神様、あと一球だけ。

日向風

神様、あと一球だけ。



佐藤翔太はエースだった。

幼い頃から夢見た甲子園。その舞台に立つため、誰よりも白球に魂を込めてきた。だが、高校二年の秋、過酷な練習の果てに肩は悲鳴を上げた。医者の言葉は冷たく、無情だった。


「もう投げられないかもしれない」


絶望に打ちひしがれ、夜のグラウンドで一人涙を流したあの夜——。翔太の前に、ふいに神様が現れた。

「君の肩を治してあげよう。ただし、どれだけ持つかはわからない。それでもいいか?」

迷いはなかった。夢を諦めるくらいなら、どんな代償でも受け入れる覚悟だった。


そして、迎えた夏。


地方大会決勝戦。決勝戦のマウンドに翔太は立っていた。翔太の高校は1-0でリードし、九回裏を迎えていた。

1アウト。鋭いスライダーで三振を奪う。

2アウト。ショートゴロで仕留める。


マウンドに立つ翔太の耳には、スタンドからの歓声が波のように押し寄せていた。

汗に濡れたユニフォームが体に張り付き、グラブを握る手にじっとりと汗が滲む。

あと一人。夢の扉が開く——。


だが、その瞬間。


右肩に鋭い痛みが走った。


まるで糸が切れたかのように、腕に力が入らない。ボールを握る指先が震え、冷や汗が背中を伝う。

「まさか…今なのか?」


神様の声が脳裏に響く。


『どれだけ持つかはわからない』


こんな大事な場面で訪れるなんて、運命があまりにも残酷すぎた。


制球が乱れ、四球。

次の打者にレフト前ヒットを許し、さらに死球で満塁に。

逆転の危機が迫る。

肩は鉛のように重く、もはや自分の体ではないようだった。


ベンチから監督の伝令が届く。

「お前のおかげでここまで来れた。お前が行くと決めるなら、俺は最後まで見守る」


翔太は頷き、深呼吸する。

次の打者は4番。この大会だけで4本のホームランを叩き込んでいるスラッガーだ。


一球目、ボール。

ワンバウンド。キャッチャーが必死に止める。


二球目、ボール。

外角に大きく逸れ、スタンドからため息が漏れる。


三球目、ボール。

制球が定まらない。観客がざわつく。


四球目、ストライク。

バッターが見逃し、キャッチャーが大きく頷いた。


五球目、ファール。

ボールがライトポールを切ってスタンドへ消え、観客がどよめく。


カウント3ボール2ストライク。フルカウント。


スタンドが水を打ったように静まり返る。誰もが息を呑み、運命の一球を待っていた。


翔太は目を閉じる。


「神様…お願いだ。あと一球だけ…」


ゆっくりと目を開ける。ボールを握る指に、わずかに力が宿る。

セットポジションに入り、最後の力を振り絞って腕を振り抜いた。


その瞬間——。


放たれたボールは、これまでに見たことのない鋭い軌道を描いていた。

壊れる前の全盛期を超え、魂そのものが宿ったかのような一球。

白い軌跡が、バッターへ向かって一直線に伸びていく。



スタンドが歓声に包まれた。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神様、あと一球だけ。 日向風 @kailuka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説