保月神社奇譚 【死神の手】

下原智

【死神の手】


 夜空に、わたしには視えない星があるのを知ったのは、つい最近の事。

 親友のマイが言ったのだ。ある日夜空の星を見上げて、北斗七星の辺りを指差して、嬉しそうに。後で、ネットで調べてみたら、昔のアニメで視えてはいけないものみたいに言われていた。まぁ、彼女が気にしていないのなら、わたしは何も言わない。

 マイは何というか奇想天外な女の子で、だから言う事成す事いつも突拍子も無かった。夏に海に泳ぎに行こうと誘われて行くと実際には山登りだったり、冬にコンビニおでんが食べたいと外出したと思えば持ち帰って来たのがアイスクリームだったり。また女子とは滅多に喧嘩しないけど男子とは結構していたり。でも同じように仲良くしていたりして。とにかく本人以外分からない常識の中で生きているような人間だ。

そう、あの日だって。仲の良い男友達とつまらない事で大喧嘩して「何よ、こんな世界大嫌いっ。この世に神も仏もありゃしねーっ!」と絶叫した翌日に家の近所の神社にお参りに行こうと笑顔で言い出したんだから……



「ねぇ、知ってる? お参りしたら、どんな願い事でも叶う神社があるんだよ」

 それは春先、外を歩けば陽射しがあってもまだ肌寒い季節。休日の昼下がり。停留所でバスを降り、幅の狭い住宅地の一本道を歩きながらマイは――わたしの親友【園部そのべまい】はそう言った。

「へぇ、そう」と、わたしの返事はとても生っぽい。

「もう、何かリアクション薄いなぁ。これは凄い事なんだよ?」

 少し前を歩くマイは立ち止まり、身体ごと振り返って、口を尖らせながら、少しだけ不満そうな様子を見せた。

「それで普通なんじゃないの? 神様って確か全知だか全能だかなんでしょう?」

 わたしの応えにマイは肩を竦めて「フぅ~」と息を吐く。何となく外国人が出演する深夜のTV通販を想い出す、大仰な仕草だ。

「やれやれ、世俗の垢にまみれて唯一神信仰かい? 【宮津みやず久美くみ】君。しかしね、日本ここ八百万やおよろずの神の国なんだよ。つまりは数え切れないほどの神様がいるわけだ。特にこの街、京都は平安の時代から続いてる歴史ある古都で、数え切れないほどの神社やお寺が軒を連ねる、云わば神と仏のパラダイスなんだよ? だからこそ御利益も多様化・細分化されていて、例えば『人間関係』という一つのジャンルにしても、ポディシブなものは恋愛成就・ラブレターの文章上達から、ネガティブなものは縁切り、はたまた無実の罪払いなんてものまである。つまりは専門家的スペシャリストな神様が多く住まっているわけなのさ、この街は」

「はいはい、マイの趣味は郷土史だものね、詳しいわけだ……」一七歳の女子高生にしてはずいぶんと渋い趣味だけど。

「趣味は郷土史と民俗学と天体観測と人助け。尊敬する人物はマザーテレサ。将来の夢は海外へ出て、恵まれない人のためにこの身を捧げる事。これがわたしだ、覚えておきたまえ。クミ君」

「知ってるって、もう何度も聴いて耳に胼胝が出来てるから。それにどうしてそんな英国紳士っぽい喋り方なの?」

「実はね、昔やってた推理ゲームの主人公の喋り方なんだ。昨日久しぶりにやってハマってしまってね、まいったよ」

 マイは屈託なく笑って、そしてそのまま一度前方を向き返り、再び振り返って、追いついたわたしと器用にも後ろ歩きをしながら並んで、話を続けた。

「――それで、話を元に戻すんだが。意外に珍しいんじゃないかと思うんだよ。この街で、公然とそういう万能さを謳う神社や神様っていうのは」

「う~ん……」

 そういうものなのかな? 正直な話いまいちピンと来ない。わたしはそんなに信心深い人間ではないのでこういう話には興味が薄い。だからあまり知らない。それでもわたしの考える神様感と彼女の神様感が少しずれているのは分かった。

「でもさ、神様ってそんなに何かに特化した存在だったっけ? 初詣なんて皆がそれぞれに思い思いの願い事をしているわけだしさ、それらのほとんどが無駄になるとか叶えられないって事はないでしょう。お医者さんだって専門が外科でも手術以外の治療は出来るんだし、神様だって同じじゃないの?」

「確かにそう。『専門分野以外は診れません』みたいな細かい事言う神様は居ないと思う、たぶんそれなりに叶えてくれるだろうね。でも逆に、身体中のどの部分のどんな症状も対応出来て、それら全てが超一流の医者がいたら凄い事じゃない? しかもそれを看板に上げているって」

「なるほど、確かに…」わたしはだんだんマイの思惑が理解出来て来た。

「つまりこれからわたしたちが向かう目的地というのはその神社なわけね? 出掛ける前に目的地を聞いたら、『それは着いてのお楽しみ』って、教えてくれなかったわけだけど……」

「――正解。どうしたんだい? クミ君。今日はいつも以上にキレるじゃないか」

「普通気付くって。もうバレバレ……」

「あぁ何て事だ、英国紳士の名折れだ――って危ない。通り過ぎるところだったよ」

 マイはピタリと立ち止まって、そして片手を上げて町屋の三階建ての高さに匹敵するほどの大きく紅い木製の鳥居を指差し、次に奥に在る巨大な石柱のような物を指した。

 そこにはその神社の名称であるらしい、【保月ほうづき】の文字が掘り込まれていた。


                   ※

 

保月神社はわたしたちの住んでいる街の西の方、住宅地のど真ん中に存在していた。年季の入った町屋ふうの家屋が肩を揃えるようにして狭苦しく立ち並ぶ界隈で、そこは静謐な別世界のように想えた。「まるで『森』のようでしょ」とマイは微笑んだ。それにはわたしも同感だった。入口の鳥居の所から境内を見やると、樹木に建物が埋もれているような印象を受ける。樹齢の大きい、背が高くて枝振りの良い木が多いのかもしれない。しかも正面入口からだと全体像は把握出来ないけど、敷地は結構広そうだ。一区画分くらいあるかもしれない。鳥居を潜り、石畳の参道を十メートルほど進むと右手に参拝者専用駐車場が見えた。テニスコートくらいの広さのそこは、近隣の住宅への配慮のためか紅い板壁に囲まれていて、お手洗いや小休憩用のベンチまで備えてある。それらを右に見ながら更に参道を奥に進むと正面には再び鳥居が。今度は石で出来ていて大きさはさほどでもなく、脇には左右に一対の狛犬が向かい合いつつ、首だけこちらに向けて、わたしたちをじぃっ…とまるで品定めでもしているかのように凝視していた。その奥には朱塗りの門が在ったけどそこは閉ざされていて、参道はそこで大きく右へ迂回していた。道なりに進むと、右手には社務所、左手には手水舎が在った。参道をそのまま奥へと進むと今度は左に迂回して裏側に出られるらしい。そしてすぐ裏手には私鉄の駅が在るのだとマイが言った。ここは彼女の地元なのだ。

 わたしたちが用があるのは右手の社務所、そして左奥に見える拝殿と本殿。ここの参拝方法は少し変わっていて、普通に手水舎で口と手を清めた後、拝殿に行って賽銭箱にお金を入れて、二礼二拍手一礼すれば良いというものではないらしい。手水舎の後社務所に行って、千円弱払って【願石ねがいいし】と呼ばれる物が入ったお守り袋を購入して、それを持って拝殿に行き、両手の間に挟んで強く願う。その後、お守り袋は肌身離さず常に携帯し、願いが叶った暁には神社に返却して、お焚き上げで焼却して貰うらしい。そんないろいろ細かい決まりを、社務所の受付で神職姿のお爺さんが丁寧に教えてくれた。

「クミはいったい何をお願いしたの?」

 お参りが済んで、参道を来た時とは逆方法に歩きながら、ふいにマイが尋ねて来た。

「わたしは……まぁ、適当に。健康でいられますようにとか、学校の成績が良くなるようにとか……まぁそんな感じだけど」

 曖昧に答える――いや、曖昧にしか答えられないけど正直でもある。実際にそんな月並みで下らない願いしか持っていないのだから。

「えぇ~、だめだよ、そんなんじゃぁ。それだと叶ったかどうかが判り難いよ。もっと具体的な願いじゃなくちゃさ」

 マイが隣で口を尖らせているのを見て微笑みながら、わたしは心の中で溜息をつく。わたしは自分で『こうなりたい』『これを目指している』などという、理想像や目標のようなものを持っていない只の一人の小市民だ。おまけに見た目は普通だし、運動も勉強も人並みで何かの取柄があるわけでもないのだから、これ以上どうしようもないのだ。だからわたしは時々マイの事を妬ましく思う事がある。彼女は平均よりも綺麗で可愛い容姿を持ち、学校の成績だって悪くない。おまけに言う事成す事他の誰とも違う発想をするのに、誰とでも仲良くなれる素質を持つ不思議な女子だ。当然、常に皆の話題の中心に居る人気者で、友人は男女問わずに多い。――あぁそうだ。『こうなりたい』と願う理想像なら、ある。彼女だ。わたしは【園部舞】という人物に憧れているわけなのだから、彼女になりたい……

