絶対に触れてはいけない

飴。

バナナ



 私は今、窮地に立たされている。


 そう、"絶対に触れてはいけないバナナ"が食べたくてうずうずしているのだ。しかし、一度このバナナに触れてしまえば、二度とバナナが食べられない身体になってしまう。――何とかしなければ。


 どういうことかと言うと、我が家では謎のルールが存在するのだ。内容は、名前の書かれた食べ物には、その本人しか触れてはいけないというものである。一度破ってしまえば、私に落雷が降り注ぎ、最悪の場合お小遣いがもらえなくなることも有り得る。しかし、ついにこのルールに抵抗する時が来たようだ。


 そのバナナというのはもちろん、ただのバナナでは無い。新潟から取り寄せた、皮ごと食べられる超高級バナナだ。私のへそくりで何とか購入したのだが、留守にしていた隙に、妻と娘がバナナに名前を書いてしまった。


 せっかくの皮ごとだと言うのに、何も知らずに名前を書いたことは許せないが、まだ食べられる部分は残っている。私はこの程度の絶望で諦めるわけにはいかない。


 バナナは現在、ダイニングにあるテーブルの中央に、カゴと共に置かれている。妻はリビングに居て、そこは壁で仕切られていないため、常に監視状態にあると言える。娘は二階の自室で、彼氏と電話をしているので、ここでは考慮しない。神々しい光を放つ黄金のバナナが目の前にあるというのに、触れることすらできない。だが、私には秘策があるのだ。


 先程、近所の八百屋で買ってきたバナナがある。これに同じ名前を書いて、すり替えてしまえば、恐らくバレることは無い。ただ、この作戦には二つの問題点が存在する。


 一つ、妻がリビングのソファで横になっているということ。


 二つ、娘が美術をたしなんでおり、筆跡鑑定が可能ということ。


 この二つを何とかしなければ、バナナは彼女らの胃袋で、わけも分からずに消化されてしまう。――それだけは避けなければ。


 まずは妻をどうにかしよう。彼女は余程のことが無ければ、ここを動くことは無い。まさに不動明王である。例えば、何か用事を作り、外出させようとするのは不可能だ。今日は化粧をしていないから確実に家を出ない。それから、二階に誘い出すのも恐らく無理だろう。彼女が今横になっているソファは、重力が地球の十倍である。よって、私は強行に出ることにした。実は我が家には、なぜだか分からないが下剤が大量にある。これをジュースに混ぜて飲ませれば……。おぞましいが、これ以外に方法は無い。


 次に娘の筆跡だ。バナナに書かれているものを真似るとして、ただの手書きでは心もとない。だから私は八百屋へ行くついでに、カゴのバナナの写真を撮ってコンビニで印刷してきた。これで何度か練習してから書くことにしよう。


 私は二階の自室にこもり、禍々まがまがしい作戦の準備を整えるために下剤ジュースを作り、バナナに名前を書くことに成功した。


「すばらしい、これで完璧だ!」


 思わず声を上げてしまったが、娘が電話越しに彼氏とじゃれ合う声に掻き消されて、大事には至らなかった。


 私はさっそく「甘いジュースでも飲まない?」と言って、妻に下剤ジュースを渡した。彼女は喜んでそれを口にした。


「なにこれ、苦い!」


 漫画でよく下剤を混ぜているのを見ていたからいけると思ったが、これはまずい。何とか誤魔化さなければ……。


「あなた、これ何か入れたでしょ」


「あ、あぁ、実はな、青汁入りなんだよこれ」


「けどあなた、甘いジュースって言ったじゃない」


「そ、それはだな、びっくりさせようと思ったんだ」


「突然どうしたのよ。でもまぁ、せっかく起き上がったし、二階の物置部屋を片付けてくる」


「そうか、いつもありがとう」


 作戦は失敗したが目的は果たせたようだ。つまり第一関門突破である。さっそく私は黄金のバナナを手に取ろうとした。しかしその瞬間、娘が電話をしながらダイニングへ降りてくる音がした。ほんのわずかに指を動かせば、触れてしまうというところで、私は指先を固めた。もちろん触れてはいない。しかし、この体勢は言い逃れできない。


「あれ、もしかして触れようとしてた?」


 娘は悪魔のように微笑んだ。それはまるで死を彷彿ほうふつとさせる圧倒的な存在感による精神攻撃だ。私は無言で手を戻す。


「まぁ、触れてないならいいけどさ、もし触れたら……。どうなるか分かってるよね?」


「はい、分かっております」


 結果は完全敗北と言える。もう一方の手で八百屋のバナナを握っているところを見られてしまったからだ。もうこれは手の施しようがない。私は手を床に付いて、その場でひれ伏した。


 ……いや違う、まだだ。まだ終わりじゃない。私には奥の手が残されている。食べてしまおう。たとえこれが、私の最期となっても。


 私は床に付いた手を一度洗ってから、娘が目を離した隙に、勢いよくラストバナナへと手を伸ばした。


「これで……、ついに!」


 ……私はあることに気がついて手が止まった。そして、キッチンにあるビニール手袋を装着した。


 そうだ、のだ。


 口の中に広がる芳醇ほうじゅんな甘みと濃密な香りが、サクサクとした皮の食感と調和して、未知の感覚を引き立てている。これまでの苦労もあいまって、より一層幸せに包まれた。


 その後、我が家の謎ルールは改訂された。


"絶対に食べてはいけない"

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絶対に触れてはいけない 飴。 @Candy_3

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