学校は、長年その形を変えていないけれど。長女の氷の子が入学してから、既に十年以上の時を経ているだけあって、その周りは色々と細かく様変わりを繰り返している。

鹿の子が中学生になって、早三年。特別な用がない限り寄り道をせずにまっすぐ家に帰る事で有名な彼女は、しかし最近、ある決まった場所に二週間に一度から二度程のペースで立ち寄って買い物をしていくようになった。

小さな、個人店のケーキ屋。半年程前に鹿の子の通う中学校の通学路に開店した小さな店は、こじゃれた外観をしていて。それにつられて入ってみた所、ショーケースの中できらびやかに輝きを放ちながら、「私を食べて!おいしいよ!」と強く主張してくるケーキの数々にせがまれる声に衝き動かされてひとつ買ってみた所、これが大当たり!甘い物が好きな鹿の子の舌を虜にして、今ではすっかり行きつけと化している店である。

自分と、一緒に暮らしている兄の真砂のと、二人分。ふと味が恋しくなったり甘い物が食べたくなった日に、ふらりと立ち寄るのをここ二ヶ月程の楽しみとしていた。

いつものように、二人分。ケーキを買って、兄より早く帰らなきゃと早歩きで鹿の子は家路を辿る。セーラー服の襟とスカートが、風にひらめいて。ぱたぱたと軽く背と膝を叩く感触が心地いい。

兄の真砂は、とっても淋しがり屋で、心に孤独への強い不安を抱えているから。帰ってきた時に家に自分がいないと、しゅんとして元気がなくなってしまうし、帰りが極端におそくなってしまうとずっと一緒と信じていた双子の片割れに一人置いていかれたトラウマに襲われて恐がって泣き出して外にまで探しに出てきてしまうから。自分がいる限り、もうそんな思いはさせないと、最初に捜索騒ぎになった時自分の身の心配とトラウマからの不安で涙でぐちゃぐちゃになった彼の泣き顔に誓ったのだ。

自分は学生で、彼は仕事に就いている社会人だから、余程の事がない限り自分の方がおそくなるという事はないのだけれど。それでも、彼の仕事が早く終わって帰れる可能性だってなくはないのだから。用もないのに、彼がいない外に長居する必要もないし。

ケーキ、喜んでくれるかな。甘栗が乗ったショートケーキと、りんごのシフォンケーキ。秋の新作なんだって、鹿の子がお買い上げ第一号なんだってって。お喋りしながら食べるの、楽しみだな。

好きな物を、好きな人と二人だけで食べる。こんな幸せな事が、前の家にいた時は遠かった幸せが、当たり前に手が届く場所にある。

その事実が、どうしようもなく嬉しくて、くすぐったくて。愛らしい顔にはちみつのように甘くとろけた笑みを浮かべながら、鹿の子はくふくふと笑って。擦れ違う人々にまで幸せを振り撒きながら、スキップするような軽い足取りで二人の家へと向かうのだった。


ケーキはデザート、晩ご飯の後。真砂が作ってくれたおいしいシチューを食べ終えて、すっかり満足して息をついていると。

「お待ちかね、だろ?」

と。タイミングを見計らって、真砂が冷蔵庫に入れておいたケーキの箱を持ってきてくれた。

「さっすがおにぃちゃん、気が利くぅ!・・・あ、でもその前におトイレ行っとこ」

不意に股間に走った尿意に、それを我慢したままでは気を取られてせっかくの楽しい時間を満足いくまで楽しめないと。ちょっと待ってて、との意を込めて言うと、

「あ、じゃあ皿に出しといてやるよ。こないだ買った新しいやつおろそうぜ」

せっかくの新生活なのだからと、真砂は実家から持ち込んできた物をあまり使わない。二人で選んだ物を、少しずつ買い足して、そうやって真っさらな家と日常を埋めていきたいのだと。なかなかにロマンチックな考えを披露して、鹿の子を喜ばせたものだ。