「そういうマイは何をお願いしたの?」

 わたしがそう尋ね返すと彼女は『待ってました』とばかりに「ふっふっふ…」と大仰な仕草で笑って、やおらがしっとわたしの肩を抱くと、空いているもう片方の手で空を指差して堂々と言い放った。

「決まってるじゃないっ。わたしは海外に行ってボランティアの星になるの!」

「……いや、今、昼間だから。空に星とか無いから」

「あるよ! 心の目で視るの。そうしたら視えるから」

「はいはい」わたしは少し呆れていたけど、諦めてもいる。慣れてもいた。

「でもさ、マイってマザーテレサを尊敬してるってわりには神道の神社で願い事とかするんだね。宗教が違うんじゃないの?」

「べつに十字架を背負って参道を歩くわけじゃないんだから。心の中で思っている分には自由、どっちの神様にも迷惑は掛けていないはず。それにわたしがマザーを尊敬しているのはその行動や人柄そのものであって、彼女が敬っている存在までは興味ないよ」

「ふぅん、何かずいぶんとドライだね」

「ま、わたしが好きなのは人だからね。神様は……嫌いじゃないけど正直少し不満はあるかな? わたしを甘やかし過ぎてるって。幸せで、申し訳なくなるくらいにわたしは恵まれた人間だから」

「そうだね、はいはい。でも真昼間から星が視えているのってどうかな? そろそろ病院行かなくちゃならなくなるんじゃない? 悪いのが目か頭か、どちらにしてもそれって不幸な事じゃ―― 」

そこまで喋ったところで「あだっ」とわたしは声を出した。マイがわたしの脇腹を小突いたのだ。

「ちょっと、何すん――」

 わたしが非難の声を上げようとすると、マイはがばっと両手を大きく広げ、そしてわたしに飛びつき、抱き締めた。

 そしてぎゅっと力を込める……

「愛しているぜ、クミ。幸せになってくれ……」

 彼女が耳元で囁く。それが抱き締められている適度な圧迫感と合わさって、何だかとても心地良いものに思えた。

「……何言ってるのよ」

 感じた温かさみたいなものを誤魔化すように冷めた口調でわたしが呟くと、彼女は「ふっふっふ」と声を出した。嬉しそうに笑っているのが見えなくても分かる。

何だかいつものわたしたちだなと、ふと想った。

 わたしは基本的にマイの事が大好きだし、彼女も同じように想ってくれていると漠然と信じていた。彼女が海外に行って不遇の人たちの支えになる仕事がしたいと言えばそれを応援したい。例え離れ離れになって寂しい想いをする事が分かっているのだとしても。受け入れなければいけないのだと。


 この時のわたしは本当に心の底からそう思っていた。それに偽りはなかったんだ……


               ※


 わたしとマイはずっと昔からの親友というわけではない。出会ったのが高校に進学してすぐくらいだから、関係は実質一年ほどだ。正直なところ、当初わたしは彼女とこんなに気が合うとは思わなかった。何しろわたしはこの世に生を受けてから彼女に出会うまで、他人が嫌いで、わたし自身が大嫌いで、だから世界の全てが気に食わなくて、誰にも興味が持てず、感謝もせず、たった一人で生きているような気持ちでいた、捻くれ者のろくでもない、自意識過剰で独善的な人間だった。それに比べてマイはいつも自分以外の誰かの事を想っている天真爛漫な善人だ。おまけに趣味は人助けなんだと宣う。誰かのために身を投げ出すだすだなんて、自分の面倒だって真面にみれないわたしにとっては正気の沙汰じゃない。恥知らずにも告白するけど、わたしはこれまでの人生の中で、誰かのために何かをしてあげたいと本気で考えた事なんて無かった。

 でも変わった。ほんの少しだけど、少しずつだけど変わっていった。偏屈者のわたしを見初めた少女が、わたしを引っ張り回したせいだ。

わたしは常に周囲から浮いた存在だったけど、中学生になる頃からそれはわたしとわたしの周囲との空気に如実に表れ出した。結果在学中、友達が一人も出来なかった。まぁわたしみたいなタイプの人間に関わるのはわたしだって嫌だし、しかたないだろう、当然の話だ。それで友達が一人も出来ないまま寂しい三年間を送り、高校でもそんな三年間を送るのかと漠然と諦めていた昨年の春、彼女から声を掛けられたのだ。クラス内の親睦を深めるための遠足で同じ班になった、その運命に感謝したいと心底思う。奇跡的にわたしたちは気が合って――彼女のほうが合わせてくれているのかもしれないけど――そして今に至るまで二人は親友だ。それは間違いないもののはずだった……

 でもそんな二人の関係が少し変化したのはほんのつい最近の事だ。マイがわたしに【伏見ふしみ良成よしなり】という男子を紹介した事に端を発する。彼はわたしたちとは違う高校に通っていたけど、マイとは中学時代の同級生なのだそうだ。第一印象はあまり良くなかった事を覚えている。それはわたしが心の何処かで『マイを奪われる』ような気持ちを抱いていたせいだと思う。でも、その感情はすぐに変化する事になる。

 彼と出会って本当にすぐ、マイを含めた三人で市内のプラネタリウムを観に行った時だ。

 ドーム型天井の内側スクリーンに映し出された数十分の映像を見終わった後で、マイが『ブーツを汚しに行く』と言って、お手洗いに立ち、出逢ったばかりの彼とわたしが二人でその場に取り残された。

 よく知らない男子と二人きりで、何だか気まずい雰囲気だった時、中学時代天文部だったという彼が、ふいに「宮津さんはどの星座が好き?」と聴いて来た。

 星座なんて興味が無いからよく知らないわたしは、適当に――以前にマイが話していた星の話を想い出して――『北斗七星』と答えた。そんなわたしに彼は何だか少し微妙な顔をして

「北斗七星は正式な星座ではないんだ。実は大熊座の一部なんだよ」

 と、大真面目に返して来た。後から調べて知った事だけど、アステリズムといって、国際天文学連合では正式な星座と認められていない星の並びなのだそうだ。だけどそんな事は知らないわたしは「知るかよ、知識ひけらかしてんじゃねーよ」という反抗的な感情を抱いた。

 そんなわたしの気持ちなどはお構いなしに、「北斗七星は二等星六つ、三等星一つの、計七つの星で形成されてして、それぞれに名前が在って……」と、彼は北斗七星の解説を始める。

 その時のわたしは何故か、北斗七星に一等星が含まれていない事に気付き、それがすごく気になった。たぶんここ最近になって度々感じる自身への劣等感や、人間関係がそうさせたのだと思う。だからか、解説の途中にも関わらず、思わずその事を口に出してしまった。

「そうだね。でも僕はそこが良いと思うんだよ……」

 しかし彼の意見は意外だった。

「目立つ一等星が含まれていないにも関わらず、北斗七星は有名なんだ。おそらく母体の大熊座よりもね。世界各国で古代から夜空で方角を示す道標として、様々な伝承や逸話を残している。それって何だかすごい事のように思えない?」

 それを聞いた瞬間、わたしは何というか……救われたというか、気持ちがすごく軽くなった。それと同時に、目の前の彼への感情が、厚かましくも百八十度、反転してしまったのだ。

 ――そう。わたしは彼の事が大好きになってしまったのだ。

勿論『人間として好ましい』というものではなく、『異性として愛している』というものだった。正直細かい理由など説明出来ない。何しろ生まれて初めての覚えのない感情なので、当初何がなんだか、どうしたら良いか分からず戸惑ったくらいなのだから。

 でもその感情がどういうものかがはっきりと判ると、わたしはすぐにマイに彼にのかを聴いた。「えぇ~、違うよ」とマイは笑って否定した。でも嫌ってはいない。彼のほうにしたって三人でいても常にマイの方ばかり見ていて、のは間違いなかった。何もなくこのまま自然な流れで関係が進むと二人はいずれ恋人同士になりそうな気がした。きっと微笑ましい二人になると思う。でもわたしはそれを祝福出来ない……

