私のアイドル

えもやん

第1話


 教室の窓際、三列目の席。そこに彼女が座っている。

 彼女の名前は佐倉花音さくらかのん。同じクラスだけど、話したことはない。


 いや、正確に言えば、話しかける勇気がない。


 彼女はいつもどこか遠くを見ているような目をしていて、話しかける隙なんてないのだ。クラスの中で、彼女と親しい人はほとんどいない。


 だけど、誰も彼女を孤独だとは思わない。


 彼女はその存在だけで周囲を圧倒している。誰もが「佐倉花音」という名前を知っていて、それだけで彼女は特別だった。


 彼女はクラスの「アイドル」だ。ただし、明るくて、誰からも愛されるような、いわゆる学園のアイドルではない。


 彼女はどこか冷たく、近寄りがたい。それなのに目が離せない。彼女の放つ特別な何かが、周囲の人間を引きつけてやまないのだ。


 ***


「お前、佐倉さんのこと好きなんだろ?」


 昼休み、親友の翔太にそう言われて、俺は思わず机に突っ伏した。


「……バカ、声がでかい」


「図星かよ。いや、わかるけどなー。あの顔、あの雰囲気、そりゃ惚れるわ。もう完全に高嶺の花って感じだし」


 翔太の言葉に、俺は何も言い返せなかった。確かに、佐倉花音は高嶺の花だ。彼女に恋をしたところで、自分とは住む世界が違う。そう思っているから、俺は彼女をただ遠くから見ているだけだった。


 でも、俺は知っている。彼女が時々見せる、ほんの少しの弱さを。


 昼休み、教室で一人本を読んでいる彼女。窓から差し込む光を受けて、その横顔はまるで絵画のように美しい。


 その時ふと、彼女が本を閉じて窓の外を見つめた。表情はいつもと同じ、無表情に見える。でも、ほんの一瞬だけ、彼女が寂しそうに目を伏せるのを、俺は見逃さなかった。


 俺はその瞬間に気づいたんだ。彼女は完璧なんかじゃない。彼女だって、俺たちと同じように、不安や孤独を抱えているんだって。


 ***


 放課後、俺は思い切って彼女に話しかけた。


「佐倉さん……」


 彼女は机に座ったまま、ゆっくりと顔を上げた。その目が俺をとらえる。冷たくて透き通った瞳。でもその奥に、確かに何かが宿っているのを感じた。


「何?」


 その声は意外なくらいあっさりとしていた。俺は一瞬言葉を失ったけれど、それでもなんとか続けた。


「えっと、今日の数学の宿題、わからないところがあって……教えてくれないかな?」


 嘘だ。本当は宿題なんて、もうとっくに終わらせていた。でも、何かきっかけが欲しかったのだ。彼女と話すための、ほんの些細な理由が。


 彼女は少しだけ眉をひそめたけれど、すぐに「いいよ」と言って自分のノートを広げた。


 それからの時間は、夢のようだった。彼女の声が、俺だけに向けられている。彼女の指が、ノートの上を滑りながら説明をしてくれる。俺は彼女の言葉一つ一つを、必死に心に刻んだ。


 ***


 それから俺たちは、少しずつ話すようになった。


 といっても、頻繁に話すわけではない。彼女は相変わらず一人でいることが多いし、俺も彼女に話しかけるのに勇気がいる。でも、それでも少しずつ、彼女との距離は縮まっているように思えた。


 ある日の放課後、俺は思い切って聞いてみた。


「佐倉さんって、どうしていつも一人なの?」


 彼女は少し驚いたように目を見開いた。でもすぐに、いつもの無表情に戻る。


「……別に。そういうのが楽だから」


「楽?」


「群れるのが嫌いなの。無駄に気を遣ったり、期待されたりするのが面倒くさいから」


 そう言う彼女の声には、ほんの少しだけ、棘が混じっていた。


「でもさ……寂しくないの?」


 俺の言葉に、彼女は一瞬だけ黙った。そして、ふっと小さく笑った。


「寂しいよ。……でも、それも慣れた」


 その笑顔は、とても悲しそうだった。


 ***


 それから少しして、彼女が学校を休むようになった。最初は風邪かな、と思ったけれど、何日経っても彼女は戻ってこない。俺は心配でたまらなかったけれど、彼女の家を訪ねる勇気もない。ただただ、彼女の席が空っぽのままなのを見つめる日々が続いた。


 ある日、担任の先生が言った。


「佐倉さん、転校することになりました」


 その言葉に、俺の頭は真っ白になった。どうして? 何も聞いていない。何も知らない。気づけば俺は、教室を飛び出していた。


 彼女が転校するなんて、そんなの嫌だ。俺は彼女に伝えたいことが、まだ何一つ伝えられていない。


 ***


 結局、彼女と会うことはできなかった。転校の理由もわからないまま、彼女はどこか遠くへ行ってしまった。


 それでも、俺は彼女のことを忘れない。彼女は俺にとって、特別な存在だった。彼女の横顔、彼女の声、彼女の寂しげな笑顔。それら全てが、俺の中で輝き続けている。


 彼女は俺の「アイドル」だった。手の届かない存在。でも、心の中でずっと輝き続ける存在。


 きっとこれから先も、俺は彼女を思い出すだろう。そしてそのたびに、俺は彼女に会えたことに感謝するだろう。


「ありがとう、佐倉さん」


 そうつぶやいて、俺は空を見上げた。


 彼女がどこかで笑っていますように。

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私のアイドル えもやん @asahi0124

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