「うん!じゃあセッティングよろしくねっ」

立ち上がってぱたぱたとトイレに向かう鹿の子を横目に見送りながら、真砂は台所から持ってきた皿とフォークを並べ、ケーキを出そうと箱に手をかけた。すると、かさり。何か、紙がひらめくような乾いた軽い音が聞こえた気がした。

「?」

くるり。箱を裏返してみると、開け口とは反対側の面に、掌で覆える程度の小さな紙が一枚貼り付けてあった。

鹿の子はいつも同じ店で中に保冷シートが施された紙袋を買って、ケーキの箱を入れて持ち帰ってくる。箱と同じロゴのマークが印刷された紙袋は、ケーキの箱のサイズに合わせて作られていて、ほんの一センチ程しか隙間がないくらいにぴったりに収まるから。上からまっすぐに取り出しただけでは、片面しか目に入らず二分の一の確率で気づかれないまま終わるだろう。今の自分のように回してみない限り、箱を捨てようと潰す時まで気づかない可能性もある。

なんだろう、割引券か何かだろうか?いやそれにしては随分簡素だし、何より字が手書き・・・不思議に思いながらも軽い気持ちで、箱にセロハンテープで留められたメモを下から浮かせて目を滑らせてみると、


『前から可愛いなって気になってました。友達からでもいいので、ぜひ連絡ください 090-××××-××××』


乱雑な、続け文字。急いで書いたのだろう、紙面に走り書きで刻まれた字を、それが持つ意味を、脳が理解した瞬間。

「ッ!」

胸の中で、どす黒い感情が。暗い洞窟のような場所に広がる黒い感情の沼の水面で、ごぼりと粘性の高い音を立てて膨らみ、大きな泡となって弾けるイメージが見えた。

と、同時に。ぐしゃっ!と。手が、完全に無意識に動いた右手が、渾身の力でテーブルに叩きつけられて。箱ごとケーキを潰して、見るも無惨な姿へと変えていた。

殴りつけた際の衝撃で開いた箱の隙間から飛んできたのだろう、頬に貼り付き、痛いくらいに握り締めていた拳に纏わり付くクリームが。食欲を刺激する、雪のような白い色が、この世の何よりも忌まわしく厭わしい物に思えてしまって。

「ッう゛っ!!!!」

手に付いたそれを振り払うように、視界からそれを消そうとするように。テーブルに並べた皿ごと、真砂はそれを力いっぱい真横に薙ぎ払った。

ガシャン!ガシャガシャガシャ、どしゃっ

皿の割れる音、マグカップと皿がぶつかり合う音、フォークが壁に叩きつけられる音、ケーキが落ちる湿った音。

耳障りなそれらは、怒りに沸騰した頭にはまっすぐ届かず、どこか遠くにくぐもって聞こえる。

目の前から忌まわしい物体がなくなっても、胸に沸いた熱は治まる気配を見せず。ふーふー、と興奮に荒い息をついていると、

「なっ何!?どしたの、・・・う、うわ・・・?」

普通にしていれば生まれない大きな破壊音に驚いて、鹿の子が慌てた様子で戻ってきた。

どたたと足音を気にする余裕もなく走ってきたその顔に広がるのは、困惑。彼女からしたら突然、なんの脈絡もなく兄が豹変して暴れ出したようにしか映らない事だろう。

実際、鹿の子の困惑の原因は、あまり見る事のない真砂の怒りよう・・・それも大きかったが。それ以上に、兄が、あの家で育った自分の兄弟が。物、しかもあろう事か「食べ物に向けて」怒りをぶつけていた、この点が彼女を混乱に陥らせた。

葡萄家の躾はとても厳しい。基本的、一般的な礼儀は当然の事として徹底的に叩き込まれた。

挨拶、受け答え、人前での振る舞いに所作。両親は教育に熱心で、子供達の情緒的な面に関してはともかく、躾にはよその家から見れば度を越しているレベルで情熱を傾けた。

その中でも、食べ物に関する躾はかなり厳しかった。食べ物を粗末にしてはいけない。命をいただいているのだから、米の一粒でも、しっかり敬意を払って食べるべきだと。

大家族の宿命とでも言おうか、葡萄家の食卓に並ぶ一食分の量は、お世辞にも多いとは言えない。総勢十二人の家族の生活を支えているのは、父の砂人ただ一人。極端に困窮している訳でもないが、裕福な暮らしができる程家計に余裕がある訳ではない。

