『葡萄鹿の子の愛の果て』

スナコ

『葡萄鹿の子の愛の果て』

寝ている内に高砂が出ていったのがトラウマで、寝る→「意識を失って何もできないでいる内に何かが変わってしまう」のが恐くて、寝つきが悪くなり眠りも浅くなってしまった真砂 本人は恐れから寝たくないけど、今はまだ些細だけど生活に支障が出ているのに気づいて、鹿の子は心配していた→そんな時、いつものようにじゃれている(スキンシップをかけている)内に、ぎゅっと抱き締めてやれば安心するのか、かなり強い眠気に襲われているらしい事に気づいた鹿の子 試しに胸に頭を導いて、強く抱き締めて、背をすりすり撫でてみると 「う、・・・ぅ・・・」抗う間もあまりもらえずにすとんと眠りに落ちた真砂 「ッ」体にかかる重みと、胸から聞こえるくぐもった規則的な寝息に、鹿の子の顔がぱぁっ!と輝く 眠るのが恐いのは、不安で仕方ないから 安心が足りないから 名前を呼んでみても、軽く体に触れてみても、起きない 自分の手によって、彼は深い眠りに落ちた それは、自分が彼の中で、安心足り得る存在になり得たのだと かなり深い位置に、自分の存在を、食い込ませる事に成功したのだと そう、思わせるのに、充分すぎて 「~~~ッ!」歓喜に、心が激しく震えて 身の内に留めておけず体までをもぶるりと震わせたそれを抑えきれず、鹿の子はちゅっ、と真砂の頭にキスの雨を降らせた 「ああ、ずっとずっと、鹿の子がおにぃちゃんのベッドになってあげるからね・・・!」強く抱き締めて、密着を深めて、頭をぐりぐりこすりつけて 意識を無意識に遊ばせて漂っている兄の、持ち主の意思届かぬ場所に投げ出されて無防備になった体に、愛を誓って 鹿の子は笑った こんなにも好きな人に、心を許された あぁ、自分は世界一幸せだと 生まれてきて、本当によかったと 泣きたいくらいの幸せに包まれて、そう、思った



・・・もしも、この日、世界が終わったならば きっと彼女は満たされたまま、その幸せを永遠のものにできただろう

けれど、そううまく事が運ぶ訳もなく、時間は流れて日々は続いていく ・・・現実は、世界は、残酷だった 神に愛されているかのごとく、幸せが似合う彼女にで、さえも


ある日、差し込む朝陽に目を覚ます鹿の子 いつものように体を起こして、

「、は?」

まだ眠気の霞で白く曇った目に入った光景に、急激に意識が冷えて完全に覚醒した

すやすや、気持ちよさそうな寝息を立てて眠る、平和と幸せを体現したような真砂と、・・・その腕の中で がしっ!と後ろからしがみつかれて、苦しそうな顔でもがいている弟、砂宕の姿が、あった 朝陽に照らされて、真っ白に染まって、ひとつの塊のようになっている二人 「ね、姉さん、」腕が食い込んで痛いのらしく、しかし起こすのも躊躇われるのか、控えめにもがきながら助けを求めて手を伸ばしてくる砂宕 彼がみじろぐのに反応してか、「やー・・・」行かせないと言わんばかりに腕の締め付けを強めて、ますます密着を深める真砂 その顔は、幸せな夢でも見ているのか、とても


とても、幸せ、そうで


「・・・」頭が、冷えていくのがわかる ぐるりと、胸の中で、確かに質量を持った重苦しいものがうねるのがわかる

それは、蛇であり、炎だった 胸に広がる、真っ黒いタールの海 そこから生まれ、そこに住まう、真っ黒い蛇

緑色に輝くふたつの目から、ぼろぼろと止めどなく涙を零し 吼えている ぞろりと蠢く巨体から噴き出す、炎と同じだけの激しさと、痛みを持って こう、叫んでいる

『妬ましい!』『呪わしい!』『私でなくとも、よかった!』

かぶりを振って、天に向かって泣き叫ぶ蛇の悲鳴が、頭の中に反響する 悲痛に響く叫びは、それそのものが力を持っているかのように、一声ごとに胸の壁を切り裂いていく ぱっくりと開いた(ひらいた)そこから、ぶしゃっと勢いよく液体が噴き出して 傷口から流れる血を思わせる動きを取る真っ黒なそれは、蛇が半身を沈めている海に落ちて、その水位を上げていった



誰でもいいのか 誰でもいいのか、誰でも 自分で、なくても

自分だけが彼をつらい現実から解放してあげられる、なんて 自分の思い込み・・・幻想だったと、いうのか?

