魚になる

尾八原ジュージ

魚になる

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。

 海の夢だ。くすんだ色の波打ち際をひとりで歩く。遠い水平線の向こうに、ぼやけたオレンジ色の大きな夕日が沈んでいく。やがて辺りは真っ暗になる。どうしてかとても寂しくなる。

 胸の中が冷たくなって、わたしは目を覚ます。すると隣のベッドの上で、恋人がまた少し魚になりかけている。


 どういう理屈かわからないけれど、わたしがあの夢を見ると、恋人は魚に近づくらしい。

 最初は鱗がほんの数枚、太腿に生えただけだった。でも夢を見るごとにそれは増えていき、今では両足の腿から下のほとんどが、銀色の鱗で覆われている。二本の脚は先端の方でくっついて、人魚みたいな尾びれが生え始めている。歩行がひどく困難になったので、恋人は勤めていた会社を辞め、家でひっそりと過ごすようになった。

 たまにわたしが休日に長時間眠ったりすると、恋人の魚化はいつもより進む。どうやらわたしが夢を見ている時間が長ければ長いほど、より魚に近づくようだ。

 恋人はだからと言って、わたしに「眠るな」などとは言わない。どうやら、魚になることに対してまったく抵抗がないらしい。

「自分が大きな魚になることを考えると、不思議と安らかな気分になるよ。そのうち完全に魚になったら、海に連れてってほしいな」

 そうだね、それがいい。わたしは恋人と約束した。人間大の大きな魚が、こんな小さなアパートで暮らしていけるはずがない。別れることは寂しいけれど、そうなったらあなたは海へ行くべきなのだ。そう思った。


 ある日わたしは事故に出くわし、頭を打って病院に運ばれ、そのまま何ヶ月も眠り続けた。

 あの夢を見た。水平線の向こうに大きな夕日が沈み、暗い夜が来る。夢はなかなか覚めない。わたしは寂しくて、胸の中がしんしんと冷たくなって、波打ち際で膝を抱えて泣く。夜は明けない。

 やがて、ようやく空が明るくなってきたと思ったころ、ざし、ざし、と砂浜を踏んで、恋人が――魚化する前の人間の姿の恋人が、わたしのところに歩いてくる。

「よく眠ったね」

 恋人は優しくそう言って、泣いていたわたしの頭をなでる。

 わたしはようやく目を覚ました。視線の先に見慣れない白い天井があって、点滴の袋がぶら下がっていて、ここは病院なのだとわかった。少しすると医師や看護師が何人か現れて、わたしが長いこと眠っていたと教えてくれた。

「わたしが住んでいた部屋は? 大きな魚はいませんか?」

 必死でそう尋ねると、ややあって住んでいたアパートの大家が駆けつけてくれた。

 大家によれば、なんでもわたしが事故に遭ってから半月ほど経ったころ、部屋から異臭がすると近隣から苦情があったらしい。警察立ち合いのもとで大家がドアを開けると、リビングで大きな銀色の魚が死んでいたそうだ。

 きっとわたしが意識を失っている間に、恋人の魚化は完全なものとなったのだ。だが、うっかりリビングで完全な魚になってしまったために、呼吸も移動もできなくなり、その場で死んでしまったのではないか。だとすればなんて苦しく、寂しい死に方をさせてしまったのか。

 わたしは泣いて、泣きつかれて、もう一度眠ってしまった。


 夢の中で、くすんだ色の砂浜を歩いた。ぼやけた色の大きな夕日が水平線の向こうに沈んでいく。

 そのとき沖の方で、大きな銀色の魚が一匹、まるでこちらに手を振るように高く跳ねた。

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