その結果、わかりやすく削れる部分として、真っ先に反映されるのは食事である。

しかも真砂は兄弟達の中でも燃費がいいと言うのか、すこぶる代謝がいいらしく、人一倍食料を必要とした。しかしいくらねだっても、これも躾の一環だとして、両親は追加の食料を渡してやる事はせずに我慢を強いた・・・から。食べ物の価値とありがたみを兄弟で一番知っているのは、間違いなく彼だと言うのに。例え両親の教えがなかったとしても、その価値観は変わる事なく形成された事だろう。

そんな彼が、食べ物を。しかも、ご馳走の代表格とも言える、ケーキを。叩き潰した。

通常なら有り得ない光景に、彼に異変が起こっているのは明白で。信じられずに呆然として動けずにいると、

「あっ・・・ぅ・・・」

ふー、ふー、と、いまだ興奮に荒げた呼吸は止められないものの。鹿の子の姿を目にして、真砂は明らかに狼狽えて怯えたような声を上げると、咄嗟にクリームにまみれた右手を背に隠した。

吊り気味の目尻と眉を限界まで垂れ下げて、不安気に揺れる目で。自分がいつ怒り出すかと怯えて、体を縮めて上目遣いで自分の様子を窺っているその様に、鹿の子はその頭と腰にぺしょりと垂れた犬の耳とくるんと巻いた太い尻尾を幻視した。

確かにケーキを楽しみにしていたのは事実だけども・・・今はそんな事より、いつも穏やかな彼をこんな暴力的な行動に走らせた原因の方が気になった。

そっと彼の傍へと歩き、隣に膝をつく。

怒ってなどいない事を示すために、下から顔を覗き込む体勢を取って、努めてやわらかい声音を意識して。

「何があったの?ゴキブリでもいた?」

恐い事でもあったの、大丈夫かと。訊ねる。

この惨状を、責めるのではなく。自分の目を見て、自分の身の心配を、してくれている。

「ぅ、えっ・・・!」

幼い頃から雑に扱われる事の方が多く、気遣われる事が少ないという歪な育ち方をした真砂は、優しさを受けたり心配される経験が極端に少なく。たったこれだけの事でも、端から見れば大袈裟なくらいに心を震わせてしまう。

「ゃ・・・こ、わ・・・ぇっ・・・」

ぼろぼろ、ぼろぼろ。喉が引き攣って、出せない言葉の代わりのように。止めどなく溢れ出て、フローリングに弾けて小さな水溜まりを作る涙を、止めてやりたくて。痛みに震えるその心に少しでも寄り添ってやりたくて、いつものように涙を拭ってやるために、手を伸ばしてーーー

「ッ!」

しかしその優しさと思いやりに満ちた手は、ぐんっ!と真砂が上半身を思いきり反らした事によって、あたたかな肌にも涙にも触れないままにその場に留まる事になった。

「え、・・・え?」

よけ、られた?

たまたま目の前を蚊が飛んでいたから、などという理由ではなく。明確な意思を持って、「自分の手」を避けた事が、動揺にぶれる事なくーーーしかしよけた分遠くからーーーこちらをまっすぐ見つめるふたつの目が、教えてくれた。

何かの間違いだろうか。今までに兄が、ここまで明確に自分の接触を拒否した事はなかったのに。どんな事をしても、いつだって最後には、受け入れてくれてきたのに。

鹿の子に、触られたくない?それとも、触らせたくない?

どうして?

