ハル泥棒

紅野レプリカ

ハル泥棒

ハルの一欠片をあなたに喩えます


春。一年の始まりに似合う季節。別れの季節。出会いの季節。新生活の時期。そのイメージカラーは桜色だろうか。

 不安と高揚で活気づく街。新しい制服に身を包む子とその横で微笑む親。全身スーツに身を包み、不安を顔に出している新社会人。

 その街並みを俺は今歩道橋の上から見下ろしている。

 鮮やかに春を帯びている街は冬の終わりを知らせているようで、どこか心を掴まれ感覚に襲われる。

「今年も…」

 そう呟いた。


 俺は春が苦手だ。

 俺がまだ純粋で外を駆け回っていた頃は何も考えずに、街が春の色に包まれていくことに心を躍らせていたが、歳をとるにつれ春を楽しむ心もいつのまにか歳をとり亡くなっていった。

 そんなことを考えていると歩道橋の斜め左下を歩く小学生が目に入った。桜並木を闊歩して歩く小学生が昔の自分と照らし合わされ、思わず顔を右に逸らした。理由はわからなかった。

 顔を逸らしたことで、右手首についている腕時計の文字盤が目に入った。あなたの真似をして右腕につけている腕時計。四十分ほどここにいたことがわかった。

 朝も終わりに差し掛かろうとしている時間帯になり、下のセカイへ戻ることにした。階段を一段一段降りていると一段一段と気持ちも落ちていくように感じた。地面に両足がついた。今まで上から見ていた景色は華やかで息がしやすかったが、たった数メートル下がるだけでここまでセカイが変わるものなのかとさっきまでの気持ちが悄然とした。

 数秒立ち止まった後、湧いた気持ちも置き去るように足早に歩き出した。

 地面はほとんど桜の花びらで埋め尽くされいて、朝の人通りの多い時間が過ぎたせいか、落ちている桜の薄いピンク色の花びらは何度も踏まれ、悲観的な景色と化していた。それとは逆に桜並木の景色は綺麗だった。目線より上と下とでここまでセカイが変わるのか…そんなことを考えた。

 朝と比べると人通りがひと段落した街を歩いた。落ちている花びらは無惨といえど俺にとっては美しい花びらそのものと変わらない。歩くことさえ億劫になるが踏まぬよう枚数の少ない点字ブロックの上を歩く。しかしながら数枚は踏んでしまうという現実に僻んでいると、一人で膝を曲げて地面にカメラを向けている人が目に映った。後ろ姿だけでは少し白髪混じりの髪しか見えず六十代くらいだろうと予想しながら隣を通り過ぎようとした。何を撮っているのか目線だけで確認しようとした時、「おい」男はそう言い、そのままカメラを地面に向けながら話しかけてきた。

「君は桜の花びらを踏まぬようにわざとそんな歩き方で歩いているのか?」

 点字ブロックの上を花びらを踏まぬように歩いていたせいか、側から見れば変な歩き方になっていたらしい。そんな俺に向けて男はそう言った。

「いやそういうわけでは…ただなぜか平気で上を歩くことができなくて」

 最近の自分の中の葛藤を言葉にし、俺はそう返した。

「君は春が好きか」

 突然の質問に思わず困惑した。今さっきまで早くここを立ち去ることばかり考えていたが、気づけばその質問に答えないと前へ進めないゲームのようにその場から離れることができなくなっていた。

 目を逸らし、ほんの少し考えた後

「いえ。嫌い…どちらかというと苦手です」

 と言葉を詰まらせつつ返した。

「『春が苦手』か…分からんでもないな」

 驚いた。さっきまで目線の先にいる男の左横を見ていたが、その瞬間目線を右へ移した。

 今まで春が苦手と言い否定されてたことばかりだったからこそ共感されて心が揺らいだ。

「それで、君が春を苦手だと思う理由はなんだ」

 今まで何回も聞いてきた問いだ。その度に「なんとなく」とはぐらかしていた。どうせ言ったって意味ないからだ。でも、なぜかこの人には言っていいような気がした。俺は二歩先にある桜の木のそばに行き、背中を木につけしゃがんだ。男の目はカメラを覗いていたが、そのまま目線をカメラのレンズと同じ方向の向け口を開いた。

「春が来るたびに感じてしまうんです。また一年変われなかったって。毎日僕なりに頑張っているつもりで、成長しているつもりなのに春が来るたびに何も変わってないと感じてしまうんです」

 男はカメラから目を離さず「続けてくれ」そう言った。随分と投げやりな感じがしたが、話し始めた以上、止めることは考えなかった。

「春って一年の始まりで新が多いじゃないですか。そんな季節だからこそ何者かにならないといけない、なっていないといけないと思ってしまって、春が来るたびに苦しくなるんです。春さえ来なければと考えてしまうこともあるのですが、そしたら春のせいにする僕自身が嫌いになりそうで。春のことはもっと嫌いになりそうで…、もし嫌いになったら春を美しいと感じる心も亡くなりそうで、今はそれがただ怖いんです」

