完全なプラネタリウム
茜あゆむ
第1話
完全なプラネタリウム 茜歩
スイスはヴァリスにある修道院を訪ねたパーシー・シェリーは不可解なものを目撃することになる。大叔父の逝去により修道院の経営相続権を継いだ彼は、共同名義人のヴィクター氏の案内で、修道院の中心を占める天文台へと足を踏み入れた。駅から頼んだ馬車は山道で故障し、時は既に夕暮れ時となっていた。山の峰に建つ修道院の中でひときわ崖に迫り出した天文台がちょうど起き出してくる時刻だった。青い夜の幕が上がり、舞台に立つ主役のように白亜の天球は空を見上げている。
機械仕掛けの塔を登りながら、シェリーはヴィクター氏の話に耳を傾けていた。彼の父よりも年配に見えるヴィクター氏は杖を突いて階段を上がりながら、息を乱す様子もない。
「一一四九年のことと聞いております。元々、司教が先導し、敬虔な信徒のための修道院を開こうと考え、設計されていた本修道院ですが、その前年に天文学の知識が持ち帰られ、星見のための櫓―この塔ですね―が加えられました。数百年に及ぶ星の記録が残されているのは、世界でもここの他に一つか二つ、長い歴史を持つ天文台でもある訳です。”プラネタリウム”の研究はともすれば建設当初から念頭にあったのかもしれません。宇宙を一つ、完全に再現する。神域を侵すとも思える所業、主の御業を人間の手に齎そうというのですから、この塔がバベルなのではないかと譲り受けたとき考えもしました。星を書き留め、星を運行し、運命を見定める。それが許されるのは天にまします我らが主しかおられない。初め、私は研究を公表し、この修道院を売却するつもりでした。この天文台の上にあるものを見るまでは」
塔を登り切ると空っぽの天球があった。巨大な歯車が噛み合いながら、上へ上へと力を運んだ先には、小さな半球状の水盆のようなものがあった。だが、その水盆は天文台と同じように、天に向かって丸みを帯びている。中は水鏡のようになっており、星明りを映して、ほのかに光を発していた。
シェリーは望遠鏡を探した。塔の上のドームにあるべきものがない。望遠鏡の筒を動かすためと思っていた歯車は、水盆に接続されている。巨大な空間に対して、その水盆はあまりに小さかった。
「この山の上に、宇宙を見渡すだけの望遠鏡を持ち上げることは叶わず、このような形に……」
ヴィクター氏はゆっくりと水盆に近付いていき、発する星明りに顔を照らした。
「ご覧ください。これこそが”完全なプラネタリウム”。この小さな器の中に、世界が収められております」
夜空に水銀を垂らしたような鈍い光を頼りに、シェリーは水盆――いや、”完全なプラネタリウム”に向かって歩んでいき、それを覗き込んだ。
夏の星空だと一瞬で分かった。大三角の光が目に飛び込んできて、アクイラ・キグナス・ライラと紐解くように星座が浮かんだが、すぐにそれらは星の海に紛れて消えた。眺めるうちに三等級以下の星の輝きが増していき、水盆は目映いくらいに光りはじめた。
シェリーの脳内に、これは宇宙だという確信が何度も何度も押し寄せた。星の光一つひとつがその事実を身体に教え込ませようとしているようだった。シェリーはのめり込むように顔を近寄せ、水盆から発せられる光を隈なく取り込もうと瞳を見開いた。
そこには宇宙のすべてがある。それは人間が作り出した最も美しいものだった。神が作りたもうたものの完全なる複製。”完全なプラネタリウム”は宇宙のメタファーであり、完全互換の宇宙そのものである。であれば、そこには必然として人間がおり――。
瞬間、シェリーは向こうから覗き込んでいる瞳とぶつかった。それは彼自身の顔であった。瞳と瞳が触れるほどの距離。はっと気付いたとき、彼は天球を見上げていた。空っぽのはずのドームには満天の星空が広がり、彼はそれを見上げながら、荒い呼吸を整えていた。
「気付かれましたか。何をご覧になりました。何に見られておりました?」
シェリーはヴィクター氏に振り返り、
「見た。確かに、私自身の姿を見た。あれは……あれは何だ」