信じたくなくて、何かの間違いだろうかと思いたくて。一縷の希望に縋る心地で、もう一度触れようと顔に向かって手を動かすと、

「や、だめ・・・!」

ぶんぶん!と。大きく首を横に振り、・・・慌てた様子でティッシュの箱を引き寄せ、じゃじゃっと数枚引き抜くと、乱暴に自分の頬についていた生クリームを拭い去り。拭き取ったクリームがべったりと付いたティッシュを忌々しげに睨みつけながら、叩きつけるようにごみ箱へと叩き込んだ。

鹿の子が、その行動になんの意味があるのか、なぜそこまでティッシュについたクリームを忌まわしげに睨みつけているのか。いまいち読み取れないまま見守っている内に。

真砂は声を出せないまま、ぶるぶると震える左手で、床に落ちたケーキの箱に手を伸ばし。びっ!と乱暴に箱からカードを毟り取ると、字が書き付けられた面のカードを鹿の子に向かって見せた。字が視認できる程度、しかし手を伸ばせばすぐに引っ込められるくらいの距離で。

「え、何?メモ?・・・あ、あぁ。なるほど・・・」

見て、と促すその動きに従って、そこに並ぶ字に目を走らせると。鹿の子は全てを理解して、納得の声を上げた。


長年、あの手この手で真剣にアプローチしてきた甲斐あって、兄の言う「好き」は兄弟としてでのそれではなく。恋情を抱く者に対しての、切なくも甘い響きを持って自分に向けて放たれるようになった。

自分と同じ、好き。恋愛感情としての、愛。

その感情は、この世で一番と言っていい程にうつくしく尊いものではあるが。相手を深く、心から愛おしく大事に思うあまりに、嫉妬や独占欲という攻撃的な感情をも生み出してしまう事は・・・鹿の子自身がその身をもって、誰よりも深く、そしてどこまでも正確に。理解していた。

嫉妬も、独占欲も、相手を強く深く愛していなければ生まれない。逆に言えば、醜いとされるそれらは全て、どんなに大事に想われ愛されているかの証。

兄への恋心を自覚して以来、長年嫉妬の業火に灼かれ、鎖で縛ってどこにも出したくないと訴える独占欲の衝動に苦しみ続けてきた鹿の子だから。真砂が咄嗟に破壊に走ってしまった理由も気持ちも、理解できてしまうから。

だから、彼にかけるべき言葉は、

「ごめん、ごめんね?鹿の子が、メモに気づいてれば・・・うぅん、もっと早くに、そういう目で見られてるって気づいて、お店に行かなければよかったんだよ」

物心ついた頃には、自分が好かれやすい質である事に気づいていた。小学生の頃には、恋情や劣情を向けられる事も多々あった。

自分はよくも悪くも人を引きつけてしまう。それを知っていながら、警戒を怠った。それが彼の怒りを呼び起こし、恐怖させ、傷つける結果となってしまった。

「ごめんね、ほんとにごめん。おにぃちゃん、鹿の子の事、大好きなのに。すっごくやだったよね。恐かった、よね・・・」

自分以外の誰かに、気持ちが向いてしまったら。とられてしまったら。最悪の想像に襲われる度に、ぞっと底冷えするような恐怖に、自身が爆弾になってしまったかのような灼熱の殺意に。体の震えを止められないまま、やり場のない激情を抱えて苦しみ泣きじゃくった日々を思い返し。鹿の子は、心臓を絞られているような痛みに顔を歪めて、真砂に頭(こうべ)を垂れた。

「不安にさせて、ごめん」

「、やっ、」

違う、違う!お前を責めたくてこんな事したんじゃない!思ってもいなかった、まさかの鹿の子からの謝罪に、真砂は必死に首を横に振って否定の意を示した。

「かのこ、っは、悪くな・・・ちが、違う、それだけは違う・・・!」

恐かったのは事実だけれども、それを彼女のせいだなどとは思っていない。全ては、狭量で、臆病な自分のせい。彼女を信じきれない自分と、それ以上に、彼女に邪な目を向ける他の奴等のせいであって。彼女はなんにも悪くない、悪くない、のに。

