地獄の底で邂逅(あ)いましょう

音夢音夢

地獄の底で邂逅(あ)いましょう

 その死を知らされたのは、今日の昼過ぎのことだった。

 屋根の上にふわりと腰掛け、紅い酒杯を傾けて、ひとりのあやかしが月を眺める。

 人の姿をとっている彼女が身に纏う衣は折り重なって、泣いているとも笑っているともつかない音をさらさらと口ずさんだ。


 玉藻前。


 この後しばらくして帝を傾け、都を揺るがし、日本三大悪妖怪に名を連ねることになる狐の化生けしょうだ。

 しかし、黙って夜空を見上げるその姿は、切ないような穏やかな眼差しは、その悪名とはほど遠い。

 とぷりと盃を満たす酒に、曖昧に欠けた月が映っている。

 ゆらり、揺れて、丸い波間に輪郭がぼやけた。

「そうか、……死んだか」

 言葉の重みとは裏腹に、その声は簡単そうに言った。

 酒をひとくち。こくんと小さく喉を鳴らす。

 たった一人。

 本当に心の底から、惹かれてしまった人間だ。

 世界が美しいと思ってしまったのは、知ってしまったのはあいつのせいだ。

 いっぱいにそそがれていた酒は、どんどん少なくなっていく。どこかで、木枝がこすれる音がする。

 寂しいはずなのに、淋しくなかった。

 なぜだかそう遠くない未来に、またあえる気がしていた。

「さて、わらわは地獄へくだろうが、あいつはどうじゃ?」

 大罪を背負った己とは違い、あれは人を殺してはいない。だが、人はその名に随分と怯え、都が震撼したものだと聞いている。

 地獄にはいかないだろうが、かといって天に昇る器でもないだろう。

「どこまでも難儀な奴じゃな、あいつは。もっと自由に適当に生きられぬものか」

 しかし、天性が狐であり感情であり霊である自分と違って、あいつは元々人間だ。大らかに臨機応変に生きるといっても、限度があるだろう。

 唇の桜が、濡れる。

 空になった酒杯は、からんと軽やかな音とともに脇に置かれた。


 別に、最期など知ろうとは思わない。

 自分が見るべきは死の瞬間ではなく、もっと別のなにかだ。

 それに話を聞いている限り、あいつの最期には、一番見届けるべき相手が立ち会ったらしい。

 なら、こっちはそれでいい。

 人から聞かずとも、笑って逝ったのだろうとわかる。周りがどれだけ惜しみ悲しんでも、涙を流しても、それでもあいつは微笑むのだろう。

 後悔などするような性格でもない。

 あいつは一番守りたいものを守り抜いた。

 それを、わかっている。知っている。

 だからそれでいい。

 ただ、それだけでいい。


 それでも。


 玉藻前は息をつくと、酒をつぎなおした。

 ゆらゆら、ゆらゆら、一杯分の丸い鏡が強い匂いとともに揺れ動く。

 呑み干そうとして、透明なそれに映り込んだ自分の顔に、思わず動きを止める。

 ふっと、唇がゆるんだ。

 笑うつもりだったのに、上手にできなかった。

 自分の思うように笑顔が作れないなんて、あいつと出会ってから初めて知った感覚だ。

「――なんじゃ、この顔は」

 もういっそのこと、この酷い表情ごとはらの中におさめてやろう。よし、そうしよう。

 むくむく浮かんだ思いにまかせて、ぐいっと勢いよく盃を傾ける。月が綺麗だ。死ぬほど綺麗だ。

――なあ玉藻前、さてはおぬし

 玉藻前は肚にとけた自分に向かって、心のなかで微笑んだ。

 ☓☓のことが、大好きじゃな?


 またあえる。きっとすぐに、あと二、三百年もしないうちに。

 それまで、



「おやすみ」

 長く短く長い生涯に帷を下ろした、その魂に向けて。

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