天下無双のバイオリニストがケースから取り出したる名器を奏でれば魔物すらダンスする。人生は布団の中で計画的にリセットだ。

柴田 恭太朗

天下無双の小提琴弾き、行く手に敵はなし

 ゲッキョ、ゲッキョ、キョキョキョキョー

 時は吉宗様のご治世。松の並木に彩られた東海道に奇怪な音が響き渡った。


 音は街道を行く小兵の若侍が手にした平たいヒョウタン型の楽器から発せられている。いま楽器と書いたが、その音は到底音楽的なシロモノではなかった。


 ゲゲゲ、キョキョキョキョー

 小柄な若侍と行きすがる旅人たちは、みな気味悪そうに顔をしかめて街道の端を歩いた。それは侍に道を譲っているわけではない、わずかでも不快な音から遠ざかりたい一心からであった。


 ゲゲゲ……

 若侍が雑音を発している楽器はその名を小提琴あるいはバイオリンと言い、南蛮から渡来した宣教師より買い求めたものである。それはイタリアのクレモナで製作された由緒ある名器と弓からなる豪華なセットで、あがなうためには大量の小判を必要としたが、裕福な父親が払ってくれた。


 しかしその貴重な名品もいったん若侍の手に掛かると、奇怪な音を発する破邪の魔具となり下がるのである。


「フフフ、東海道を歩きながらバッハのパルティータを弾けるのは拙者ぐらいのものであろうな」

 一曲、いや一騒音をまき散らした若侍は、街道脇に立ち止まると丁寧にバイオリンセットをケースに収めた。


 破邪のバイオリンを手にした若侍は意を決し、天下無双のバイオリニストとなるべく修行の旅をしているのであった。



 箱根の山道にかかったところで、天下無双のバイオリニストをむさ苦しい男たちが取り囲んだ。名高い箱根の山賊である。


「ようにいちゃん、金目のものは全部置いていけ」

 現代語に直せばそのような意味合いのことを山賊が言った。これは令和の小説なのだからして、現代人が読みやすいように翻訳しておくのが作者としてのせめてもの心遣いである、おもてなしなのである。そういうことなのでよろしくね。


「私を天下無双のバイオリニストと知っての狼藉か」

 山賊に取り囲まれた若侍は勇気を奮い立てて言った。ただし震える小声で。


「あ? 聞こえねーよ」

 若侍の虚勢はヤカラには通用しなかった。その男は山賊のリーダーと見える、最も凶悪な人相をした男だった。


 ならば目にもの見せてくれるとばかりに若侍は背負った南蛮渡来のケースを下ろし、美しく琥珀色に輝くバイオリンを取りいだした。

 背の低い若侍は不器用に楽器を構えると、おもむろに弦の上に弓をすべらせ奏で始める。


 破邪の魔具の威力はすさまじかった。


 ゲッキョ、ゲッキョ、キョキョキョキョー


 箱根の山道に神経を逆なでる騒音が轟く。それはまるで無数のホエザルが立てる敵意に満ちた雄叫びのようであった。


「うわら、げぼげぼ」

 若侍を囲んでいた屈強な箱根の山賊がわっと飛びすさった。あるものは耳を押さえ、あるものは盛大に吐いた。


「どうだ、バッハの名曲ブーレだ。恐れ入ったか」

 天下無双の若侍は胸を張った。もしバッハが彼の言葉を聞いたなら、涙ながらに否定したに違いない、『私の曲を冒涜するのはやめてくれ』と。


「ハハハ、感動のあまり腰が抜けたか。私のバイオリンはすごいだろう」

 若侍はひるんだ山賊たちの様子を見て、いや誤解して、満足気にうなずいた。


「山賊の君らも知っておくといい、ブーレとは元々宮廷で舞われたダンス曲で……」

 滔々と曲の解説を始めた若侍の異常さに気づき、恐れ知らずの山賊どもが初めて怯えた。


「こいつマジでイカれてる」

 そう吐き捨てると山賊の頭目がふらつく足取りでその場から逃げ出し、リーダーの姿を見た手下たちも我先にと逃げ去った。



 かくして無事に箱根越えを終えた若侍。宿場につくと、彼はすぐさま部屋に敷かれた布団にもぐりこんだ。


 布団の中、それが彼が毎日計画デイリープランの締めくくりに行う大切なルーチンの場であった。


 若侍は布団の中で腹ばいになり、日記帳と筆を取り出した。


――我、箱根の山中で百名を超える山賊と出くわしたり。

 彼は手馴れた手つきで書き記してゆく。内容が事実と違って大幅に盛られているのはいつものことである。


――さしもの賊らも我が奏でる妙なるブーレでダンスを踊りたり。クレモナの名器の響きにみな嬉し涙を流し、アンコオルを願いたり。アンコオルとは仏蘭西の言葉で再演のことを意味するなり。かくなることまで知りたる我の知識に底なしと思えば、げに恐るべし。


 書いた文章を読み直し、若侍は満足げに鼻息を荒げた。


 彼が天下無双のバイオリニストとなった暁には、この日記を出版して世に広めなければならない。そのために日々の記録を残し、会話の中で名言を発したなら語録として書き留めておくこと、それが彼の義務だと信じている。

 たとえ人から誇大妄想であるとか、ナルシストであるとか後ろ指をさされようと。


 その日の行動を都合良くリセットし終えた若侍は、あたたかな布団に包まれ眠りについた。ときおりうっすらと笑みを浮かべるのは、夢の中でバイオリンを操り、魔物にダンスをさせているからかもしれない。きっと、そうだ。


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天下無双のバイオリニストがケースから取り出したる名器を奏でれば魔物すらダンスする。人生は布団の中で計画的にリセットだ。 柴田 恭太朗 @sofia_2020

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