 わたしは自ら動いて流れを変える事に決めた。でもマイとの関係は壊したくないから、彼女にはそれとなく牽制する形をとりながら、彼への積極的なアプローチを開始した。わたしたちは互いの連絡先を交換済みだったから、連絡を取って、出来るだけ二人だけで会って話をしてわたしを印象付け、彼にわたしの方が自分のパートナーに相応しい女性だと想われるように努める作戦だ。まずはマイと恋人関係になるのに協力するような雰囲気を匂わせ、次に星座に興味が出たという嘘を吐くと、結構すぐに彼のほうからも遊びの誘いが来たりして、当初滑り出しは順調のように思われた。

 でも、二人で会っている時――二人きりの時でさえ、彼はマイの事ばかり話題にして、マイの事ばかり聴きたがった。特にマイと、わたしたちの同級生で皆の人気者の【山科やましな大吾だいご】という男子との関係にご執心だった。山科くんはマイと同じ中学らしく、未だに結構関わりがある。それを彼は何処かで見聞きしたようで、どうにか引き離したい気持ちがあるのだろう。それはわたし視点からのわたしとマイと彼との関係に似ているため、気持ちは分からないでもないけど協力は出来ない。だから山科くんとマイとの関係は『微妙』とか『分からない』とか曖昧に伝えて、後は『サッカー部のレギュラーだ』とか『酷い花粉症で外に出るのも一苦労らしい』とかいう、どうでもよい情報を最優先に伝えていた。実は最近、二人は詰まらない事で大喧嘩して、それ以来口を聞いていない――主にマイのほうが怒っている――のだけど、そんな彼の喜びそうな情報は当然伝えない。わたしはずるくて器の小さな女になっていた。

 だけどそんな行為がべつに何になるわけでもなく、しばらくしても、わたしと彼との関係には大した進展は見られなかった。壁にぶち当たるのは思ってたより早かった。 

 そのまま状況は停滞を続けるかに思われた。しかし変化の兆しはふいに訪れる。なんとマイがゴールデンウィーク明けに彼女の地元の観光地で、彼とわたしの三人で遊ぶ話を持って来たのだ。良い機会だ。わたしは勝負に出る事にする。マイにどんな思惑があるのかは知らない。どうせいつものように聞いても教えてくれないだろうし、考えても分からない。でもそこでわたしは彼に寄り添い、マイにわたしたちの関係を匂わせよう。そして二人きりになった瞬間を狙って彼にわたしの想いを告げる。そしてその結果がもし良ければ、すぐにマイにも伝える。

 見せ付けるかのように。

 わたしは意志を固めた。

 マイは山科くんと同じ一等星なのだから、彼と付き合えばいい。伏見くんはわたしと同じ二等星なのだから、彼にはわたしこそが相応しいのだ。


                   ※

 

 マイの地元の観光地には彼女と時々行っていたので、良く知っている。山や川が近い、自然豊かで静かな良い地区だ。夏場の川床やお盆には灯籠流し、竹林の小路や、由緒正しい神社仏閣や歴史ある文化遺産などの数々、見所は沢山ある。訪れる人は老若男女問わない。でも基本十代女子は修学旅行の学生が殆どだった。でもわたしたちはあえてその中に混じって、彼女たちをターゲットにしたカフェやおみやげ物屋などを観て回ったりしていた。勿論マイの趣向で。それなりに楽しく――いや、わたしはマイと一緒なら何処に居たって楽しかった。いつもなら……

 今日もいつもと同じような流れで時間は過ぎて行った。でも、わたしは一人楽しめていなかった。常に緊張していたし、心の中でいろんな感情がごっちゃになり気分が晴れなかった。逆にマイはいつも以上に楽しんでいるのか、おみやげ物屋で品を選ぶのに持参のパーティーグッズの鼻眼鏡を掛けて真剣な眼差しで悩んでみせたりするなどの、いつもにも増してエキセントリックでサービス精神旺盛な様子が見られた。その姿と鼻眼鏡の質感の妙なクオリティの高さが面白かったのか、彼がお腹を抱えて笑っていて、それがわたしには酷く恨めしく思えた。

 しかしそんな折、わたしにもチャンスが巡って来た。昼過ぎから滞在してもう夕方。おみやげ物屋やカフェが並ぶ通りから外れて山の方へ百数十メートルほど歩いた、住宅地を少し入った場所にある、静かで人気の無い公園の前を通り掛った時、ふいにマイが「飲物を買って来る」と言い出したのだ。彼は自分も一緒に行くと言ったけど、彼女はそれを断り、「ここで待ってて」と言って、一人で駆け出して行ってしまった。わたしは彼と二人きりになったのだ……

 千載一遇のチャンスだった。でも、いつものように彼はマイの話をし出した。先手を取られたわたしはとりあえずそれを聴くかたちになった。歯がゆい……。わたしは今そんな事を話題にしたいわけじゃない。話題を変えたいがそのキッカケが掴めない。早く言わなければマイが帰って来ると言うのに……

 目の前にわたしが居るのに彼の瞳にはわたしは映っていないような気がする。わたしを見て欲しい。そうでなければ、わたしは大事な言葉を、たった一言さえも口に出せない。

 ――駄目だ、このままでは。もう、多少強引にでも想いを伝えるしかない……

 わたしは覚悟を決めた。

「あのっ……お話があります」

 本当に強引に、彼の言葉の途中にわたしの言葉をねじ込んで彼の気を引くと、わたしは改めて彼に向き直った。そして間髪入れずに畳み掛ける――

「す、好きでスっ! わたしと付き合って下さいっ!」

 ――言えた。声は少し裏返ってしまったかもしれないけどはっきりと言えた。

   …………

 彼からの返事は無かった。わたしは怖くて彼の顔が見られなかった。……でも、見ないわけにはいかないのを無意識に分かっているのか、気持ちとは裏腹に、まるで不可思議な何かの力に操られているかのように、わたしの視線は彼の顔へと吸い込まれる。

 彼は複雑な表情をしていた。驚いているようで困っているような。そんなものなんだろうか、何の心の準備も無く愛の告白を受けてしまった男子の表情というのは。でも、確かに彼はわたしを見ていた。向かい合って見詰めた彼の瞳にわたしの姿は映っていた。沈黙――わたしが創り出した世界。時間が止まってしまっていた。でもこの瞬間の彼はわたしだけのもの、それは間違いないのだ。


    こしゃん…


 柔らかい中身の詰まった硬い何かと何かがぶつかったような響きの無い軽い音。小さい音だったけど妙に耳に障った。そのせいでわたしたちの世界は壊された。

 今までとは比べ物にならないくらいほどはっきりと驚いた顔で彼がそちらを見ているので、わたしもその視線の先に目をやる。

 ――そこにはマイが立っていた。足元にはジュースの缶がコロコロと音を立てながらアスファルトの地面を転がっていた。彼女の表情は非常に歪で複雑だった。わたしは未だかつて彼女のそんな表情を見た事が無かった。驚きと恐怖が入り混じったような、目元や唇が小刻みに震えているようにも見えた。

「あの…さ」

 彼が何かを言おうとして手を動かすと、その瞬間、マイは踵を返して、いきなり駆け出してしまった。

「ちょっ……」

 追いかけようというのか、彼は彼女の背中に向かって一歩踏み出した。

「待って!」

 しかしその上着の裾をわたしは掴んだ。引き止めたのだ。

 彼は「えっ?」とわたしを振り返った。

「――まだ、返事を…聞かせて貰ってない……」

 わたしは懇願するように言った。

   ――っ 

 彼がそんなわたしに向かって何かを言おうとした。その瞬間だった……


      キィィィィィイィィィッ!――


                          ――ガシャァァァン!


