満ちた器

ぴのこ

満ちた器

「お待ちどおさん!メンチカツふたつやな!」


 運ばれてきたメンチカツ定食は、相変わらず圧巻のボリュームだった。

 皿の手前側に鎮座するのはこぶし大のメンチカツ。その奥ではナポリタンが湯気を立たせ、みずみずしい千切りキャベツがどっさりと盛られている。

 これは俺が足しげく通っている定食屋“とど屋”の看板メニューだ。この店で生姜焼き定食と一二を争う人気を誇っている。

 定食のボリューム感に、俺の向かい側に座る部下が感嘆の息を漏らした。彼をここに連れてきたのは今日が初めてだ。

 俺は逸る気持ちを抑え、割り箸を割った。健康を考えればキャベツから食べるべきなのだろうが、メンチカツが冷めないうちに味わいたくていつも衝動に負けてしまう。

 メンチカツの端に箸を押し当てると、衣がさくりと音を立てて割れていった。今日も完璧な揚げ具合であることが音だけでわかる。箸が衣を突破して分厚い肉に達すると、滝のような肉汁が溢れ出して皿へと滴り落ちていく。肉汁は照明の光を反射し、きらきらと輝いている。

 俺は箸でひと口大に切ったメンチカツに軽く息を吹きかけ、ぱくりと口に入れた。

 美味い。今日も絶品だ。軽やかな衣の食感と重厚な肉の旨味、そして肉汁の甘みがひと噛みした瞬間に溢れ出す理想的なメンチカツ。妥協のない仕事が作り出した、一級品の美味さだ。

 俺の目の前で、部下が思わず息を呑んだ。メンチカツを口に入れたまま目を見開いて固まっている。数秒ほどそうしていた後、ようやく咀嚼してごくりと飲み込んだ。


「理事長!滅茶苦茶美味いじゃないですか!なんでもっと早くにこの店を教えてくれなかったんですか!」


 興奮のままに飛び出た彼の言葉に、思わず笑いが漏れてしまった。厨房にも聞こえたのか、藤堂とうどうさんの「ナハハハハ!」という愉快げな笑いが響く。

 俺は微笑み、再びメンチカツを割りながら答えた。遠い過去に意識を向け、幼い自分を思い返す。


「いや、実はね。信頼の置ける人だけに教えることにしているんだ。ここは個人的に、思い出の店だから」




 当時の俺は、食べるのにも苦労する子どもだった。

 家で食事をろくに食べさせてもらえなかったんだ。小学校の給食を必ずおかわりして腹に詰め込み、夜寝るまでその一食で我慢するなんて日がざらにあった。

 平日は給食があるからいいとして、問題は土日だ。母の機嫌次第では食事も摂れないまま昼間から家を追い出されることもあったから、空腹をどうするかは死活問題だった。

 俺はその日も家にいられず、ふらふらと街を彷徨っていた。真夏の暴力的な日差しは、空腹の俺にはひどく堪えた。ある一軒の定食屋の前に差し掛かった時だ。店から漏れ出る料理の匂いが、くんと鼻孔を刺激した。

 その瞬間、腹が大きな呻き声を上げた。そこがもう限界だった。俺は歩く気力も尽きて、店の前に座り込んでしまった。気づけば、瞳からは涙が溢れ出していた。

 惨めだったよ。そんな思いをする自分が。“存在意義”なんて言葉は当時は知らなかったけど、あの頃は自分の存在意義が全くわからなかった。誰も助けてくれなくて、自分の価値を世界から否定されている気分だった。


「なんやボウズ、店の前でなに泣いとんのや」


 頭上からその声が響いてきた時、俺は心臓が跳ね上がる思いだった。

 おそるおそる顔を上げた俺は短く悲鳴を上げてしまった。全身を筋肉で膨れ上がらせた大男が俺を見下ろしていたんだからね。

 彼…藤堂さんは俺にじろりと目を向けると、俺の手を掴んで立たせた。そのまま店の中に俺を連れて行き、カウンターの一席に座らせた。店内の冷房でひんやりとした木製の椅子が、尻から温度を奪って全身をぞくりと震わせた。

 俺は怒られるんだろうとビクビクしていたよ。どうやって逃げ出そうかとも思っていた。だけど藤堂さんは俺の頭をぽんと撫で、「そこで待っとれ」と言い残して店の奥に消えていった。

 その声色が優しかったせいだろう。俺は不思議な気持ちのまま、ただぼんやりと言われた通りに待っていた。あの頃はこの店もあまり繁盛していなくて、昼時でも俺の他に客はいなかった。