と問いかけた。
「あちらの宇宙のあなた。目の前にある”プラネタリウム”は精巧なもう一つの宇宙であり、そこには当然、あなたも私も生きている」
ヴィクター氏は転がった杖を取り上げて、シェリーに手渡した。若い共同名義人に礼を言い、彼はもう一度”完全なプラネタリウム”を覗き込む。
あの瞬間、見えた自身の顔は今の彼よりももっとずっと若かったように見えたのだが……。
共寝をしていた恋人の身じろぎは本当にかすかだったけれど揺り起こそうという意思が伝わってくる動きで、身体は反射的に反応し、私は目覚めを意識した。眠る私と起きようとする私が二重写しの揺らぎにぶれながら、その二つは私の身体に重なり合うように収束していき、定まった一つの身体で瞼を開けると、寝惚けた視界はまだ揺れていた。
部屋は十五分もすれば崩れていく夜の暗さに照らされており、瞼の裏のくらやみを吸い込んだ瞳で充分に見渡せた。私の背後から凜の左手が伸びているのが分かって、ダイニングの花瓶を指差している。朝とも夜とも定かでない時間に目覚めていると、凜の腕はどことなく私の腕に似ていると思わされて、夜明け直前のひんやりとした空気が、凜の腕を通じて私の腕にも感じられる。凜が指差した先には、青紫と白の混じった竜胆のつぼみが見えた。
「私たちのセックスを外から見たいと思う?」
喉を震わせないしゃべり方は、身体と身体が触れ合っていないと聞こえない。耳に届く声はs音の発音のように吐息ばかりで、聞き取れてしまうことが逆にあり得ない。竜胆のめしべを目で追うことと、私たちのセックスについて脳裏に想像することを無意識に並行してしまい、どちらも実像を結ばない。何と返事をしてよいものか考えるうちに時間が過ぎていき、何を答えても不自然だと思い、何もしゃべらない。形ないものをないと断言できない私の悪癖は、凜に対する甘えなのだろう。黙っていても、凜は私の沈黙の意味や理由を自分の身体で考えて理解する。それは抵抗が限りなくゼロに近い真空のコミュニケーションで、考えていることが身体を通してやり取りされる感触だけある。
「ハナカマキリが交尾してるの、見える?」
だけど、確かめるための声と言葉に私は安心して、カマキリを探す。
花弁に擬態する美しい虫は、交尾の折に共食いをするという。竜胆の青と白のグラデーションはぼんやり見つめていると薄紫に見えてくる。見つけたカマキリは鎌を振り上げながら対峙していて、互い違いに身体を揺すって威嚇し合っていた。凜はセックスのときだけ、私の身体を自分のもののように扱い、私と凜という区別をあえてつけなくなる。カマキリが身体を揺らす姿は自我を失った反射運動に見え、それは互いの身体の区別がなくなった姿だと言える。視覚という入力に対して、一定の動きを出力する機械運動。昆虫、と聞いたときに浮かぶ哺乳類とは異なる思考の在り方は、近代的自我からはまったくかけ離れていて、私たちが考えるようには考えないだろうということだけが分かる。
というようなことを凜は言いたいのだろうか、と私は想像した。花の構造は再帰性でできていて、進化により洗練された肉体というものは必要以上に合理的で、性的興奮を司るシナプスは自由意志を否定するように思う。
私は、私の身体を使って凜の考えていることを追いかけるように考えている。それは私の中に、もう一つの凜を作り上げることに似ていて、けれど結局は私の思考方法からは逃れられないところで考えているから、本当の意味で凜が何を考えているのかは理解できない。し、それは凜が私の身体を自分のもののように扱うことと同じことを、私がしているという風にも感じる。
黙っている私をカマキリの交尾に興味がないと判断した凜は、伸ばしていた手で私を巻き取って抱いた。凜はやさしくて、私たちはお互いの身体を使い合うことを許し合っている。
「早く宇宙へ戻りたい」