 遠くから耳障りな音が聞こえて来た。胸の奥が少しザワつく……。これまでに聞き覚えが無いわけでない、不幸の来訪を告げる悪魔の笛の音だ。

 彼がわたしの手を振り払って音のした方向へ向かって駆け出した。はっ…と我に返ったわたしも慌ててそれに続いた。

 現場までは距離にして二百メートルも無い、辿り着くまで時間にして数十秒だった。住宅地から出て大通り――アスファルトの地面の上。そこにあったのはフロント部分がぐしゃりと潰れた乗用車とその傍に横たわる一人の少女の姿。すぐに野次馬が集り出して、状況を見るなり口々に何か呟いたりを叫んだりしている。悲鳴を上げる女性もいる。

「――ま…マイ…… 」

 わたしの口からはその一言だけが零れ落ちた。勝手に身体の力が抜けて、その場にすとんと膝をついて座り込んでしまった。いったい何、これ……

 マイは無言でアスファルトにうつ伏せに倒れたまま、ぴくりとも動かない。その身体の下から赤黒い液体がどんどん溢れ出して、地面には水溜りが出来ようとしていた。


                 ※


 誰かが通報してくれて、すぐに救急車がやって来た。わたしはその救急車に一緒に乗り込み、伏見くんは残って警察に事情を説明する事になった。

 病院に着くとすぐにマイは手術室に運ばれ、そして緊急手術が行われた。待っている間、茫然自失のわたしは病院の人にマイの実家の住所や電話番号などを強引に聴き出され、しばらくして彼女の両親がやって来た。彼らからいったい何があったのかを聴かれたけど、わたしはただ「ごめんなさい、ごめんなさい……」と謝る事しか出来なかった。やがて気が遠くなるほどの長くて重く苦しい時間を経て、手術が終わった。お医者さんが「今晩が峠です」と両親に話すと、母親が泣き崩れ、父親がそれを支えてソファーに座らせると、その後で詳しい状態を聴いていた。とりあえず彼らは空き病室を借りてこの病院で一泊するらしかった。わたしは家に帰るように言われ、それに従い病院を出た。

 病院の外の世界は暗闇だった。自身の感覚だけでなく、実際に事故からかなりの時が経過していたようで、もう深夜と言っても過言ではない時間帯になっていた。病院の前の道に出てわたしは右方向へと歩き出した。少し前に両親から連絡があって迎えに行くと言われたが断った。「じゃぁタクシーで帰って来るのよ」との母の命令に従い、わたしはこの先しばらく歩いたところに在るタクシー会社の詰所に向かっていた。マイが搬送された病院は事故現場からそう離れていない。この辺はマイの地元だ、少しなら土地勘があった。


 道路の両脇に一定間隔に並んで設置された街灯の明かりと、周りの住宅の窓から零れ落ちた光のお陰で、足元がおぼつかないような事はなかった。でも、わたしは何処かふらふらとした感覚で、真っ直ぐに歩けているのか自信が無かった。

 歩きながら鞄から携帯電話を取り出して履歴を確認したら、伏見くんからの電話とLINEメッセージが幾度となくあったようだった。留守番電話の記録音声やLINEの文章は皆だいたい同じ内容で、マイの容態と、警察で聴けなかったのか搬送先の病院の名前と所在地を尋ねていた。でもわたしはそれらの答えを返信せずに携帯電話を鞄にしまった。どうしてか不思議と教える気にはならなかったのだ。

 わたしの頭の中はいろいろとごちゃごちゃしていて、それがぐるぐると回って、まったく少しも思考が纏まらない。おまけにそれらが悲しみなのか、罪悪感なのか、後悔なのか、絶望なのか、それとも憤りなのか……。わたし自身がその正体さえも掴めていなかった。ただ一つはっきりとしているのは、マイがあんなふうになったのはわたしのせいだという事だけだった。

 わたしが伏見くんの事を好きにならなければ……

 わたしが今日、伏見くんに想いを伝えようとしなければ……

 わたしがあの時、彼を引き止めなければ、もしかしたら……

 今さら考えてももうどうにもならない事は分かっていたけど、それでもそれらの想いは自然に湧き出て来たし、考えないわけにもいかなかった。

 どうしてマイがこんな目に? 彼女は善良なただの女の子だ。こんな不幸に見舞われなければならないような理由は無い。幸せな学生生活を送り、そしていずれ海外へ出て、恵まれない環境の人を助けるボランティアの星になるはずの人間なんだ。それがどうして…… 

 むしろわたしが……わたしがなるべきなんだ。マイはいつでもわたしに笑い掛け、励まして、一緒に泣いてくれた。友達を作れない出来損ないの人間であるわたしの親友になってくれた。そんな彼女をわたしは出し抜こうとしたのだから。神様はきっと頭がおかしいに違いない。報いを受けるべきは本来わたしのはずなのに……

 神様の事を考えていて、ふと足が止まる。目の前にバス停が在った。そこに記された文字を見て、それに気付き左に振り向く。道路を挟んで向かい側には紅い鳥居が立っていた。町屋三階建てにも匹敵するような大きな鳥居が暗闇に黒く濁ってそこに存在していた。その奥には石柱のようなものが在って、そこには神社の名前が彫られていた。

 わたしはつい二ヶ月ほど前に聞いた、マイのある言葉を思い出した。


――ねぇ、知ってる? お参りしたら、どんな願い事でも叶う神社があるんだよ……


              ※


 正面入口は車止めが置かれていたけど、端っこから人一人くらいなら余裕で出入り出来た。石畳の参道には脇に一定間隔で外灯が設置されていたので、灯りを携帯していなくとも何とか進む事が出来る。周囲の暗闇に沈む深夜の杜は明かりの届かない深海のように思え、正直不気味で堪らない。昼間なら心が洗われる静けさも、今のこの時間帯だと心をざわつかせる不安を内包しているように感じられる。それでもわたしは奥へと歩みを進めた。退がるわけにはいかない……

 今のわたしがマイのために出来る事は、祈る事だけだ。それ以外無いのだから進むしかない。

 社務所の前までやって来た。様子を窺うに灯りは消えている。誰も居ないのか――こんな夜中の時間帯なら当然だとは思う。玄関の引戸に手を掛け、力も込めても開かなかった。だけど諦め切れないわたしは未練がましく扉をドンドンと叩いた。予想通りに何の反応も無い。でもこのまま何も出来ないで、ただ「仕方ない」と諦めたくはなかった。わたしは大きく息を吸い込んで、両の拳を固め掲げて、そして思いの全てをそこにぶつけようとした。その時だった……


    がさっ…


 物音がした。反射的に思わず傍の物陰に身を潜める。耳を澄ますと、がさ…がさ…と何かが草木を踏みしめるようなその音は拝殿の方から聞こえて来ていた。目を凝らすと拝殿脇の竹藪の中で何かが蠢いているのが分かった。黙って様子を窺っていると、やがて竹藪から人影が一つ現れた。

「やれやれ、まったく。手間掛けさせやがりますね」

 呟きながら外灯の明かりの下に姿を見せたその人物は少女だった。年の頃はたぶん中学生……か、もしくは小学生かもしれない。どちらにしてもわたしより幼いのは間違いないだろう。小柄で可愛らしい印象だ。透けるような白い肌と切れ長の目が特徴的で、背中まで伸びた黒髪を首の後ろで一つに纏めていた。そしてその身に纏っているのは小袖と緋袴と草履――間違いなく神社の巫女装束だった。

 こんな時間に人気のない藪の中で何をしていたのかが気にならなかったわけではないけど、わたしはそれどころではなかった。――わたしはいる。神社の関係者に出会えたのだから……

「あのっ―― 」

 わたしが声を掛けると、少女は一瞬びくりと肩を上げたけどそれだけで、ゆっくりとこちらに振り向くと「おや、こんな時間に参拝者ですか……」と呟いた。

「申し訳ありませんが、本日の営業はもう終了しています。また後日お越しください」

 少女はぺこりと頭を上げるとさっさと立ち去ろうとした。

「ちょ…ちょっとっ」わたしは慌てて腕を掴んで彼女を引き止めた。「何ですかぁ」と少々面倒臭そうに振り返る彼女にわたしは懇願する。

「すみませんっ、【願石】を売ってください!」

「無理です」と彼女は即答した。「社務所は朝の九時から夕方五時までの営業です。それ以外の時間は防犯上の理由から施錠して閉めております。明日改めて営業時間内にお越し下さい。お待ちしております」

 仏頂面のまま抑揚の無い声ですらすらと、まるで紙に書かれた説明を読み上げているかのような口調の少女。確かにそれで彼女の言いたい事は分かる。しかしわたしは尚も食い下がった。

「明日では間に合わないかもしれないんです。お願いします!」

「あのですねぇ」と彼女は先ほどにも増して面倒臭そうな顔で口を開く。「ご存知の事とは思いますが、神様というのはお賽銭と自らの努力を渋る人のお願いはお聞き下さいません。それと同じくらいに礼儀を弁えていない人の願いもお聞き下さらないのです。今がいったい何時なのかご存知でしょうか? もう少ししたら終電が出る時間ですよ。とても他所さまの家に押しかけて、ものを頼む時間ではな――」

『―まぁ、そう言わんと。話ぐらい聴いてやってもえぇんちゃうか? チカ……』

 何処からともなくそんな声が聞こえた。わたしがびっくりして声の主を探そうと周囲を見回すと、目の前に立つ少女の頭の天辺に、ちょこんとをするようなかたちで、いつの間にやら不思議な生物が現れていた。