「オウ、待たせたな」


 しばらくして姿を現した藤堂さんは、俺の目の前に盆を置いた。盆には香ばしい匂いを発する生姜焼きに大盛りの白米、温かな味噌汁が乗っていた。

 俺は意味がよく飲み込まないまま、生姜焼き定食と藤堂さんに交互に視線を向けていた。だって、そんなものを出されても俺には代金なんて払えないんだからね。

 そんな俺に藤堂さんはまなじりを下げ、優しい笑みを向けた。


「代金なんぞ要らん。腹減っとるんやろ?気にせず食えや。目の前でガキが腹を空かせててなんもせん大人がおるか」


 そう言われた瞬間、俺の腹がぐうと鳴った。鼻孔をくすぐる生姜焼きの香りで、頬の内側からは唾液が溢れ出していた。

 俺は唾液を飲み込み、割り箸を勢いよく割って生姜焼きにかぶりついた。

 あの時に感じた美味さといったら。大人になって美味いものを色々食べてきたけど、あの日に食べた生姜焼きを超えるものには未だに出会えてない。


「落ち着いて食わんと喉に詰まるで」


 夢中で肉と米を頬張る俺に、藤堂さんは穏やかに笑った。

 食べながら涙が止まらなかった。俺はここにいていいんだと、人生で初めて世界に肯定してもらった気がした。



 それからも繰り返し、俺は藤堂さんに飯を食わせてもらってきた。

 藤堂さんは平日は会社員として働いていて、定食屋の店主は趣味で始めたことらしい。だから“とど屋”は当時から土日だけの営業で、週末の食事に困っていた俺にとってはまさに救いの場だった。

 俺が店にやってくると、藤堂さんはいつも嫌な顔ひとつせず定食を出してくれた。それがどんなにありがたかったか。

 食事の間や食べ終わった後、藤堂さんの手が空いている場合はいつも話をしていたよ。俺が店に通っていたのには、藤堂さんと雑談をする緩い時間が楽しみな気持ちも含まれていた。

 俺は中学3年生まで食事を奢ってもらっていたけど、高校に上がってバイトができるようになっても“とど屋”に通い続けていた。


「世の中、信じられん奴ってのはおる。たこ焼きパーティでたこ焼き器に油をドバドバ注ぐ奴や。目の前でやられてみいや、叫び声出るで」

「へえ、最近彼女できたんか。恋愛で気を付けること?アホ、そんなもんワイに聞いてどうするんや」

「オマエが母親を苦手なのはわかる。けどコミュニケーションの努力を怠ったらアカン。なんも意見しないで状況が改善するわけないやろ。将来どうなるかわからんとしても、早いうちに落としどころを見つけとくんや」

「明日は大学受験やろ。早くから店を開けとくさかい、明日の朝は来いや。カツ丼食わせたるで」

「大学を卒業したらNPO法人を作る?ナッハッハ!ワイの見込んだ通り大物になったやないか!」


 そんな風に藤堂さんと話す時間が、どれほど俺の救いになってくれたかわからない。父親のいない俺は、藤堂さんを父のように慕っていた…なんて、本人が厨房に引っ込んでいる間に小声でしか言えないな。

 大学生の頃、ふと思ったんだ。俺は藤堂さんに救われたから平穏な学生生活を送れているが、あの頃に藤堂さんがいてくれなかったらどうなっていただろうか。もしかしたら死んでいたんじゃないか。そして、藤堂さんに出会えなかった俺みたいな子どもは日本に大勢いるんじゃないかと。

 そんな子どもたちを救いたい。かつて俺が藤堂さんに救われたように。そう思ったんだ。




「…ああ、なるほど。それが、理事長が藤堂会を設立した理由ってわけですね」


 彼の言葉に、俺は静かに頷いた。

 NPO法人 全国こども食堂推進センター“藤堂会”。それが俺の作った団体だ。今は発足から数年が経ち、ようやく軌道に乗って来たところ。目指す夢はまだ遠いが、信頼の置ける仲間たちの協力があってここまで来ることができた。


「思ってたんですよ、藤堂ってどういう意味なんだろうって。まさか定食屋の店主さんだなんて」


「ホンマやで。人の名前をデカデカと使いおって。ワイが代表みたいやないか」


 俺の頭にぽんと手が置かれ、髪をわしゃわしゃと撫でられた。

 いつの間にか藤堂さんが背後に立っていたのだ。出会った頃から随分と時間が経ち、今年で五十歳を迎えた藤堂さんだが活発な雰囲気には微塵の衰えも無い。

 首を後ろに向けて「許可は貰ったでしょう」と悪戯ぎみに反論すると、藤堂さんは照れ臭そうな笑みを浮かべた。


「藤堂会がデカくなるたびにワイが気恥ずかしいんや。オマエがしたことは全部オマエの功績なんやから、オマエの名前を団体名に使ってもっと自分の成果として誇ればええ」


 そうかもしれない。でも俺はどうしても藤堂さんの名とともに活動したかった。今の俺があるのは、藤堂さんが救ってくれたおかげだから。

 それに、今の俺は信念で満ちている。成果なんて掲げずとも、その一点があれば自分を誇れる。


 飢えている子どもが満腹になれる場所を全国に作る。

 自分には居場所があるんだと気づかせてやる。

 ここにいていいと肯定してやる。

 

 それを、俺は自分の存在意義にする。

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