ああ、どうして自分はこうなんだ。自分は兄貴で、彼女よりずっと歳上なのに。いつまでも感情と衝動をコントロールできなくて、彼女を困らせ、酷い時には泣かせてしまう。

もっと、鹿の子にとって、頼れる男になりたいのに。心に余裕をもって、どんと構えていられる男でありたいのに・・・どうして・・・。

ぼたたたた。我が身の不甲斐なさと情けなさから、真砂の目から再び大粒の涙が溢れ出す。

それを、いまだ継続する不安のためととったらしい。鹿の子は反射的に真砂の顔に伸ばしかけ、・・・て。あわあわと体の前でさまよわせた手を、それぞれぎゅっと握り締めて、

「でも、でもね、信じて?鹿の子ね、おにぃちゃ・・・真砂、の。真砂だけの、物だよ」

おにぃちゃん、ではなく、「真砂」と。名前で呼ぶ事で、ただ一人、正真正銘彼だけの事を指していると。わかってもらえるようにとの意味を込めて、鹿の子はあえていつもの呼び方を捨て、彼の名前を口にした。

「ずっと、前からずっとそうだったし、これからだってもちろんそうだよ。・・・真砂、言ってくれたでしょ?鹿の子の事、好きって。お嫁さん、に・・・してくれる、て・・・」

言っている内に恥ずかしくなってしまったのだろう、見る間に紅潮していく顔にエネルギーを吸い取られていくかのように、鹿の子の顔は自然と地に向かっていき、声量も小さくなっていった。

けれど、けれど。これだけは、言わねばと。はっきり、絶対に伝えねばなるまいと、鹿の子は重量を持っているかのように顔を俯かせる羞恥に必死に抗って、

「鹿の子・・・真砂のためにしか、真砂の隣で、しか・・・ウェディングドレス着るつもり、ないよ・・・」

真砂の目と、まっすぐに視線を絡ませながら。自分には貴方だけだと。他の誰も自分の心は奪えないし、心が傾く事もないと。言葉よりも雄弁である目で、告げる。

「う、ぁう・・・」

想いは、通じたらしい。鹿の子の真摯な想いを乗せた言葉と視線を受けて、不安と自責に揺らいでいた真砂の目は、落ち着きを取り戻し。不安が消え、心が平穏になった事で、負の感情による余計なノイズに惑わされる事なくまっすぐに真砂の心に届いたそれは、見る間に彼の顔を真っ赤に染め上げ。

二人の間に、ケーキなんかよりも余程甘い空気をもたらして、二人をひたすらに照れさせたのだった。


それぞれに想いを打ち明け合って、またひとつ、愛を深めて。負の澱んだ空気が掻き消えた所で・・・相手から目を離せば。改めて映るのは、惨劇の舞台と貸した部屋。

これがドラマか何かだったら、タイトルはさしずめ「ケーキ圧死事件の怪!」とかだろうかと考えて。鹿の子は一人、自分で考えたタイトルの陳腐さに小さく笑いながら、

「むー、でもざんねーん。ここのケーキ、クリームがおいしくって、気に入ってたのになぁ。もう行かれないね」

無惨に潰され、払い落とされた衝撃で箱から飛び出して床に広がる、憐れなそれを少しばかり悲しげに目を垂れ下げて見下ろしながら。鹿の子が落とした呟きに、

「・・・ケーキくらい、兄ちゃんが作ってやるよ。こんな奴が作ったのなんかより、ずっと美味いの・・・」

レシピに忠実に従えば、それなりの物はできるだろう。しかし、長年専門的に修行を積んで習得した技術を超えられるとは・・・正直思えない。

けれど、それでも、言わずにはいられなかった。

自分のわがままで彼女の楽しみを奪ってしまった・・・もっと言うならば、つい数分前までは普通に回っていた彼女の世界を狭めてしまったのだ。完全に同じ味の物は、作れない・・・代替品、穴埋めになれるとは、思えないが・・・せめてもの、償いとして。できうる限りの物を作るし、絶対にいつかは奪ってしまった味をも超えられるように努力するからと。それで、どうか許してはくれないかと。