 その生物は一言で説明するならば『子狐』だった。でも大きさがソフトボールほどしかなく、銀色の毛並みをしていて、切れ長な目の縁と唇にあたる部分が異様に紅く、左耳には三つ連なった鈴の飾りを着けて、首からは己の身体ほどもある紅い巾着袋を提げていた。

 少女の頭の上だから、ちょうどわたしの目の高さ辺りに姿が在った。わたしがじっと見詰めていると子狐は目を細め、グルル…と喉を鳴らして威嚇の声をあげた。

『誰に向かってメンチ切ってんねや。祟るぞ、コラ』

 それはしゃんしゃんとした、まるで鈴の音のような声だった。

「しゃ…喋ったっ」

 わたしは思わず後退りをする。狐姿の生物が人語を解するだなんて、にわかには信じられない状況なものだから。でもさっきの声もきっとこの子狐が喋ったものだろう……

「――あなた、ギンが見えるのですか?」

 少女が怪訝な顔で問う。わたしは無言で数回頷いた。

『どうやら、俺の客みたいやで』

 嬉しそうに笑って、【ギン】という名前らしい子狐は、身体の下の少女の頭を前足でぽんぽんと叩いた。少女は不満そうに「そのようですね」と呟く。

「でも、深夜の電話や来客なんてろくなものじゃないのが定説ですよ」

『昼間かって同じや。俺の姿が見える奴にろくな人間なんかおったためしないやろ、これまで』

「そうでした……」と少女は溜息みたいに言葉を吐いた。そして次に「――で?」とわたしの目を見た。わたしが当惑していると、ギンが『それ』と、わたしの鞄を前足で示した。

 何となく妙な気配を感じたわたしが鞄を開けると、中からうっすらと鈍い紅い光が漏れ出している。光の元を探して取り出してみると、それは以前この神社で購入したお守り袋だった。

『そいつはに反応する、生半可な願いではそいつを光らず事は出来ん。つまり今、お前には何が何でも叶えたい願いがあるいう事やな。俺の姿が視えてんのも、そういう事や』

「………」

 その後ギンが『寄越せ』というので、わたしはそのお守り袋を彼に手渡した。彼はそれを受け取り、獣の前足でどうやっているのかは分からないけど、器用に袋を開け、中身を取り出した。

 中身は小指の先くらいの大きさの石の球(?)で、取り出されると、それは彼の顔や周囲を光で紅く染め上げていた。

 ギンは大きく口を開けると、その球を丸呑みする。

『ふむ……ふむふむ』

 そして呆気に取られているわたしの前で、一人何かに納得するように頷いていた。

『はぁ、なるほどなぁ。お前には今、自分のせいで死に掛けている親友がいる。そいつの命を救いたいんやな』

「えっ――」

「どうして分かるんですか?」と尋ねる前に、傍の少女が「ギンは【願い石】から『想い』を吸収します。情報と栄養を得るために」と説明してくれた。

『まぁ、手付金みたいなもんやなぁ』

 のんびりそう呟いたギンに、わたしは「それで……」と、願いが成就可能かどうかの回答を急がせた。

『――出来るで』

 ギンはそう返して来た。呆気なく望んだ通りの答えが返って来たため、わたしが思わず「え?」と声を出すと、ギンは『だから出来る言うてんねん。そいつ、死んでへんねやろ? せやったら可能や』と、ずいぶんとあっさりした口調で再度答えを返して来た。

『ほな、行こか』

「え?」

『いや、せやから死に掛けているその親友ツレんとこ。そいつ今、動かれへんねやろ? せやったらこちらから出向くしかないやん。この近所なんやろ? その病院……』

 ギンは再び少女の頭を叩いて歩き出すよう促していた。少女は渋々といった様子でそれに応えて足先を参道へと向けた。

「ぁ…ありがとうございます」

「礼を言うのはまだ早いと思いますよ」

 器用にも頭の上にギンを乗せたまま歩く少女が呟くように言った。

『そうそう』とギンもそれに賛同する。『とりあえず状態を診て、それから『契約』になるしなぁ……』

「ぇ…ぁの、『契約』?というのは…… 」慌てて少女の後を追いながら、わたしは尋ねた。

『それはその時が来てから纏めて話すわ。まぁ何て言うか、一部は等価交換みたいなもんやと思たらええかな? いくら超絶偉大な俺様でも、さすがにタダ働きは出来へんからなぁ』

  ――超絶偉大って……

 わたしが「あなたって、いったい何者なんですか?」と尋ねると、ギンは『何や、知らんと頼んだんかいな』と、意外だったというような口調で返して来た。

『――【カミサマ】やん。おまえ、俺にお願いしに来たんやろが』

「正確には『代理』ですけどね」

 ギンの下から巫女の少女が、溜息を吐くようにそう呟いていた。


                  ※


『うわ、キッついなぁ』

 深夜の病院の薄暗い集中治療室の中。身体中に包帯やいろんな管、口には呼吸器を着けられた痛々しい姿でベッドに横たわるマイを傍で見下ろし、ギンが零した。

『こら、アカンで……』

「ぇ…でもさっきは……。それにお医者さんは今晩が峠だって言ってたけど、それってまだ助かる可能性が……」

『論より証拠やな』と呟くように言って、ギンはわたしの隣に並んで立っている少女の頭から器用に肩を渡り、わたしの頭の上へと乗り移って来た。そして前足でぽんぽんとわたしを叩く。

『見てみぃ』とギンが言うので、彼の前足の指す方向――マイの枕元に目をやって、そこでわたしは思わず「ひぃっ」と声を出してしまった。

「な、何ですか、あれ……」

 そこには濃紺色の作務衣に似た服を着た、恰幅の良い――悪く言えばぶくぶくと肥太った――眼鏡を掛けたハゲ頭の中年男が胡坐をかいて座り込んでいた。その身体はちょうどマイの頭の高さくらいで宙に浮いており、目は閉じられていて、額に汗を掻きながら苦しそうに「ふしゅーふしゅー」と妙な息を吐いていた。

『【死神】や』

「――え?」

 ずいぶんとわたしの抱いている死神のイメージと違うもので、もう一度聴き直そうとしたけど、それより早くギンが口を開いた。

『まぁ、おまえら人間の一般的なイメージでは黒いフード付コートを羽織った骸骨姿で、馬鹿デカイ鎌持ってんねやろ? そぐわない現実で残念やったな。でも隣のチカを見てみ? おまえ以上にもっと露骨なリアクション取っとるで』

 【チカ】というのはたぶん一緒に居る巫女の少女の事だろう。そちらに振り向くと確かに露骨に心中を表した表情をしている。まるで物凄く汚い物でも見てしまったかのように顔を顰めて涙目になっている。これはさすがに酷い。

『以前祭事でな。あんな感じの奴にカメラ片手に追いかけられたんがトラウマになっとんねん。――で、まぁそんな事より、その死神が脇に置いてるモンを見てみ』

 ギンに言われるがままに、死神の傍に置かれた幾つかの物に注目する。それは大きなリュックサックと折り畳み式の携帯電話らしき物。後は、おそらく元は拳二つ分ほどの大きさだっと思われる真っ黒に煤こけた壊れた何かの燃えカスだった。

 気持ち覗き込むような感じでその燃えカスに注目してみる。簡単な構造の何かの骨組みのようだけどぐしゃぐしゃに潰れていた。中には小皿が一つあって、それはまだ燃えていた。皿内に溜められた油か何かに火が点いているようだ。

「あっ……」

 そこまで観察して初めて気がついた。その燃えカスの横には短冊のような細長い白い紙が置かれていて、その紙には【園部舞】の名が記されている……

『いわゆる【命の灯】ゆうやつやな』

 ギンは再び肩を渡って今度はチカの肩に乗ると『またまた論より証拠で行こか』と言って、首から提げられた紅い巾着袋の口を前足二本で器用に開いた。そしてそのまま両前足を突っ込むと中から、長さ三十センチほどの妙な形状の棒のような形の物を引っ張り出した。それがどうやってギンの身体と同じくらいの大きさの袋の中に収納されていたのかは分からない。その棒の片方の先には半円形に湾曲した二本の細長い物体が付いていて、もう片方の先には輪状の握り部分とレバーのような物が付いていて、それは子供の頃家にあった玩具のマジックハンドにそっくりな形状だった。ただやたら質感がつるつるしていて、二本の指の付け根あたりに飴玉くらいの大きさの翡翠に似た色の玉が埋め込まれて、それが必要以上に美しく豪華な印象だった。

『おまえ、そこを動くな』

 ギンがわたしにそう言うと、ギンを乗せたチカは逆に動いてわたしに一歩近付いた。ギンはまた両前足を器用に使いマジックハンドを操ると、先端の指の部分を開き、それをわたしの胸に当てた。そしてそのままぐっと押し込むと、指部分はずぶずぶっとわたしの身体の中へと埋もれていった。痛さは無かった――というよりは何の感覚も無かった。ただマジックハンドが引き抜かれて、その指の間に灯籠流しで使用される灯籠のような物が見えた瞬間、身体がほんの少し軽くなった気がした。材質までは判らないけどその灯籠のような物の構造は、六角の底板の各角から垂直に伸びた六本の柱の周りを白い和紙のような薄いものでぐるりと包んだ簡素なもので、上には蓋が無い。中には小皿と、そこに立てられた火の点いた一本の蝋燭が在って、その淡い光が和紙を通して外へと滲み出ていた。そこでもわたしは遅れて『それ』に気付いた。六面の周囲の一面に、わたしの名前が記された短冊が貼られていたのだ。

 ギンはチカに灯籠を掴んだままのマジックハンドを手渡すと、自身はその灯籠を覗き込む。そして上からふぅっと勢いよく息を吹きかけて炎を掻き消した。

   ―――っ?