「そんな、」

他の奴等よりも、貴方を愛しているのに こんなにも嫉妬の蛇を大きく育て上げる程、この愛は強くて大きいって、誰にも負けない自信が、あるのに

ただの家族愛しかない、なごでもいいの?鹿の子みたいに優しくない、鹿の子みたいに貴方のほしい言葉をかけてくれないどころか、わかってもくれない、そいつでも

特別だなんて、勘違いだったの?鹿の子は、その他大勢と同列でしかないの?

鹿の子の優しさは、愛は 貴方にとって、特別に値しないの・・・?

「、ひ、」

ぼろろろっ

自分の全ては、してきた事一切は、無価値 そう認識してしまった瞬間、ずぐっと、胸の中が抉れるように痛んだ 同時に目の奥に鋭い痛みが走って、目玉が熱くなった、と感じる暇もなく ぶわっと、噴き出すような勢いで涙が生まれ、鹿の子の頬に熱い軌跡を刻んだ

「ね、ぇ!?姉さん!?」

滂沱と、だくだくと流れ落ちるそれに、初めて見る姉の涙に 驚いた砂宕の口から悲鳴に似た声が上がる

目を逸らす事も、涙を拭う事もできず 鹿の子は目の前の二人を見つめ続けたまま、見えない傷口を押さえるように胸に強く拳を押し当てて、激しく咽び泣いた

「うあぁっ・・・あぅぐうぅっ・・・!」

痛みに耐えるような、苦しげな泣き声 胸に広がる黒い黒い、火事に発生するもののような濃密な黒い煙が喉を塞いで、ろくに声すら出せない げぇっと吐き出してしまいたくて、けれど嫉妬とは実体のないものであるから、吐き出せる訳もなくて 鹿の子は不可視の煙に巻かれて、限界まで舌を突き出してげぇげぇと喘いだ

苦しい、苦しくて悲しくて、けれどどうにもできなくて その事実にまた悲しくなって、新たに生まれた感情の波は、大粒の涙という体を得て目から流れ落ちていった

助けて、たすけて 声にならない声で、役に立たない喉を必死に震わせて紡ぐ、鹿の子の叫びに、

「・・・?かの、こ?どした・・・?」

心の声が、聞こえたのだろうか あれ程砂宕が動いても、大きな声を上げても起ききれずにもぞもぞしていた真砂が、鹿の子がそう錯覚してしまう程完璧なタイミングで目を覚まし うっすら開いた(ひらいた)目で、泣きじゃくる鹿の子を捉えていた

まだ起ききっていないのだろう、どろりと眠気に濁った重たげな目が、鹿の子を映している

目が合った、名前を呼ばれた、心配された いつもなら、それだけで心が跳ねて、幸せになれた ・・・けれど、今その腕には、砂宕がいて

目を覚まして、意識を取り戻しても 二本の腕は砂宕から離れず、巻かれたまま、で

ぶぢっ

鹿の子は聞いた 自分の頭の中で、何か太い糸のような物が焼き切れて弾ける音を

耳元で発生し頭蓋骨を震わせたそれは、「あれ?あっちにいる・・・じゃこれ、誰・・・」と真砂が上げる困惑の声をも掻き消してしまう程に、鹿の子の頭の中いっぱいに響いて

その瞬間、胸の中で何かが爆発するような、狂おしい程の熱さを宿した激しい衝動が生まれて ぐしゃりと激情に顔を歪ませ、二人を見据えたまま衝動のままに鹿の子は上半身をねじって、

