第55話─怪物。

その言葉を耳にした菜々美の唇に、静かな、しかし確かな誇りを湛えた微笑が浮かんだ。「私の方こそ、心から感謝しています。あなたの、その笑顔にお会いできて……本当に」


言葉の余韻が消えぬうち、菜々美はそっと女性の肩に手を添え、会場へと視線を移した。次の瞬間、堰を切ったような拍手が空間を揺るがし、熱狂の渦が生まれた。それは単なる賞賛ではない。スタッフは感極まった面持ちで、他の花嫁たちは夢見るような眼差しで、報道陣さえもペンを走らせる手を止め、息を呑んでその才能の奔流を目撃していた。彼女の創り出す美と、その奥にある魂の輝きに、誰もが心を射抜かれたのだ。


この瞬間、人々の脳裏に同じ言葉が刻まれた。二世という肩書きは、もはや彼女を語る上で些末な要素でしかない。母、こずえシノハラという巨星の遺伝子を受け継ぎながらも、そこに安住することなく、独自の鋭敏な感性と血の滲むような研鑽によって、遥かに凌駕する才能を爆発させた存在。

──怪物。

そう、これはまぎれもなく、新たなる「怪物デザイナー」が産声おをあげた瞬間だった。その称号は、畏怖と、賛美と、そして未知なるものへの期待を孕んで、会場の熱気の中に溶けていった。


万雷の拍手を浴びながらも、菜々美の意識は一点に集中していた。こずえ。母の元へと、彼女は静かに歩みを進める。

こずえは、言葉を失い、ただ熱いものが頬を伝うのを感じていた。成長、いや、覚醒と呼ぶべき娘の姿。近づいてくる菜々美を、こずえは震える腕で、しかし力強く抱きしめた。

「菜々美……あなたは、本当に……」言葉にならない嗚咽が続く。「ずっと、ずっと信じていたわ。あなたのその翼が、いつか空を掴む日が来ることを」

「お母さん……」絞り出すような声に、万感の思いが滲む。「ありがとう。お母さんがいてくれたから、私は……ここまで飛べた」

言葉は少なくとも、二人の魂は深く共鳴し、長きにわたる氷塊が陽光に溶けるように、過去のわだかまりは消え去っていく。ただ、温もりだけがそこにあった。それは、訣別と再会、喪失と獲得のすべてを包み込む、絶対的な絆の証だった。


そして、その絆から芽吹いた「in.heaven」という名のブランド。

菜々美は、喝采が遠のき始めた静寂の中、贈られた花束を胸に抱いた。色とりどりの花々は、それぞれが完璧な美しさを主張しながら、調和のとれた一つの宇宙を形成している。まるで、彼女の創り出すドレスのように。

in.heaven──その名が示すのは、楽園への招待状か、それとも美という名の甘美なる試練か。

菜々美の瞳の奥深く、誰もまだ見たことのない色彩が、静かに、しかし力強く揺らめき始めていた。彼女自身にも、その全貌はまだ見えていない。ただ、指先に触れる花弁の瑞々しさと、胸を満たすほのかな香りが、次なる創造への抑えがたい渇望を告げている。

その道がどこへ続こうとも、彼女はもう迷わないだろう。


(完)

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幸せの糸車 志乃原七海 @09093495732p

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