 途端にわたしは妙な感覚に襲われた。目の前が真っ暗になり、身体中の力が一気に抜けて、それはまるで眠りにつく際に時々体験する――いきなり床の感触が無くなって何処かに急速落下して行くような――そんな感覚だった。えもいわれぬ恐怖に捕らわれ、だけど抵抗する術を持たず、飲み込まれるしかなく……


   ………


『――おい、おい、しっかりしぃや』

 ギンに頬を叩かれ、ハッと我に返った時には、わたしは病室の冷たい床に無防備にも仰向けに倒れていた。

『大丈夫か?』と尋ねるギンにわたしは答える事が出来なかった。何とか上半身は起こせたけど、胸はバクバクと音を上げて激しく脈打っているし、呼吸は荒く、全身にびっしょりと冷たく嫌な汗を掻いていた。

『大丈夫やで。すぐに火ぃ点け直したし、もう身体に戻しといたし。おまえがたんは一瞬の事やから』と、平然と言ってギンは『そのままで良いから話を聞くよし』と続けた。

『さっきの灯籠や中の蝋燭は具現化したお前の【寿命】、点る火は正真正銘の【命の灯】で、これが消えると名札の主は死ぬ。そして俺の御利益アイテム【死神の手】はそれを灯籠ごと人の身体から取り出す力がある。ここまでは何となく理解出来たな?』

 わたしはまだ頷く事しか出来なかった。

『それでおまえのツレの【命の灯】の状態やけどな、最悪やわ。事故の衝撃か何かで灯籠が壊れてしもて、それに火が燃え移って炎上。その熱で火元の蝋燭自体が溶けてしもてる。おまけに燃えたのか折れて無くなったか――理由はよう分からんけど蝋の大部分が消滅してて、芯も無くなってしもてる。皿に溜まった蝋そのものに火が点いているから燃え切るのは早いで。タイムリミットは後約三時間、朝までは持たんわ』

「そ、そんな……」

『――それでや。こっからが本題やで。こいつを助ける方法やけどな、実はすごい簡単やねん。この【死神】いうんはな、死にそうな奴を見つけるとそいつに憑いて、灯籠を取り出して【命の灯】を見守って、火が消えたんを確認すると名札と魂を【あの世】に持ち帰りよる、それが生業や。せやけど逆に言えばそれだけの仕事しかしてへんねん。実は【あの世】の協会の規則でな、【死神】は蝋燭の火に関して観るだけで干渉したらあかんようになってる。つまり俺みたいに吹き消したり、もう一回点灯したりは出来へんねん。せやからな、こいつらはもし仮に誰かが知らん間に蝋燭の火に細工したとしても、どうにも出来へんねん』

「つまりその細工をどうにかして行うという事ですか?」と尋ねると、ギンは『まぁそんなところやけど、細工とは言えんかもな』と曖昧な答えを返したが、『まぁ時間も無いしぶっちゃけて言うとな……』と続けた。

『この御利益アイテム【死神の手】で、他の誰かのヤツとおまえのツレのヤツを、入れ替えてしまおういう話やな、名札だけ張り替えて』

「えっ! そ、そんな事が出来るの?」と、わたしが思わず声高に問うと、ギンは『あぁ出来るで、簡単に』と平然として答えを返した。

『しかも灯籠のデザインは全て似たり寄ったりやから、【死神】も見分けはつけられへんし、当然足もつかん。しかもおあつらえ向きにこの【死神】は只今居眠りこいとるみたいやし、余裕やろ』

「それじゃぁ、これでマイは助かるんだっ!」と叫ぼうとした瞬間、わたしの頭の中にある一つの疑問が過ぎり、自身が歓喜の声を上げるのを躊躇わせた。

「あの…一つ質問があります。その誰かのヤツってですか?」

『知らんがな』

 わたしの問いにまたしても平然と答えたギン。『――それはおまえが考えろ』

  ――えっ? 

『しっかり見て、考えて選びや。もうすぐ死にそうな爺婆なんかは論外やで。折角命を繋ぐんやから長生きしそうな若い奴を選び。カミサマからのワンポイントアドバイ――』

「ちょ…ちょっと待って下さいっ」

 わたしはギンの言葉を遮り、自分の疑問をぶつけようとした。でも旨く言葉が出て来なかった。

「あの…その、マイとその【命の灯】とやらを入れ替えられた人って…その後…は……」

『勿論死ぬで。当然やん、おまえのツレの身代わりになんねんから』

  ―――っ!

「そ、そんな……。他に方法は無いんですかっ! …ぇっと、例えば新たに蝋燭を手に入れて来て、移し換えるとか……」

『無い、無理や』

 必死に訴えるわたしに対して、ギンの口調は至ってあっさりとしたものだった。

『その蝋燭は【あの世】にしか無いし、特別なコネが無いと手に入れられんし、手続きに相当時間が掛かる、入手は困難や。そのうえおまえのツレには圧倒的に残り時間が無い。さっきも言うたはずやで、朝まで持たんてな。こうやっている間にもどんどんと時間は過ぎて行きよんねんで……』

  ……… 

 わたしは何も言えなかった。目の前の子狐に何かを言ってやりたいはずなのに、自分の気持ちをそのまま伝える言葉が旨く出て来ない。いや、気持ちさえも旨く纏められていないのだ。これまでの話を整理すると――このままではマイが死ぬのは確実。でもその死は回避出来る、延命が可能だ。でもそれを行おうとするには身代わりに死ぬが必要になる。そしてギンはそのをわたしに決めさせるつもりだ……

 確かにそれはわたしの役目かもしれない。マイをこんな目に合わせてしまったのはわたしだ、わたしの責任だ。だから、このまま放っておいたらわたしのせいでマイが死んだ事になる。でもマイを助けようとしたら、わたしが彼女の身代わりを探し出さなければいけなくなる。身代わりになるというのは死ぬ事だ。つまり――何て事だ。どちらにしてみろ、わたしのせいで人が死ぬ――いや、わたしは人殺しになるという事なんだ……

『神社でチカも言うたと思うけどな。神様は賽銭と努力を渋る人間の願いは叶えられへん。『神は自らを助くる者を助くる』て外国よその偉いさんも言うてはったやろ、それはこの国でも一緒や。――さぁ、どうする? ツレを助けるか見捨てるか』

 ギンの言葉は耳には届いていたけど、心をすり抜けて行った。わたしは「もう少し考えさせて下さい……」と一言口に出すのがやっとだった。ギンは『まぁえぇけど、ほんまに時間無いで』と呆れ気味に言って、例の【死神の手】をわたしの前に差し出した。

『詰まるところ、これはおまえとツレの問題や。だから助けようと助けまいとどちらでも好きにしたらえぇ。ただこのアイテムを使う気が少しでもあるなら、俺と契約して貰うで。どうや?』

 わたしは頷くのが精一杯だった。ギンは『せやったら契約内容の説明をするで……』と話を始めた。

『契約といっても簡単な約束みたいなもんや。でも絶対遵守やで。

 約束事は三つ――


 まず一つ目、俺を見たこと、俺らが話した内容全てを決して第三者に話さない事。

 次に二つ目、俺が叶えられる願い事は一人につき一生に一つだけ。だからこの先どんな事があっても俺を頼る事は許さへん。

 最後の三つ目、御利益アイテムは願いが叶ったと感じたら俺の元に返しに来る事。


                        ―――以上。分かったか?』

 わたしは再び頷くと、手を伸ばして【死神の手】とかいうアイテムを受け取った。そして立ち上がる……

『外へでも出て少し頭を冷やしてきぃ。俺らはここに居るから決心が固まったら戻って来るよし。それまでにツレが危なくなったら呼びに行ったるし。でもな、しつこいようやけど、もう時間はあんまりあらへんからな』