「死ね!!!!」

手近にあった、まだ自分の体温が残る枕をひっ掴んで、渾身の力と怒りを込めて二人に向かって投げつけた

「わっ!な、何、姉さ、」

優しく無邪気で怒哀が薄く、暴力とは無縁だった姉の、初めての攻撃 枕の中身はビーズだったため、大分重く痛かったが それよりも、姉の身に起こった異変と、彼女をこうまで怒らせた理由がわからなくて 砂宕は身動きが取れないまま、自分の痛みも気にせずに、彼女の怒りを解こうと体をばたつかせた

が、そんな事で怒りが収まる訳がない 鹿の子はがばっ!と立ち上がると同時に前のめりになりながら駆け出し、二人を・・・正確には真砂の腕と、砂宕の胸に、持てる全力を持って蹴りを入れた

「ひっ!?」

砂宕の口から怯えた声が上がるも、ダメージはそこまでない 絡みついていた真砂の腕がたまたま盾となり、衝撃は伝われど痛みのほとんどを引き受けたからだ

まだ寝起きである真砂に、咄嗟の判断力を働かせるだけの力はなく、完全に場所がよかっただけの偶然だったのだが それが、鹿の子には真砂が砂宕を庇ったように見えてしまったのらしい 誤解は激情に燃えている鹿の子の嫉妬と怒りに更に火をつけ、彼女を更なる凶行に走らせた

「死ね、死ね、死ね!!!!皆皆、みーんな!死んじまえ!!!!」

だんだん!と、地面を這い回る蟻でも潰そうというように、鹿の子は裸足の足を持ち上げては激しく振り下ろして叩きつけた

よくも、よくも、鹿の子のおにぃちゃんに おにぃちゃんは鹿の子のなのに、あぁどいつもこいつも邪魔ばっかしやがって

おにぃちゃんに抱き締めてもらうのも、一緒に寝ていいのも、触っていいのも、笑いかけてもらっていいのも、名前を呼ばれていいのも、あの目に映っていいのも!皆皆、鹿の子だけなのに!おにぃちゃんは、おにぃちゃんの全部は、鹿の子の物なのに!!!!

触るな!鹿の子のおにぃちゃんに、鹿の子だけの物に!誰も触るな!!!!触るな!!!!触るなッ!!!!

「離れろ!このっ、鹿の子のから離れろーっ!!!!」

なんとか真砂から砂宕を引き剥がしたくて、二人を離したくて 砂宕に回されている真砂の腕を狙って必死になって踏みつける か弱い少女の攻撃とはいえ、体重をかけて振り下ろされる足はかなりの威力を持っていて それが休む間もなく立て続けにとくれば、鍛えているのが自慢の真砂といえど、受け続ける事はできなかった

繰り返し攻撃し続けた甲斐あって、痛む腕を庇うために上げられた事で、拘束は緩み その隙間を縫って砂宕は真砂の腕を振りほどき、次いでなおも降ってくる鹿の子の足から逃れるべく、全力で下半身をうねらせ匍匐前進する事で危険区域を離れる事ができた

そのままそこに留まらず、更に横にずれたのは、鹿の子の視界に入らないため 再び攻撃が向かないよう、こちらに向いた場合でもすぐに対処できるだけの時間を少しでも稼ぎたいがために取った、咄嗟の判断である

判断が功を奏したのか、それ以上砂宕が攻撃を受ける事はなかった それでも、鹿の子の猛攻はやまない 妬みは砂宕に向けられたものだが、まだ真砂にぶつけるべき怒りが残っているからだ

ある意味盾になっていた邪魔な砂宕がいなくなった事で、砂宕の陰に隠れていた真砂の体の前面が露わになると 鹿の子は踏みつけるために上下に動かしていた足の軌道を変えて、真砂の肩を蹴り飛ばした

急に攻撃方法が変わった事で、防御の備えが間に合わず もろに蹴りを肩に受けた真砂の体は、ごろりと転がって、横向きから仰向けにされた

起き上がる隙も与える気はない そう言わんばかりに鹿の子は素早く、天井を見上げる格好になった真砂に馬乗りになり、そして、

「げぁっ・・・!が、あ゛っ」

真砂の首に両手の指を絡ませると、全体重をかけて気道を潰しにかかった


許さない、許さない、許さない!