 ずっと隠し続けてきた思いを口にした。すると男はカメラから目を離した。

「そうか、逆だな。私は春が美しいとは思わない。でも春は好きなんだ」

 男は無表情のままカメラのボタンを数回押した後「これを見てくれ」と言い、画面の写真を見せてきた。

「これでも春が美しいと思うのか?」

 それは無惨に踏まれた桜の花びらだった。

「君はこれさえも美しいと言っている。しかしどうしても私には理解できない。でも見てくれ、視界を上げるとこんなにも綺麗だ。私はその二面性が好きでね。まるで人のようだ。人って別に美しくはないだろ。どんなに綺麗に見えても、その裏にはたくさんの傷がついてたりする」

 その言葉を聞き、素直に思ったことを口にしてみることにした。

「春が美しくないと聞いたのは、あなたが初めてです。人って春を無条件で美しいと思うか、美しい部分しか見ないかのどっちかだと思っていて。前者も後者も美しいと感じるのには変わりないのですが、でもそれが全てではないと思って、美しくないと思うのもまた一興で、でも美しいと思わないと時代に置いて行かれているような感じがして、勝手に美しいと感じてしまいます」

「君は大事なことを忘れてはないか」

 男は曇り気味の俺の顔を澄んだ目で見てきた。

「春が美しいってのもその時代を生きた人たちの主観でしかないんだよ。善悪を人が決めたように、春が美しいってのも人が決めた。だからこそ誰が見るかどの方向から見るかによって全く違う見方になったりする。でも全体像で見ると毎年春って変わらないよな。同じように桜が咲いて同じように散っていく。君は最初『自分が何も変わらない』と言ったが、それは変わってる証拠だと思うがな」

 俺はこの男が何を言っているか理解できなかった。

「一年前と比べて変わってなければそれは変わってないじゃないですか」

 俺はそうぶっきらぼうに言い放った。すると男は俺の厳しめな口調とは裏腹に桜の花びらが落ちると同時にその速さで話始めた。

「変わらないってのは言い換えれば現状維持だ。現状維持ってのは毎日変化も成長もない生活だと思いがちだが、それは一日一日成長してやっとできるんだ。人生って川みたいなものでね、私たちは常に楽な方へ流れる川の上にいる。何もしなければ楽な方に流され、流れ着いた場所には何もない。だからこそ、その場にとどまるには流れに逆らって進まないといけない。そうやって流れの逆方向に進むことでやっと現状維持ができるんだ」

 俺はその話を聞いた瞬間、掴まれていた心が徐々に離されていくのを感じた。

「毎年同じ春を感じるのは毎年頑張ってるって証拠だからな、これからは春を感じるたびに思うといい。また一年頑張ったって」

 そう言って男は俺の方を見ずに立ち上がった。

「さらに春の感じ方が変わったなら教えてくれ、それは君がさらに成長したってことだから」

そう言いこの場を去ろうと歩み出した。俺は最後にずっと気になっていた質問を男の背中越しに投げた。

「どうしてずっと地面にカメラを向けていたのですか」

すると男は足を止め、体を半分傾け、俺と彼の間の桜道に目を向け話始めた。

「君にとっては美しい桜だが、私にとってはそうではない。私にとっての美しい春はこの目線より上の春だ。でもそれを撮っても面白くないだろ。私がこの目線より下の春を美しいと思えるようになったらそれは成長したことだと思って、毎年変わらない春を撮っていたんだ」

 そう男は目の前にある桜の木に目線を移して言い切った。

 その後男は俺に澄んだ顔で頭を下げ、その先にある桜並木に染まっていった。

 一人になった俺は立ち上がり腕時計を見ようとしたが、まるで時間を気にするなと言わんばかりに桜の花びらが一枚文字盤に重なった。見上げれば桜の花の隙間からハルが覗いていた。

 心がハルになった俺は行く当てもなくただ歩き始めた。いつかハルオトルから。

 来年も春が来る。今この瞬間がある限りずっと。


   *


春を盗りにきた もう一度あの頃に戻りたくて もう二度とあの頃に戻れなくて

晴るを撮りに来た 上の景色が明るすぎて 下の景色が暗すぎて

桜が散るころあなたはどこにいますか

あと何回春がきたら君を忘れられますか

桜の葉がゆらゆらと落ちて

言の葉がゆらゆらと揺らいで

あなたは舞っている桜の葉のように掴むことができない

掴もうと必死に手を伸ばしてもひらりと逃げる

春が嫌いと言った君は笑顔だった

桜の葉はいつか地面に追いつくけど

僕はあなたに追いつけない

そんなことを思いながら今日も歩く

いつか追いつけるように

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