クレオパトラの夢

如月姫蝶

クレオパトラの夢

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 ピンクのリボンを頭に乗っけた女子が、俺の目の前に立っていた。

 彼女は、同じようなピンクのリボンで飾った小箱を、笑顔で俺へと差し出したのだ。

「手作りしたバレンタインチョコなの。食べてくれると嬉しいな」

 その刹那、小学二年生だった俺の脳みそこそが、ドロドロに溶けたチョコレートと化した。

 だから、彼女が、「パティシエになるのが夢だから、クラスの男子全員に作ったの」と言ったことなんて、耳に入らなかった。

 宝物のようなピンクのリボンの小箱は、ところが、俺の手に渡った直後に、誰かにひったくられた。

「ちょっと! 学校内ではバレンタイン禁止でしょ!」

 真面目な学級委員長たる眼鏡女子が、ルールをがなり立てながらチョコを取り上げたのだ。


 次の瞬間、委員長は、包み紙はおろか小箱本体まで、バリバリと歯で食い破ると、中身のチョコレートに齧りついたではないか!

 真面目の極北のごとき彼女の性格とはかけ離れた奇行だった。


「たっくん、『いのちだいじに』だよ。あたしはジーコだよ……」

 委員長は、俺の耳元でそう囁くと、全力疾走でその場から姿を消したのだった。


 緊急の保護者会が開催されたのは、その日の夜遅くのことだった。

 パティシエの卵から貰ったチョコを食べた男子たちの何人かが、昏睡状態に陥って入院してしまったのだ。

 やがて、警察は、パティシエの卵の母親を逮捕した。彼女は、離婚調停が遅々として進まぬことに腹を立て、メンタルクリニックで処方された薬剤を、発作的に娘の手作りチョコに混入したというのである。


 だが、俺にとって何より衝撃的だったのは、現場で委員長のとった行動が、俺の記憶と大きく食い違っていたことだった。

 彼女は、パティシエの卵に口頭で注意をしたが、チョコレートを奪っても食べてもいない。

 委員長自身だけでなく、パティシエの卵も、居合わせた同級生たちも、異口同音にそう証言した。

 そして、「ジーコなんて知らない」と言うのである……


 この一件で、死者が出なかったのは不幸中の幸いだろう。俺は、チョコを食べなかったから、当然無事。けれど、委員長に取り上げられなかったとしたなら、手元に残っているはずのチョコは、まったくの行方不明で見つからなかったのである。以上が、3回目の「あの夢」だ。


 パティシエの卵は、親戚に引き取られて遠方に引っ越してしまったから、俺が一瞬燃やした恋の炎は、儚く消えてしまったのである。


「あの夢」の1回目は、幼稚園児の頃、海水浴の時——

 海に浮かんで、ビキニの美女に見とれていたら、突然足が攣ったうえに、浮き輪から体がすっぽ抜けてしまい、あわや溺れそうになった。

 すかさず助けてくれたライフセーバーもなかなかの美女だったが、俺を抱き上げ、やはり言ったのだ。「たっくん、『いのちだいじに』だよ。あたしはジーコだよ……」と。

 しかし、駆けつけて恐縮する両親の前で俺が問い質したところ、そんな発言をした覚えはないと、俺に受診を勧める始末だった。


 女をきっかけに危機に陥るが、ジーコを名乗る女に助けられる。しかし、俺の記憶と周囲の証言の間に、明らかな相違点が存在する、白昼夢のごとき体験——それを俺は、密かに「あの夢」と呼ぶようになっていた。


 中学生の頃、両親の帰りが遅いのをいいことに、推しのアイドルが出演する、テレビの歌番組を一人で見ていたことがある。

 すると突然、テレビ画面の推しと目が合ったのだ。彼女は叫んだ。

「たっくん、ジーコだよ! テーブルの下に隠れて!」

 その直後、実に、震度6の震災に襲われた。

 ちょうど俺が座っていた辺りに、照明器具が落下して、派手に割れた。

 咄嗟に推しの言葉に従ったから、物損はともかく、俺自身は怪我一つせずに済んだのである。

 しかし、震災後にいくら調べても、俺の推しが、全国放送の歌番組の中で、そんなイレギュラーな発言をしたという形跡は見つからなかった。これが6回目である。


 年齢が上がるにつれて、あの夢の頻度は少しずつ減っていった。とはいえ、俺は、ジーコに命を救われ続けたのである。


 ジーコという名に、心当たりならある。

 俺が幼稚園児の頃まで飼っていた猫の名前だ。

 雌のキジトラで、左右の目尻から頬に向かって伸びる、くっきりと黒い線状の模様が綺麗だった。いわゆる「クレオパトラライン」というやつだ。

 ただ、幼稚園に入って、ゲームで遊ぶことを覚えた俺は、ジーコの世話を面倒だと感じるようになった。ペットを飼えないマンションへと引っ越すために、お隣さんにジーコを譲って以来、会いに行ったこともないのだった。




「直美」と書いて、「ちょくび」と読む。

 医師免許を取得した後、必要最低限の研修を終えた途端に、美容医療の世界へと直行する医師のことを指す隠語のようなものだ。

 人の命を預るよりも、美を追求する金持ちどもに奉仕したほうが、よほど高収入が望めるのである。


 容姿にも運動神経にも恵まれなかった俺は、女にもてたい一心で、勉学に励んで、医師となり、直美したのである。


「先生、素敵なディナーをありがとう」

 俺の隣で、女優が言った。

 メスを入れてまだ日の浅いその美貌は、いささか人工物めいてはいたが、まさにクレオパトラのようだと、執刀した俺は自画自賛したくなった。

 本日、クリニックで診察を終えた後、俺の隠れ家的な店で、ディナーを共にした。

 その後、女優の愛車であるフェラーリを、素面である俺が運転しているのだ。

「あたしはワインを楽しむから、先生が運転手ね」

 女優のそんなわがままも、その美貌の前では、二つ返事で引き受けてしまった。


「先生、家で飲み直したいわ。秘蔵のワインをご一緒しない?」

 女優は、俺に流し目したのである。


 俺は、女優の住むタワマン目掛けて、アクセルを踏み込んだ。

 断るほど馬鹿ではないのである。


「あら? 先生、今、何か轢かなかった?」

 女優が、眉根を寄せた。そんな表情も悩ましい。


「気のせいだろ、轢いてない」

 俺の声は掠れた。


 実は轢いた。たぶん猫だ。車道なんぞにうずくまっていたのが悪いんだ。

 女優の気分が醒めないうちに、マンションまで急がなければ……


 俺の注意が運転からそれたその刹那、眩い光と、けたたましいクラクションの音が、前方から急接近したのである……


 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 意識が朦朧とした状態で、俺は、患者として、手術室へと運び込まれたのである。


 執刀医らしき女と目が合った。医学生時代に同期だった女じゃないか……


「あーあ、ジーコ死んじゃった。猫は命を九つ持つけれど、たっくんのせいで、ぜーんぶ使い切っちゃった。ジーコを轢いてすぐに車を停めてれば、あんな事故に遭わずに済んだのになー」


 まさかの執刀医が、ジーコとして語り始めた。今回も助けてくれるんだよな?


「泥棒猫の女優はスクラップになっちゃったから、この女に憑依してみたけど、ジーコ、手術の仕方なんて、わっかんなーい!」


……なんだと……


 麻酔をかけられたせいなのか、俺の意識は、そこで途絶えた。

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