愛しい人を目の前に、鹿の子の頭を占めるのは、圧倒的な怒りだ

恋心を自覚する前から、ずっとずっと、彼のために動いてきた 悲しんでいれば言葉を尽くして慰めて、いじめられていれば愛されやすい特性と立場を駆使して庇い、ねだられなくても傍について遊んで相手をして ずっと一緒に居続けた

喜びも悲しみも、たくさんの物を分け合ってきたはずだ 先に生まれた、他の兄弟達よりも 隣にあれた時間は短くとも、その距離は誰よりも近しく、密度も濃かったはずだ

それなのに、真砂は自分だけを見ない いつだって心に他の奴等を住まわせて、自分の気持ちの百分の一も、返してはくれない!

鹿の子だけを見て、鹿の子だけを!鹿の子が、おにぃちゃんしか見えないみたいに!

「鹿の子だけを、見てよぉ・・・!」

ぼたぼたぼた、と雨が降る 慕情と嫉妬と怒り、そして、渇望にもよく似た、底無しの独占欲

身を焼き焦がす程の愛と、溺れてしまえそうな程の哀の混じった、熱くも冷たい感情の雨が、真砂の顔に降り注いで 頬に、目に、鼻に 落ちて弾けて、びちゃびちゃと彼を濡らした

首を絞めるこの瞬間が好きだ あっちこっちとふらつく定まらない視線と気持ちが、この時だけは自分だけに向くから

苦しくて、可哀想だとは思う 自分のやり方が、普通の愛し方ではない事も、わかっている

でも、でも こうでもしなきゃ、おにぃちゃんは鹿の子で頭をいっぱいにしてはくれない・・・!

その目が自分を映し続けてくれる方法がこれしかないなら、こうする事でその頭が自分以外の一切を考えられなくなるなら ずっとこうしていたいと思った

どんなに苦しませる事になったとしても、やめてくれと懇願されたとしても この手を離したくないと思った

傷つけたい訳じゃない 守りたい、助けたい、笑っていてほしい 幸せに、したい

それが自分の望みだった 彼を愛するきっかけになったのは、そんな綺麗な気持ちだった

あぁなのに、どうして いつからこんな、ねじれてしまったんだろう?

「鹿の子だって、愛してほしいんだよぉっ・・・!」

首を絞める手にかかる力は、懇願だ 『鹿の子だけを見て』『鹿の子の事だけ考えて』『鹿の子だけを、愛して』悲痛な、叫びだ

けれど、あぁ それを受け止めるには、人の体はあまりにも、

「が、の、ながなっ、・・・ッ!ぇ゛ぁ゛ッ!」

生理的なものか、それとも別の理由によるものか。苦しげに細められたままぼろぼろと涙を零す真砂の目が、不意に限界まで大きく見開かれて、そして、


ぼぎっ!


・・・と 生ある者が、本能的に忌避する音と、鈍い衝撃が、首の肉越しに鹿の子の手に伝わり 真砂の、何かを告げるべくはくはくと動いていた口も、生にしがみついてばたばた跳ねていた四肢も それを境に、ぱたりと 一切の抵抗をやめて、・・・力なく、布団に沈んだ

そして 手から伝わり全身を震わせた衝撃が、頭か、心か・・・どこか、鹿の子の深い所の、スイッチを押してしまったかのように

ぐにゃあ、と、大きく 深く、裂けて、深く深く深く吊り上がった、口を

明らかに正気を失ってしまった、人間の顔を 砂宕は、見て、しまった

「ほらぁ、・・・ほらあぁ、」

「やっぱり、おにぃちゃんを寝かしてあげられるのは、鹿の子だけだったぁ」

甘い、甘い、声音 はちみつが滴るかのように、鹿の子の口から零れ落ちた呟きは、輪郭をなくしてとろりと甘く落ちて 愛に染まり、芯まで愛に酔いきった「女」の声を、砂宕はわずか八歳にして初めて耳にする事となった