むき出しの私の肩に唇を寄せて、デリカシーのないことを言う凜に勿論悪気は一切ない。船外作業員として宇宙開発事業に従事する凜は、地球へ下ろされるたび、月百時間の船外活動規制を撤廃しろと喚く。私との関係は、船外作業を本妻とすると不倫のようなもので、そのことに私は思うところが何一つなく、あえて言い含めるとしても、仕事もほどほどに身体を大事にしてほしい、程度の月並みなことしか思い浮かばない。凜は本妻との関係が上手くいかないときに私に会いに来るのでとても大切にしてくれて、不満に思うことが前提としてまずないのだった。私と本妻はそれぞれ足りない部分を補い合って、凜を支えている。
とはいえ地球へ下りてくるごとに、凜が船外活動へ適応していくのを意識させられると、ぎょっとする。月面基地ではさまざまな拡張技術が開発されていて、以前、凜は顔の汗腺を取り除いて、熱交換プレートを首筋に埋入させていた。彼女の説明によれば、
「体内を精製水が循環している様子を想像してみて。首に埋め込んだニッケルメッキのプレートは、船外活動服の十二枚のチタンプレートとチューブで接続されていて、宇宙空間への熱放射で体温を調整する。もし体温が下がりすぎた場合には、背中の放熱板を太陽に向ければいい、チューブを流れる流体の速度は絶えず適切に管理されていて、汗の雫が口元を覆って窒息死するリスクは、これでゼロになる。船外作業には、船外作業に適した身体がある」
だそうだ。宇宙空間では人間は常に新しく更新され続ける。凜はそれを新陳代謝に喩えた。古いものは新しいものへと置き換えられていき、より適応的に進歩するものなのだと。
これにも凜に悪気はない。地上に暮らし、プレーンな肉体を持つ恋人を責めたり、見下すようなところが一切ないのが凜の凜らしいところだ。凜は自分が善いと思っていることに自信を持っているし、それは自分だけの価値観で私に押し付けようとはしない。すべてが凜の中で完結している。
「予報では二か月後に大規模な太陽嵐が発生するんだって。ラグランジュポイントと太陽の直線状に大きな帆を張って、活動船をその影に移動させてやり過ごす。昔ながらのやり方、地球からも見える。急がなくちゃいけないのに、ここで下ろされちゃったら、取り戻すのだって時間がかかる。ああ、早く戻りたい」
部屋に差し込む光がはっきりと形を持ち始める。竜胆の花は神秘的な装いを失って、ダイニングを彩るただの花に戻った。私は凜の腕から抜け出してカーテンを開け、朝を始める。ケトルに水を入れ、マグカップを二つテーブルに並べる。凜が使うたびにカップは割れるから、飲み口の厚い安物を彼女にあてがう。
「朝はトーストがいい。ジャムはある?」
凜の言葉に頷いて、ジャムスプーンと皿を二枚、冷蔵庫からは先週実家から届いたラズベリージャムを取り出して置く。トースターに六枚切りの食パンをセットして、沸いたケトルのお湯でアールグレイを淹れる。
「いつも通り、ベーコンはよく焼いて、スクランブルエッグはゆるめに作ってくれる? ご両親に挨拶に行かないとね。こんなにおいしいジャムを作る人に一度は会ってみたい。それで、今日はプラネタリウムを見に行こう。月で面白い話を聞いたんだ。オルバースのパラドックスは、星の光はどうして夜空を明るくしないのかと問う。星は無限に思えるほど宇宙を漂っているのに、夜の闇がより濃いのは何故か」
ベーコンの脂がフライパンの上で弾ける音と凜の声を聞き分けて、そのどちらにも同じくらい集中する。真剣に聞き分ければ聞き分けるほど、何かを聞き逃しているのかもしれない、という疑念が湧いてくる。それは、私の分かる意味に置き換えているということの言い換えだからだ。
「”完全なプラネタリウム”は不可能だってことが、これで分かる。無限の穴が空くピンホールは存在できない。だけど”完全なプラネタリウム”は宇宙を内包している。それはたぶん世界ってこと。宇宙の中にもう一つの精巧な宇宙が存在しているということ。そこではもう一人の私たちがセックスして、モーニングを食べていて、きっと結婚してる。教員向け単身者用アパートの狭い部屋でなく」
