犬の勢い

草森ゆき

犬の勢い

 お母さんがいなくなったのは家族ではなくて不倫相手でもなくて自分自身を選んだからだってことを感覚とか第六感とかちょっと一口では言い表せない部分で分かっていたんだろうなと納得したのは私が奈美子ちゃんの彼氏を奪い去った時だった。奈美子ちゃんの彼氏はそれはもうあっさりと骨抜きになって私の靴先をペロペロと美味しそうに舐めていた。キモいので顎を下から思い切り蹴り上げたけど、奈美子ちゃんの彼氏はフギッと吠えてから嬉ションをした。本当に嬉ションだった。動画に撮って奈美子ちゃんに送り付けたところすぐに電話が掛かってきた。

「奈美子ちゃん?」

『なにこの写真、なんなのこれ』

「奈美子ちゃんの彼氏の部屋で、奈美子ちゃんの彼氏と遊んでるの」

『は? 意味わかんない。何? え?』

「ちょっとモーションかけたらすぐ靡いたよ。部屋にもすぐあげてくれたし。こんなの、別れたほうがいいんじゃない?」

『は、テメーが言う台詞じゃねえだろ』

「でも事実だよ」

 ここで通話はブツッと切られた。今こっちに向かってるんだろうなとわかる切り方だったから、腹見せてヘラヘラしてる奈美子ちゃんの彼氏は無視して大急ぎで部屋を出た。外は夜で人通りは少なかった。その中を走りながら、私はお母さんについて鮮明に思い出していた。突然いなくなる前から不倫をしていることはわかっていた。お父さんが嘆いていたし、私は街中で不倫デート中のお母さんを見た。離婚するんだろうなあと現実味のない中で考えた。離婚になる前にお母さんは消えて、消え失せて、私はけっこう嬉しかった。お父さんが私を抱き締めながら「お前がいてくれればいい」ってぼろぼろ涙をこぼして言ったから、嬉しかった。

 私が初めて誰かから奪った男はお父さんなんだなあと今は思っている。


「あっいた、待てコラ!」

 奈美子ちゃんの声がして驚いた。部屋からはかなり離れていたのにまさか見つかるとは思わなかった。走るスピードを上げようとしてからちょっと考えて突然立ち止まり、私の動きに驚いた奈美子ちゃんは「あっあっ」と変な声を上げながら遅れて止まった。つんのめって転びそうになっていたので後ろから背中を押してやり、地面にうつ伏せで倒れた姿を見下ろし一声笑う。何笑ってんのよ! 怒る奈美子ちゃんの背中を思い切り踏んづけた。どこかで犬の鳴き声がしたけど犬じゃなくて真下の奈美子ちゃんだった。

「わっ、犬みたい」

「テメ……殺す……」

「そうやって這いつくばってると彼氏さんにそっくり」

 奈美子ちゃんは勢いよく体を起こそうとしたので後頭部を逆の足で踏み付けた。体でサーフィンするみたいな体勢になってそこそこバランス取りにくかったけど、ぐえぐえ吠える奈美子ちゃんが面白かったから踏み続けた。奈美子ちゃんの彼氏さんもういらないよ、ぜんぜん返すよ。踏み続けながら話し掛けて、奈美子ちゃんはぐえっと大きく鳴いたかと思えば一口だけゲロを吐いた。それから泣き始めた。友達じゃないの? って同情を誘いたそうに聞いてきた姿はものすごく惨めで哀れでちっぽけで、私はもうあんまり興味が湧かなくなっていた。

「足とかは舐めさせたけど、セックスはしてないから別にいいでしょ」

 奪い取りたいのは心じゃなかった。体というわけでもなくて、あえて言うなら尊厳とか誇りとか、人前ではきちんと保っている何かしらだった。お母さんの不倫を私は感覚で分かっていた。だからそれとなく、本当にそれとなくお父さんに示唆して、同時にお母さんを促して、一組の夫婦をバラバラにして娘に縋り付くしかなくなった哀れな父親を生み出した。奈美子ちゃんは泣いている。私の彼氏だったのにと泣いている。今でもあなたの彼氏だよと私は言って、奈美子ちゃんサーフィンをやめて地面に降り立ち振り向かないまま歩き始める。サーフボードは泣いているので追いかけて来ない。夜の中、私はお母さんの行方を思う。

 家を出る直前にあの人は、私の両肩に手を置きながら微笑んだ。

「あんた、お父さんの子供じゃないんだよね」

 そう言い残して出て行った。


 奈美子ちゃんの彼氏の部屋に戻ると嬉ション彼氏はまだそこにいて、私を見るなり足を舐める体勢をとった。汚いから舐めるなと命令すればキューンと声で唸ったけれど嬉しそうな顔ではあって、垂れ流していた股間を靴で踏みつけると待ってましたと言わんばかりに悶絶した。反比例するように私の内部は冷めていく。私は私が誰なのか分からない。スマホを取り出し自分のプロフィールを眺めてから、他の友達の彼氏さんの番号に片っ端から電話をかける。お久しぶりです会えますか、奈美子ちゃんの彼氏の二の舞になってくれませんか。そんな誘いをするためにかけまくる、かけ続ける、かけながら犬を踏む。お母さんの微笑みがいつまでもいつまでも回っている。

 私は私を壊したい。


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