 わたしは無言でギンらに背を向けて出口へと向かう。その背中にギンが声を掛けて来た。

『他所様に迷惑掛ける事無く事態を解決出来る方法が一つだけあるで。それも選択肢の中に入れてみたらどうや? お節介なカミサマのワンポイントアドバイスな』

 それに対し何の返事をせずに、わたしは集中治療室を後にした。実はギンの言うその方法とやらは既に選択肢の一つに入れていたから、今更どうこう言葉を返す気にならなかったのだ。確かにその方法を取れば誰も傷付かないだろう。でも………


                    ※


 『非常口』と表示のある扉からわたしは建物の裏手へと出た。そこは院内のゴミを分別して一時保管している場所が傍に在り、お世辞にも綺麗な場所とは言えなかったけど、ここなら建物の中からも外からも見られる事もなく、誰かに出くわす心配もない。わたしはとにかく一人でじっくりと考えたかったのだ。

 初夏とはいえ、この時間の夜気は肌寒い。漠然と外灯の光を眺めつつ建物の壁に背中を預け、わたしは自分自身を抱きしめるように、きつく上着を巻き込んで腕を組んだ。

 考えなければ、そして早急に決断を下さなければいけない……

 だけど、いくら必死に考えようとしても頭の回転は鈍くて、答えに辿り着けない。いやそもそも身代わりなんてわたしには見付けられないのだ。ここは病院だし住宅地の中に在るし、人は数え切れないほど沢山居る。でも、その見ず知らずの誰かから勝手に命を頂くだなんて虐殺行為は出来ない。だからと言って訳を話せば納得して命を譲って貰えるわけでもない。まず信じて貰えないだろうし、信じて譲ってくれるという奇特な人が仮にいたとしても、その人は【あの世】からの迎えを待っている老人くらいなものだろう。それでは意味が無い。だから所詮は無理な話なんだ。

 実はいうと、わたしはどうしたら良いのか…その答えが分かっていた。それはギンの言ってた『誰の命も奪う事無く……』という選択肢だ。そしてわたし自身が保月神社に行く前に考えていた事である。

  ――わたし自身の命を差し出す……

 それならばばわたしは人殺しにならずに済み、マイを救えるのだ。おそらく最もシンプルで最良の選択肢なんだろうと思う。

 小一時間前のわたしがそれを考えていたというのは事実。嘘偽り無く本当にそう思っていたはずだ。でも今のわたし自身はその選択肢を指し示しかねている。何故かと尋ねられたら、わたしは「怖いから」と情けない答えを返してしまう……

 ギンに灯を消されたあの瞬間の感覚を思い出しただけで、わたしは息が苦しくなり、全身からはじっとりとした冷たい汗が滲み出て止まらず、震えも治まらない。足元の地面がいきなり無くなり、何処か分からない真っ暗な場所へと真っ逆さまに落ちて行くあの感覚には単純な恐怖だけではなく、他の感情――不安や絶望といったものも同時に、複雑に混ざり合っていたような気がする。わたしが決断出来かねているのは本能というか、心の深い部分でその感覚を自身から遠ざけたいと願ってしまっているためなのかもしれない……

 正直今のわたしにはこの選択肢に決められる自信が無い。だったらこのまま何もしないでマイを見捨てるのか? それは―――

  ―― それは…でも、悪い事…なの?

 ふとそんな考えがわたしの脳裏を過ぎった。いや待って、考えようによってはそれが最良の選択肢ではないのか? と。つまりマイが死ねば、もしかしたらわたしが彼女の代わりになれるんじゃないか。この後上手くやりさえすれば、伏見くんの恋人という玉座に、わたしは腰を下ろす事が出来るのではないだろうか、と……

  ――ぴりりッ!

「ヒィッ!」

 突然鳴り出したわたしの携帯電話にわたし自身が驚いて情けない声を出してしまった。まさかこんな時間にこんな場所で鳴り出すだなんて思いも寄らなかったから。

慌てて画面を見てみるとそこには伏見くんの名前が。すごいタイミングだと思いつつ電話に出た。彼は開口一番マイの容態を訊いた……

 わたしは思わず黙り込んでしまった。しかしそれが不安を煽ったのか、彼は矢継ぎ早にいろんな事をわたしに尋ねて来た。わたしがそれに何一つ答えていないというのに、彼は止めない、諦めなかった。そこには焦りや苛立ちや不安や…そういう強い感情が含まれていて、そしてその奥にはそれの根源となる一途な想いがある………。それをわたしは複雑な気持ちで受け止めていた。

「ねぇ…」と、わたしは口を開く。

「……マイの事、大事なんだね」

 それは囁くように小さく、わたしの口から零れ落ちた。

『 ……… 』

 そうすると彼の猛攻が止まった。それをこの場で口に出すのはおかしいと自分でも思うけど、もう、自然に出てしまったのだ。彼がマイの事が大好きなのは知っている。たぶん世界中でわたしが一番理解している。わたしと二人でいる間でさえ彼女の事を話題にしていたし、三人で一緒の時は彼女の方ばかり見ていた。彼はマイの方ばかり見ていたから気付いていないだろうけど、わたしもずっと彼ばかり見ていたのだ。だから知っている、その気持ちを。理解だって出来る。不器用で上手くやれないけど、間違いなく真面目で真剣で一生懸命でブレなくて。でも……

「ぁ、あのね。さっきの事なんだけど……」

『―――。ごめんっ…… 』

 まだ全てを言い終わる前に答えが返って来た。笑い出したくなるほど決定的だ。やっぱりわたしがマイに敵うはずが無いんだ。あの、皆を明るくする笑顔に、楽しくさせる性格、手を差し伸べてくれる優しさ……。どれもわたしに無いものばかりじゃないか……

「――ごめんなさい。」今度はわたしが謝った。

「昼間のあれね、実は…その、冗談なの。本当にごめんなさい。ちょっとふざけて伏見くんを困らせてやろうと思っただけなの。ぇと…それでね、マイの容態なんだけど。お医者さんは『大丈夫、もう峠は越えました』って言ってた。だからもう大丈夫だよ。――うん。だから今夜はもう遅いから早く寝て、明日様子を見に来てやって。伏見くんが来るとマイも喜ぶと思うし――うん、そう病院の場所は……」

 そして「じゃぁね…」と電話を切った。

 その後わたしは一度大きく息を吸って吐き出すと、【死神の手】をぎゅぅっと握り締め、『非常口』の扉の方へと足を向けた。

 ずいぶんと時間が掛かったけど、やっと心が固まったから……


                   ※


 集中治療室に戻るなりギンが、『おぉ、今ちょうど呼びに行こ思ててん』とわたしに声を掛けた。

『もうそろそろやばいで』

 傍によって覗き込むと確かに炎はかなり小さくなっていた。溶けた蝋も残り僅かに見える。

『――で。どうするか、決まったんか?』

「えぇ」と頷いて、わたしは「わたしの命と交換します」とはっきりと口に出した。

 ギンは『まぁ、それが妥当やな』と呟いたけど、彼を肩に乗せているチカが「本当にそれで良いのですか?」と尋ねて来た。

「えぇ、これで良いの」

 と、再びはっきりと口に出した。――そう、少し悔しいけどこれで良い。悲しい事にわたしではマイにはなれないから。わたしがそうであったように伏見くんにはマイしかいないんだ。マイも伏見くんも二人とも大好きだから、二人とも悲しませたくないから、だからこの選択肢以外無い……

『やってやろか?』

 ギンが前足を片方差し出した。だけどわたしはかぶりを振る。

「自分で、やります……」

 わたしは腕を伸ばしてマジックハンドの輪状の握り部分に指を掛け、開いた指部分を自分の胸に押し当てた。先ほどと同じように先端は事無げに身体の中へと入って行く。そのまま左右に体内を弄る。特に痛くも痒くもこそばくもない。ただ少し粘度のある液体をかき混ぜているような感触だった。そうしているとすぐに指先に何か硬い物が触れた。感覚で標準を合わせ二本の指でそれを掴んで、ゆっくりと引き抜く。するとずぶずぶっとした感触の後、先ほども見た、灯籠の形をしたわたしの【命の灯】が目の前に姿を現した。

『気ぃつけぇや。落として壊したら、運が良くても寿命が縮む。下手したら即死なんて事も有り得んねんで。とりあえず一旦、どっかそこらにでも置いて――』

  ―― ピピピピッ!