私の意識は後半をより強く聞き取ってしまう。私は”完全なプラネタリウム”に興味がなく、凜や凜の考えていることに関心があるからだ。だから、結婚という言葉は凜の口の端にのぼっただけでも私たちの未来を含んだように感じられてしまい、未来というここにはない時間が無限に肥大していく。私たちの生活は、結婚という一点を通過したからといって何かが変化する兆しを孕んでいなくて、それなのに私が期待している結婚の可能性は、やはり無限に開かれているように感じられる。
「宇宙は有限で”完全なプラネタリウム”は可能でもある。これが面白いところ。有限なものの完全な複写は可能で、だから宇宙は増殖する。最近、船外活動では三次元空間での完全な位置情報の取得のために、仮想空間を利用する考えが突き詰められてきてる。オブジェクト間の相対的な位置情報ではなくて、存在しているという身体性が必要で、例えば作業船の自動操縦にはアイカメラによる入力では、情報が断片的すぎる。視覚情報のニューラルネットも同じ。だから、仮想空間に作業船のもう一つの身体を作り上げて、実空間と絶えず参照し続けることで存在を証明する」
凜は面白い話を私に話すのに夢中で、アールグレイが渋くなっていることに気付いていない。今、凜の身体は言葉でできていて、次に話される言葉、その次に話される言葉と、話そうと悩まれ、あるいは話すことをやめられた言葉がある。凜は絶えず言葉を生み出し、こぼれたり捨てられたりした言葉が、テーブルの上に散らばる。そこを片付けて、と言っても、凜はマグカップやお皿の位置を整えるだけで、テーブルの上に積もった埃を払う仕草はしない。私はフライパンをコンロから外して、脂の跳ねるままテーブルに近寄せ、ベーコンをお皿へ流し込ませた。言葉が焦げる。
「美味しそう、いい匂い。あ、トーストは私が取る。そうだ、ミルクは要る? アールグレイにも意外と合う。それとバターを取って。トーストは二枚追加しておく。食べるでしょう?」
私と凜の間にあるフライパンは一見なんともなさそうに見えるけれど、まだ高温を保っていて危ない。凜から避けるようにフライパンをシンクへ落としてから、凜が話していたことを検討する。私は机の上に散らばった言葉の中から、凜の言葉を探してこなければならない。だから、少し間が空いて、
「ミルクは要らない」と私は言った。
凜の言葉の順番と、私の動線の最も最適な動きは異なる。一つひとつに答えようとすると、頭から順に凜の言葉を思い返すことになるけれど、私の身体は既に動き出していて、だから私は同じところを二度も三度も行き来することになる。
冷蔵庫から取り出したバターを適当に切り分けて、バターナイフと一緒に凜に渡す。それから、凜が新しくトースターにセットした食パンを見送る。私が食べなくても、凜は食パン四枚くらい平気で食べられる。凜がマグカップへアールグレイを注いだけれど、花のように広がる香りはなかった。
「梓」
私の名前を呼ぶ真剣さに悪い予感がよぎって、私の中と外の動きが同時に止まり、その予感を具体化しようと身体が強張る。凜の真剣さに、私は未来を読み取ってしまうからだ。
「スクランブルエッグを忘れてる。ベーコンの脂で香りをつけたの」
フライパンはシンクの中で既に水を浴びていた。ベーコンの香ばしい脂は流されてしまっていて、フライパンを取り出しても、凜が望んだスクランブルエッグは出来そうになかった。実現されなかった未来、台無しにされてしまったものという存在の仕方として、フライパンは水に浸っている。
「食べよう、梓。船外作業より料理の方が忙しい。ひとつのゴールに向かって、複数の作業を並行処理するのはベテランだってなかなか出来ることじゃない」
普通のスクランブルエッグなら作れることとを伝えても、凜は座ってと言うだけで頷いたりしなかった。
……オムレツにしようかと提案したけれど、冷めないうちに食べる。そう言って、凜はいただきますと手を合わせた。それから思い出したように笑って、