誹りを受けるのを承知の上で、許しを乞うと、

「え、ほんと?やった!じゃあね、鹿の子ね、さくらんぼのケーキ食べたいな。フォレノワールってやつ!」

ぱあっ!と。予想外にも、やったラッキー!とばかりに顔を輝かせて、鹿の子は笑いながらリクエストまで投げてきた。

「お・・・怒ん、ねーの・・・?」

お気に入りの場所を潰された、素人が作った物が代わりになるか、等(とう)。どんな誹りでも受け止めてみせると身構えていた真砂は、あまりにあっけらかんとした・・・それどころか、むしろ嬉しそうに自分の案を受け入れた鹿の子の反応に、拍子抜けして目を泳がせていた。

「えー?なんでそんないい条件出されて、鹿の子が怒るのさ?」

鹿の子は、逆に「何を言ってるんだ?」とばかりのきょとんとした顔を真砂に向けて、

「そりゃ、おにぃちゃんが作ってくれた方が安心だしさ。おにぃちゃんなら、お店のなんかより、もーっとおいしいの作れるーって、信じてるし。へへ、むしろ楽しみだよ?」

わくわく。期待に輝くその顔には、自分を責めるようなトゲも、落胆を押し隠そうとする虚勢の影も、ない。心からの言葉、本心である事が、人の心の機微に聡い真砂にはわかってしまって。

「・・・あぅ・・・」

そんな彼女に、救われた心地になる。嫌われ、幻滅される恐怖にだろう、無意識の内に強張っていた体から力が抜けていく。

怒って、いない。責められない・・・そうとわかると、安心からゆとりが生まれた真砂の心に、後回しになっていた欲がむくりと湧いて。それは真砂をせっつくようにして、自身の存在を主張する声を徐々に大きくしていった。

「鹿の子、鹿の子・・・お風呂、入ろ・・・」

手は使わずに、クリームでよごれた左の頬は決してつけないように。鹿の子の肩に、額をぐりぐりとこすりつけて。ねだる。

自分は現物を触ってしまったし、鹿の子もこれが売っていた店の空気を吸い、しかもメッセージを書き付けたであろう男から手渡しで箱を受け取っているのだ。一刻も早く、洗い流して、綺麗になりたい。間男の匂いも影も記憶も、全部全部下水道に送って。安心、したい。

心臓が絞められるような切迫感に、呼吸が浅くなる苦しみを自覚しながら、縋るような思いでそう言うと。鹿の子は、ふふっと笑って。

「もう、鹿の子がいっくら誘っても、いつもは入ってくんない癖に。・・・いーよ。早くお片しして、一緒に入ろうね」

しょうがないなぁ、とばかりに、くすくす笑って。こち、と頭を軽くぶつけ返し、髪を絡ませるように頭をぐりぐり押しつけてくるその動きに、泣き出したくなるような気持ちに襲われていると。鹿の子は不意に、ぱっと体を離して。

そうと決まれば!とテキパキ動いてごみ袋を広げ箒とちり取りを持ってきてくれた鹿の子の姿に。真砂は密かに心に決めた事があった。

どちらの体も全部洗って綺麗にしたら、たくさんキスしよう。唇を重ねて深く押しつけて、強く強く抱き締めて、体中をくまなく触って。彼女の全身に余す事なく自分の匂いを染みつけて、体の中にまで馴染ませよう。この子はもう自分の物なのだと、誰も手出しなんかできないと。誰にもすぐにわかるように。

そして、鹿の子からも。たくさんたくさん、キスしてもらおう。一瞬でも、他の誰かにこの子を取られてしまうかもだなんて。不安に揺らいでしまった自分の弱い心を、愛の証明を体に受けて、補強してもらうのだ。

そのためには、さっさとこの惨状を片付けねばならない。

早く、早く。ケーキを潰すのは仕方なかったにしても、夕食分の皿まで落としたのは失態だった。衝動に身を任せてしまった事を強く後悔しながら、真砂ははやる手で・・・しかし、下手に急いで怪我をして鹿の子に血を見せる訳にはいかないと、自分を落ち着けるのに必死になりながら、砕けた食器を片していくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『葡萄真砂と潰されたケーキ』 スナコ @SS12064236

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