 それは突然だった。わたしに慎重さを呼び掛けるギンの言葉を途中から遮るようにして、何の前触れも無く、大きな電子音が室内に木霊したのだ。

 その瞬間、驚いたわたしの指が握り部分から外れた。力が抜けてしまったのだ。同時にマジックハンドの指の力も緩み、灯籠はするりと下へ抜け落ちる……

『くそっ!』

 ギンがチカの肩から目にも留まらぬ速さで床へと滑り落ちると、そのまま灯籠の落下地点へと飛び込んだ。灯籠は床に激突するすんでの所で、それをギンの身体で阻まれ、小さく摩擦の音を出しながら床を滑って、一メートルも行かない所で動きを止めた。火は揺らめいていたけど消えてはいないようだった。一見しただけだけど、骨組みにダメージがあったようには見えない。とりあえずわたしは即死を免れたらしい。寿命が縮まった思いはしたが、とりあえずほっと胸を撫で下ろした。

 しかし未だに鳴り止まない電子音。結構大きな音量だ。周囲をぐるりと見回すチカがすぐに音源を見付けた。それは死神のリュックサックの傍に在る携帯電話だった。彼女はそれを引っ掴んで開き、スイッチを切った。するとそれでようやく電子音が止まった。

『くそっ、このブタっ! 居眠りこいてるくせにふてぶてしくもアラームをセットしてやがったんか。しかもこの時間て、結構えぇ勘してんのがムカつくっ!』

 ギンが死神に向かって毒を吐いた。と――

 ぱちりと死神が目を開けた。この騒ぎで目覚めてしまったのだろう。しかしまだ完全には夢から覚めていないようで、しょぼしょぼとした半開きの目をしている。それでもわたしたちの存在に気付いたのか顔をこちらに向けた。そして何かを言おうとして、口を開いた……

  ――ッ!

 刹那、素早く懐に飛び込んだチカが、下からアッパー気味に掌底を死神の顎に食らわした。胡坐をかいたままの死神の身体が一瞬浮かび上がるかのように伸びると、次に彼は白目を向いて、そして糸の切れた操り人形のような動きで、顔から床――正確には空中だけど座っているためそう見える――へと崩れ落ちた。

「寝てろ」

 その一連の動きを見届けて、吐き捨てるようにチカは呟いた。そして次にわたしの方に向き直ると「今のうちです」と声を掛けた。

 わたしは急いで自分の灯籠に貼られた名札を剥がして、マイの灯籠に貼られた名札も剥がす。そして名札を交換してそれぞれに張り付けると、二つの名札は一瞬小さく光り、それが交換が成功した証だと分かった。

 ――途端に。いきなり手足が重くなった。同時に全身から力が抜けて、堪らずわたしはその場に崩れ落ちてしまった。

 ギンとチカが寄って来て、【死神の手】でわたしの灯籠を身体に戻してくれた。そして何かを言ったようだけど、自分の心臓の鼓動が大き過ぎてよく聞き取れなかった。耳鳴りもしていた。口で呼吸をしなければならないほど息が苦しく、目も霞んでいるようであまり良く見えない。辛うじてうつ伏せに倒れた事は判るけど、冷たい床の感触というものはあまり感じられなかった。

 でも自分の身に大変な事が起きているという事実は痛いほど感じられた。

『もう、寝とき。少しの辛抱やし……』

 ギンのそんな言葉が耳に届いた。だけど――

  ――わたしはここで死ぬわけにはいかない……

 歯を食いしばり、渾身の力でわたしは床に肘をついた。そしてマイの寝ているベッドの支柱を掴んで無理矢理に身体を起こして、立ち上がった。しかし手を離すとわたしの身体は風に吹かれた柳の枝のように、揺れた……

「何やっているのですか」

 チカがそれを抱きとめてくれた。小柄な彼女はふらついていたけど何とか持ち堪えた。おかげで再び床と熱い抱擁を交わさずに済んだ。

「大人しくしていて下さい、迷惑ですから」

 しかしその言葉にわたしは従うわけにはいかない。

「わたしはここに…居ちゃ…いけないんだ……」


                  ※


「――ごめん…なさい……」

「ごめんで済んだら警察はいらないのですよ、まったく」

 小柄のためか、半ば背負うような体勢になりながら肩を貸してくれて、わたしを引き摺るようにして病院の廊下を歩くチカ。彼女も苦しそうに口で呼吸をしていた。

「それにしても、どうして、あそこで死ぬわけにはいかないのですか?」

「……マイは勘が良いの。だから…あそこにわたしが倒れていたら…たぶん…自分の命が助かった事と…わたしの死との関連を疑う……。それにね、彼女とわたし…同じ男子の事が好きなの。でも、その男子は…彼女の事が好きで……だからわたしは邪魔者なんだよ。だけど…わたしは彼女も、彼の事も大好きだから…だから…余計に…この事を…知られるわけには…いかないの。彼女に…彼にだって…遠慮や…後ろめたい気持ちを抱かせちゃ…いけない。元々は…全てはわたしが…悪いんだから……。これは独善的で…薄っぺらい…わたしの…ちっぽけな最期の自尊心…ね……」

「確かにあなたが死んで、それで彼女が悲しむのなら、不幸になるというのなら、それは阻止しなければいけないかも、ですね」

『せやけどおまえ、いったい何処まで行きたいんや? もうほんまにヤバイねんで、正味の話』

 非常口から建物の外へ出たところで、わたしの頭の上に鎮座しているギンが呆れた声で尋ねて来た。

「…出来たら…実家の自分の部屋で…死ぬのが…一番…無難……」

『おまえの家って何処に在んの』

「 …市内…北区… 」

『阿呆か、間に合うわけないやろ。今から歩いて行ったら完全に夜が明けるわ』

「…途中で死んだら…そこで…捨てていって…」

 無様な女には無様な死が相応しい。今のわたしには尤もらしい死に様だと思った。

「馬鹿言わないで下さい。通り掛かった人とか……他の人が迷惑するでしょうが」

 確かにそれはそうだけど、それより他にどうすれば良いというの? こんな状態ではタクシーに乗れないし、そうなるともう、残る手段は、そこら辺の物陰か雑木林の中へでも放り込んで貰うくらいしかない……

『ちっ、あぁ、もう。しゃーないなぁ。おいチカ、うちの神社まで運べ。駐車場に車が有るはずや。そこからは俺がどうにかしたる』

「人使いが荒いですよ、ギン。ちょっとは手伝って下さいよ……」

『文句はおまえが背負ってるその馬鹿女に言えや。面倒な事言いやがって』

「 …ごめん…なさい… 」

「ちょっと、謝らないで下さいよ。下手したらそれが、あなたの最期の言葉になるかもしれないのですから。もっとマシな言葉を使って下さい……」

 そんな事言われても、マシな言葉って、何だろう――

 あぁ、そうか……

「 ……二人とも…わたしの我儘聞いてくれて…… 」

『ちっ…』と舌打ちしてギンは『しゃーないやろ、乗り掛かった船やねんから』と応えた。

「本当に、駐車場からはお願いしますよ、ギン……」とチカが呻くように言った。



 少しの後、やっとの事でわたしたちは保月神社へと辿り着いた。そして駐車場に入ると、チカはそこに在るベンチにわたしを仰向けに寝かせた。そして彼女とギンは駐車場内に停めてある乗用車に向かって歩き出す。チカはずいぶんと重い足取りだった。わたしはその様子を、顔は宙を向けたままで目玉だけを動かして見ていた。実はもう、身体は何処もほとんど動かせない。でもそれで良かった。もう必要ないのだ。後はギンが――どうやって運転するのかは分からないけど――車で家まで送ってくれるらしいから。家に帰り着いた時死んでいても、玄関先に投げ捨てておいてくれれば良い。家がアパートや高層マンションでなくて一戸建てで本当に良かったと思った。

 

 やがて話し声がして、その後で車のエンジンが掛かる音がしたようだった。

 わたしにはそちらに顔を向ける力も、確認出来る視力も、たぶんもう、無い……

 仰向けのまま見上げた夜空は真っ暗闇だった。純粋に真っ黒で、何も見えない。わたしにはたぶんこれがこの世で最後に見る景色となるだろう。でも不思議と何故か『悪くない』と想えた……

「ねぇ、マイ…… 」

 実際に声が出ていたかどうかは分からない。でもわたしはここに居ない――そしてもう二度と会えない親友に話しかけた。



「  …わたしにはやっぱり… 星なんて見えないよ……  」



                               《 終わり 》

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保月神社奇譚 【死神の手】 下原智 @simohara

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