「循環系統のトラブルはよくある。大抵、発動機か弁体の故障だけど、循環を停止しないと作業はできない。電子演算の排熱処理を熱源にして、空調設備の省力に使う熱交換循環があるとする。古い設計だ。この系統が動かなくたって、実は困らない、お金で解決できる問題だから。本来排熱処理は船外のチラーで熱交換を行うわけで、船のオーナーが空調に使う燃料費を負担してくれれば、私たちが作業する必要はない。もちろんその燃料費を浪費したくなくて、作業依頼が来るけど」
話に夢中になった凜はフォークを宙で手放して、マグカップの柄を取る。フォークの落ちた音に驚いた凜はマグカップを握る指の力を緩めて、カップを持っていた手で、フォークを拾おうとした。カップもまた宙で手から離れる。
してしまったことと起きてしまったことの理解が追い付いていない様子の凜は、テーブルの端をしっかり掴んだまま、座っている自分の足元を見た。
「梓、重力を感じながら、生活することって可能だと思う?」
凜は固定されているテーブルに掴まりながら食事をすることに慣れていて、モンキーレンチや鉛筆は作業服のフックに紐づけられており、何より無重力だからどこかへ置いておくということが出来ず、宙に漂わせながら作業をしなければならない。
頭で理解することと身体が動くことはまったく別の問題だということは、私も身体で理解できる。凜は地球に下りてくるたび同じことを繰り返すし、それを見る私は、凜がちっとも学習しないことを呆れながら見ていたり、カップを割ってしまうことに怒ったりするけれど、それは私が凜の慣れや感覚を、身体では分かっていないからだ。
「拭くよ。このクロス使ってもいい? あ、動かないで。そっちの方が被害甚大だ。カップもせっかく買ってくれたのにごめん。このあいだの青いカップは高かったんだっけ?」
エジプシャンブルーのマグカップはたった一回使っただけで割れてしまった。高価なものなら少しは意識してくれるだろうかと思って、試したのだけれど駄目だった。思い返せば、実験めいたことを凜の身体でしてしまったのだと申し訳ない気持ちになり、高価なカップを割った負い目を背負わせることにもなっていて、あのカップは色々な意味で失敗だった。
私は凜からカップを受け取って、紅茶淹れ直すね、ともう一度ケトルをかける。けれど、カップを洗っているとひびが入っているのが目に入り、キッチンの隅のダンボールに片付けた。中には捨て忘れていた数々のマグカップが置かれていて、それは死んだ身体のはずなのに、まるで墓標だった。欠けた欠片も拾い集めて置いてあるカップたちは、欠けたところがないのに欠けているのだ。
私は用意しておいたコルク底のカップを新しく出して、淹れ直したアールグレイを注いだ。
「新しいマグカップも素敵だね。ステンカップにすれば割らずに済むんだろうけど、口元がひやりとするのは苦手。あたたまったカップで両手を温めるのって、すごくほっとするし、暖房のないガレージで家電の修理をしていた頃、お茶を買うお金ももったいないから、梓が淹れてくれる紅茶はすごく美味しい。あっちではコーヒーばっかり」
凜がそうやってお金を稼いでいた頃、私は大学の図書館で教員試験の勉強をしていた。古い木造の建物で、空調設備が完備してあったけれど天井が高く、空気はなかなか暖まらなかった。二時間に一度休憩が必要で、身体を震わせながら講義棟へ暖を取りに行った。大階段と呼ばれていた図書館の傾斜の急な階段では誰かが足を滑らせ、額を割った。その誰かが倒れていたという踊り場にはかすかなシミが見えるような気がして、私はその仄薄い影を避けて、床を踏んだ。階段で額を割った学生の名前はいつまでも知れず、男の学生だとも、女の学生だとも言われ、キャンパス内で知らない人はいないほどの話題になっても、その誰かの友人だとか現場に居合わせたという人物は出なかった。じきに噂自体が嘘だと言われるようになり、誰もが忘れた。
”完全なプラネタリウム”の噂は、同じ頃にも聞こえていた。十二世紀のスイス、修道院を兼ねた天文台でそれは考え出され、何世代もの修道士たちが星を数え、記録して、完全な天体運行の再現を試みようとした。天体の営みは地上に影響を及ぼすのだから、天体運行の予測が可能ならば未来予測も可能だと考えられ、為政者や各国の貴族の支援も受けつつ、活動は国境を越えて広がっていった。