心から、嬉しそうに、幸せそうに 溢れる慈愛に満ちた、とろけきって幸せそうな・・・しかし、決定的な違和感のある、完全に壊れきってしまった笑顔で 鹿の子は血の気をなくして見る間に白くなっていく真砂の頬を、心から愛おしげに撫でて その内、動かしていた手を、そっと両の頬に添えると 真砂の顔を、大事そうに包み込んで、・・・顔を近づけて、薄く開いた真砂の唇に、自分のそれを沈み込ませた

「ッ・・・!?」

それは、衝撃的な光景だった 鹿の子と真砂は、自分の姉と兄は、兄弟・・・血が繋がった、実の肉親の、はずなのに

兄弟はキスをしない キスは恋人同士がするもので、いくら仲がよかったとしても、兄弟がするような行為ではない 全てにおいてまっすぐに、世間の常識に沿って育ってきた砂宕には、理由はわからずともその行為が間違っている事は、わかった

・・・けれど 間違っていると思うのに、わかるのに・・・止めに、入れない、のは

「き・・・」

綺麗だった、から 鹿の子の、顔が 心から、この世の幸せ全てを抱き締めているような、そんな どこまでもうつくしい笑顔に、見とれてしまったから、だ

止めればまた攻撃されるかもなんて、そんな考えは、最初から頭になかった ただ、ただ 見ていたかった この光景を、なぜかとても尊いもののように感じるこの行為を、二人のための時間を 邪魔しては、ならないと

頭の深い所で、そう、理解してしまったから

ちゅう、ちゅ、ちゅうぅ 顔を浮かせてはまた沈め、角度を変え、深さを変え 鹿の子は口づけを繰り返す

自分のそれを押しつけるだけでなく、真砂の唇を吸ったり、軽く口を開けて食んでみたりと 八歳の子供にはあまりに刺激的な、恋人同士がする濃厚で官能的なキスをしてみせた

動く事はおろか、呼吸すら忘れ、その光景に見入っていると ふと、いつの間にやら鹿の子の目が薄く開いて、こちらを横目で見つめている事に気づいた

愛する者との極めてプライベートな行為に陶然とした色に染まりながらも、いやに力強さと圧を感じる、目

その視線を受けているのに気づいて、数秒 聡い砂宕は、気づいてしまった

ああ今、自分は、見せつけられているのだ この人にこんな事をしていいのは、自分だけだと 彼女の物に、許可なく触れた事を、自分は責められているのだと

「あっ、あ・・・」

だから、これ以上、「取られてしまう前に」。彼女は、彼を殺さざるを、得なかったのだと!

「お、ぉ母さ・・・おかーさん!おかぁさぁん!」

無理だ、そんな、そんな深い怒り、受け止められない!

初めて向けられた、強烈な敵意と怒り その深さと理由に、聡くはあっても、人生経験が少なく無力な子供でしかない砂宕が抱えきれるはずもなく 一気に押し寄せてきた恐怖やら罪悪感やら、自分と彼女、二人分の感情の重さに押し潰されて極度のパニックに陥った彼は 母を、この事態をどうにかできる頼れる大人を呼びにいくという選択をして、震えて思うように動かない足で走り出した

何が起きているのか理解できず、ただ異常な事態である事だけはわかって 割れんばかりの泣き声を上げる猪の子の声ばかりが、背中に聞こえた



ちゅおっ 唾液が混じり合う音がして、真砂の口から、差し入れていた鹿の子の舌が引き抜かれる

開きっぱなしの、それ 乱れた呼吸も、逃げようとする舌も、苦しげに零れる甘い声も 何も、ない

今度こそ、何も返ってこない ・・・その事実に ある事を理解した鹿の子の目に、正気の光が宿る

「あぁ・・・」

空っぽ もう、ここに貴方は、いない

ならば、

「もう、いらない、ね」

鹿の子は、悲しげにそっと微笑むと 軽く抱き起こして浮かせた真砂の体を、強く抱き締めて


がりっ ぎりぎりぎりぎりぎりぶつっぶちぶちぶち

ぶぢっ、ん

「ッ!・・・ぉに、ぢゃ・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



砂宕が両親を連れて戻ってきた時、鹿の子は真砂を抱き締めたまま、彼に覆いかぶさる形でじっとしていた その姿は、まるで 他の者の目から真砂を隠すように見えた、と、後に砂宕は語った