”完全なプラネタリウム”も世界をモデル化し、シミュレーションとしての未来予測を立てる考え方と捉えることは可能で、あるいはそういう現代科学に適合的に、この噂はつくられたのかもしれない。極小の宇宙の模型。宇宙の中にもう一つの宇宙が内包され、互いが参照し合っている。噂は一般教養の講義で聞いたとか、天文サークルに代々語り継がれてきたとか言われたけれど、出所が判明することはなかった。大学の蔵書アーカイブを調べた学生もいたけれど”完全なプラネタリウム”に関する書籍は国立図書館にも蔵されていなかった。現在、プラネタリウムの語は主にカールツァイスに端を発する天象儀一般を指し、検索にヒットする資料も専らそれらを示す。”完全な”プラネタリウムを、人類はまだ開発できていない。
「梓は信じてた? 床のシミだってそれ以前からあったものだって、司書が話してくれたって聞いた。定年を過ぎた司書の先生が学生だった頃から、その噂もシミもあったって。そう話してくれたのは梓だ。違う?」
ミルクティーにしたアールグレイを飲みながら、凜は時計を盗み見るように視線を動かした。私のお皿にはまだベーコンとスクランブルエッグが半分ほど残っていて、トースターにセットした二枚の食パンはまだ焼き上がっていない。
「梓が意味に怖がることが出来るのは、一つひとつの物事をしっかり考え抜くからだと思う。血や血のシミが怖いというより、シネクドキとしてそれらの意味を読み取って怖がってる。噂が不気味なんじゃなくて、噂が含んでいる思惑とか伝わっていくごとに無意味に変質していく部分が不気味で、遠ざけてる」
話さない私の行間を埋めるように話す凜の言葉は、私のものでありながら私のものではなくて、翻訳とも代弁とも違い、凜から話された私、というフィルター越しの決して自分で見ることのできない私だった。だから、それが間違っているのか、正しいのかも分からなくて、私はまた黙っている。
「例えば私が宇宙の事故で死んだとして、私の身体はもしかすると腕とか髪とか、一部分しか地球に帰ってこれないかもしれない。宇宙線の二次汚染を防ぐために、私の身体は分厚い強化ガラスの棺に入れられてる。エンバーミングの技術は驚く程に進歩しているから、私がどんな怪我を負って死んだのかは、きっと梓には分からない。私は死んでないみたいに見える」
何度も想像した情景を、思い出すように思い浮かべる。凜は同じ話を何度も私に言い聞かせ、既に体験した記憶ではないと否定するのは目の前に凜がいるからで、私はクローゼットにしまったの棺を綺麗に拭いてあげなければ、と思い出すことがある。
「梓は眠っているような私だって愛せるくらい、私のことを考えてくれてると思う。私が保存液の中で目を瞑って、永遠に瞼を開かなくても、私が何を考えているのか想像してくれて、それは私が生きていても死んでいても変わることがない」
シミュレーションとしての、あるいは思考実験としての凜と現実を生きる凜は決定的な違いがあるはずで、それは生きていると死んでいること以上に、私がそれが凜だと感じられる何かを含んでいるかどうかじゃないかと思う。その意味でいえば、確かに凜が生きている必要はなくて、私がふとした瞬間の本当に些細な凜らしさに気付くことが出来れば、例え腕の一本でも、私は凜の一部から凜の全体というべきものを感じ取ることが可能なはずだ。
「梓にとってはどれも本当のことだと思う。梓は本当のことだと信じられる。床のシミも、私の遺体も、それを通して、本当のことを考えられる。私は目の前のことしか分からない。故障している部品を交換して、何が原因で上手く動作しなくて、修理をしたから何が出来るようになった。そんなことしか考えない。だけど、それはもっと大きな意味に繋がっているんじゃないかって、梓はそう考えるんじゃないかって思うことにしてる」
凜の中にいる私は、きっとよそよそしい。私にとっては知らない私だ。話が合わないし、何を考えてるかも分からない。でも、そんな私を通して、凜は私全体のことを考えてくれている。それはこの私を参照して、修正されることもあるし、逆にその私が現実の私の位置を微調整することもある。
”完全なプラネタリウム”はその完全性から完成することは不可能で、星が増えるとか減るという物理的な話だけではなくて、完全性はやはり揺らぐのだと思う。全体が一部を、一部が全体を補完するように、”完全なプラネタリウム”は完全である必要がない。
オルバースのパラドックスを私はこう解釈する。私たちの生活は無限の繰り返しで、同じ永遠を繰り返している。日々、目の前に流れていく生活を眺めていたら、私たちは自然や芸術に気付く暇を持つことはできない。なぜなら、生活は無限に訪れるから。それなのに目を開かれるように花の美しさに気付くのは何故だろう。それは私たちの生活が無限じゃないからだ。宇宙が無限でないことと同じくらいに同様なこと。星の灯りは宇宙の闇を照らし尽くさない。
凜がフォークをテーブルに置く。皿はもう空だった。トーストが焼き上がり、凜はラズベリージャムをたっぷりと塗って頬張った。
「こんな美味しいジャムを作れる人と、結婚したい」
凜の言い方はもっと別の意味を含んでいて、愛しているという気持ちを愛してるという言葉では完全に言い表せないことを確かめるような手触りがあった。凜はトーストを咀嚼しながら窓の方を向いていて、朝の光を吸い込んだ瞳がきらきらしている。そんな彼女の何気ない仕草が急に気恥ずかしくなり、私はテーブルのお皿を重ねて、シンクに立つ。さりげなさとか、そつなさとか、自然に振る舞おうとすればするほど不自然になる仕草の、不自然な自然さを凜は雰囲気としてまとっていて、それはやっぱり不意にこぼした一言が原因だとしか考えられない。
気の利いた一言でも返せたら、この空気や気持ちも落ち着くのだろうと思うけれど、それが言えるような私では元々なく、いまも凜の二の句を待ちながら洗い物を片付けていく。凜は私の無言を、また解釈してくれるだろうし、私は耳をそばだたせて、シンクの水が排水口に流れていく音を聞く。皿の泡を洗い流す。
お皿を水切り籠に移し終え、シンクに残った泡を流していると、凜が横からジャムのついた平皿を置いた。凜は何も言わなかった。私はその皿を洗って、水切り籠に移す。凜は飲み干したマグカップをシンクに置いた。
顔を上げると、凜と目が合った。それまで頭に浮かんでいたことがすべて真っ新になって、無表情に見える感情を殺した凜の瞳を見て、考えなきゃいけないことが明確になった。それから、私は今まで愛してるの代わりの言葉を探したことがないことに気付いた。私は愛してると言葉にする代わりに、髪の毛を指に絡めたり、頬を摘まんだり、抱きしめたりしてきた。凜はしっかりと焦げ目のついたベーコンが好きで、トーストは八枚切りが良くて、そういうことを知っていることが愛だと思っていた。だけど、凜はいま確かめようとしていて、それには私の言葉が不充分みたいだった。私は確かめる必要なんて、ないと思っていたんだった。
結婚に含まれる生活と生活をすり合わせて掛け合わせる響きの中には、宇宙と別の宇宙が衝突して出会うメタファが隠されている気がする。生活は無限ではなくて、だから私と凜が出会えたのだけれど、結婚という言葉とか、結婚しようというプロポーズには胸躍るような空恐ろしくなる広がりがあって、その光は目が潰れそうなくらい、眩しい。
絶対にありえないこととしてではなく、私たちの間にあった可能性はそれこそ私には無限のように感じられて、実感を得ることはできなかった。凜が饒舌を捨てたのは、きっと引力に耐えかねたからだ。無限の無重力から離れて、地球の引力が身体を捉えた。引力の中心には、たぶん私がいる。
「ジャム……だけでいいの?」