状況が飲み込めないまま、しかし砂宕の「兄さんが!死んじゃう!」という切羽詰まった訴えと、ひしとしがみついて離れない鹿の子の下でぴくりとも動かない真砂のただならぬ様子に、さすがに両親の心に不安が生まれる とりあえず鹿の子を引き剥がすべく彼女の体に手をかけると、


ぼだだだっ


母が肩を引いて起こしたと同時に、真砂の顔の隣に鈍い音を立てて赤い何かが零れ落ちる じわわ、と布団に広がり、染み込んでいく鮮烈な赤色 目を奪うそれの正体を探る間もなく、血だ、と瞬時に理解して

「、は!?かのっ、」

普通に生活していればありえない色と存在に混乱が頭を埋め尽くす、が、全てを塗り潰される寸前で掴んだ鹿の子の体を引っ繰り返す

力を加減する余裕もないまま勢いよく裏返すと、べちっ!と 鹿の子の顔から飛んできた何か小さな固い物が、目と目の間にぶつかった

衝撃で思わず目をつぶってしまい、なんだ?と、ぶつかった物の正体を反射的に追って左右に首を振る と、

「う、うわああぁ!」

隣にいた砂人が、悲鳴を上げて飛び退いた 床に落とされたその目が凝視するのは、綺麗な、ピンク色の、


小さな、血にまみれた、肉の塊


なんでこんな所に肉が 台所はかなり離れているし、朝ご飯だってまだなはずで、第一朝から生肉なんて朝食に使う事は自分はしなくて、

・・・いや 本当は理解できてしまっているのだ ただ、嗚呼 認められない、否、・・・認めたくない、だけ、で

逃避に走りかけていた意識に、鞭打って 子の実は、顔を動かす ぎしぎしと、油の差されていない機械仕掛けの人形のように、ぎこちない動きで 頭の中の自分が、見るなと固い声で制止するのを、振り切って 鹿の子の、顔、を

「、・・・あぁっ、ぁ・・・あああああーっ!!!!」

小さな口から、大量の血を溢れさせて いくら待ってみても瞬き(またたき)もせず、開きっぱなし(ひらきっぱなし)の目からは、あんなにも力強くきらめいていた命の輝きが失われて、いて

既に、もう 手おくれである事が、わかって、わかりたくなくて、けれどわかってしまって

半狂乱で手を口に突っ込み、ぐちゃりとねばつく血を掻き分けて、舌を探す まさかと思った、信じたくなかった だから、綺麗に丸いままの舌を目にする事で、安心したかった うちの子は、鹿の子は、自殺なんかしないと あれは、自分の顔に飛んできたあの小さな肉は、どこかからやってきた何か別の物だと

ぐちゃぐちゃと音を立てる指先が、やわらかな感触に触れる 見つけた なんだ、やっぱりちゃんとあるじゃないか、・・・ほっと息をつく一方で、頭の中の自分が囁き、気づきたくない事実を指摘してくる

『突っ込んだ指が、そんなに深いのは、なんで?』

『それに、なんでべろを探すのに、そんなに時間がかかったの?べろって普通、口の中すぐにあるものでしょう』

・・・指を、二本使って 触れていた舌を掴んで、静かに・・・正確には、恐る恐る、引き出す

露わになった、可愛らしかった舌には、先端に丸みがなく 三分の二程の、長さしか、なかった

直線に近い、ゆるく歪な曲線を描く(えがく)断面からは、今もなお大量の血が溢れ出していて 子の実の手を伝って、手首までにも、細い赤色の道を幾筋も伸ばした

愛する娘の、変わり果てた姿に 子の実は、泣き叫ぶ事しかできなかった



リヴァイアサンは全てを飲み込み、嫉妬の炎は殺意を生んで、何も残さない

嫉妬の先にあるのは、悲劇的な無 ただ、それだけなのだ

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『葡萄鹿の子の愛の果て』 スナコ @SS12064236

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