口にした途端、これでは足りないことに気付いた。凜に対しても、私にとっても、何も伝えられていないし、何も伝え切れていない。何よりそれは私の愛の言葉でなかった。凜の言葉に応えているだけで、私の愛はそこには含まれていない。
具体的な話ならできる。凜の好みを考えるとき、私は自分の好きなものが一つ増える気がする。凜の好きそうな茶葉を選んで、凜の好きそうなカップを選ぶ。私は私の中の凜にそれぞれ相談して、どれが一番喜ばせることができるだろうかと考える。そこには私が見ている世界とは別の世界があると実感できて、そこはまだ私の立ち入ることのできない場所だけれど、窓が開いていることは分かる。窓を覗き込んだ世界が私の世界に似ていて、少しほっとしたり、どこにも似ていないものがあって、ぎょっとしたりする。窓があることは、私にとってこれ以上ないくらい嬉しいことだ。
ということを一瞬で考えたわけではないけれど、その考えのタネというか、考えになる前の何となくが私の胸の内に浮かんで、つまりは考えるより前に口が動いていた。
「私はジャムだけじゃなくて、凜の好きなものをもっと作ってみたい」
窓をもっと広げて、扉にして、もう一つの世界に飛び込む。そんな夢物語のようなことが、凜との間にならできるんじゃないかと思う。私が凜との結婚に感じていた無限の可能性は、そういう広がりにあったのかもしれない。
凜は寝巻にしていたTシャツを脱いでいて、上裸のまま私に抱きついてきた。私は彼女を正面から受け止めて、抱きしめ返す。
「シャワー浴びよう。それから、プラネタリウムに行こう」
凜の声はいつもより上機嫌で、私たちはどうしてこんなに迂遠な言葉でやり取りしているのだろうと思ったけれど、私たちにはこの伝え方が一番合っていて、より伝わりやすい言葉なんだと思った。
私たちはシャワーを浴びて、プラネタリウムに行く。そこには意味が含まれていて、すべては理解できない。凜は特別な意味を込めていて、私は凜が意味を込めたことが分かるだけで、具体的にそれがどんな意味なのかは分からない。ただの言葉なのにぬくもりを感じ、凜からの愛を実感できる。言葉は凜の気持ちを完全には言い表せないはずなのに、私は言葉を受け取って、想像することで気持ちを受け取る。完全ではない複製が補完し、参照し合って、完全以上を伝える。
「梓、おいでよ」
バスルームから聞こえるシャワーの音が凜の声のように聞こえた。私も裸になって、バスルームへ向かう。絶え間なく聞こえる無数の音には、言葉になりそこねた声が含まれていて、私を呼んでいる。
ドアを開けると、シャワーを浴びている凜の棺があった。円柱型のガラスの筒には凜の右腕が収められていて、天板は埃が溜まり、わずかに黄ばんでいた。私はガラスの中を覗き込んで、凜の指の産毛を瞳に映す。その長さがいつも一定ではないように感じられて、凜が生きている幻想がいつまでも保管される。白昼の空に見える銀色の帆の上でまだ凜が作業しているんじゃないかという錯覚とともに、月面基地の更新工事が行われるというニュースを見るだけで、私は凜を思い出し、凜にはどういった作業が割り振られるのだろうと想像する。
埃を洗い流し、棺を抱いて湯船に浸かる。立ち上った湯気が天井に結露して、時折落ちる。完全に止水されたバスルームで水音がするのはそのせいで、私の鼻先にも落ちる。
プラネタリウムに行こうという約束はまだ続いていて、私は凜の右手を連れていくことが出来る。市営天文台まではバスが出ており、日に三回、特別上映を行っている。平日はいつも空いていて、ドームの照明がゆっくりと落とされるとき、凜が見ていたのかもしれない宇宙の景色を目の当たりにする。宇宙では誰もが一人で、星空は私たちの方へ静かに迫りつつあり、遠近法で近付いて見えるだけだ、と教えてくれる凜の右手が星を指差す。
それを見る私の瞳は潤み、星は二つに見えた。私は隣にいる凜の腕を、確かに握った。
了
完全なプラネタリウム 茜あゆむ @madderred
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