妖精になった由真

いとうみこと

きみは幸せでしたか?

 新幹線の改札を抜けて真っ直ぐ進むと、遠くに丸の内側の出口が見えてきた。その手前には中央線。それに乗ればかつての住まいに辿り着く。尤も、あんなボロアパートはとっくに無くなっているだろうが。


 ニ十年前、俺はここ東京で学生をしていた。一浪して入った美大で一年留年して、それで何かを得たかと言えば何も無くて、何者にもなれる気がしなくて、無限の閉塞感の中でもがいていた時期があった。

 そんな時、バイトの帰りにいつもの狭い路地を歩いていたら、不意に何かが足に当たった。振り向くとゴミ箱の陰から人が道路に倒れるところだった。白いミニワンピから出た手足が気の毒なくらいか細い少女、由真との出会いだった。


「救急車呼ぶ?」

 俺の問いかけに全力で首を振るその少女は、あちこち傷だらけで靴すら履いていなかった。このまま放って行くわけにもいかず、さりとて頼るあてもなくて、仕方なく猫の子を拾うようにうちに連れ帰った。シャワーを浴びさせ、その間に表通りのドラッグストアで傷薬など買って、とっくの昔に別れた彼女が置いていった服を着せ、傷の手当をした。その間に交わした会話は「名前は?」「由真」だけ。何だかそれ以上は訊いてはいけないような気がした。


 由真は野良猫のようにそのまま俺の部屋に居着いた。最初は何とか交番に連れていこうと考えたが、由真があまりにも頑なに嫌がるので折れるしかなかった。

 数日後、由真は家賃の代わりだと言ってなんの躊躇いもなく俺の前で服を脱いだ。俺はそんな気になれなくて断ったが、由真は頑として譲らなかったので、代わりに絵のモデルになってもらうことを提案した。服を着ていいと言っても由真は聞こうとしなかった。仕方なく俺はあばらの浮き出た体を描き始めた。ところが一旦描き始めると、まるでそれがずっと描きたかったものであるかのように筆が走った。


 そんな日々が一ヶ月ほど続き、由真の絵が完成しつつあったある日、俺がバイトから戻ると由真の姿が消えていた。それまでいつ帰ってもそこにいた由真がいないことに俺は動揺した。捜そうにも由真に関する情報は何も持っていなかったし、そもそも由真が本当の名前なのかすらわからなかった。

 俺は胸がジリジリと焼かれるような思いで由真の帰りを待った。そして十日後の深夜、玄関のドアに何かがぶつかる音が聞こえて飛び出すと、前と同じような白いミニワンピを着た由真が傷だらけになって倒れていた。


 俺は由真を抱え上げ、湿気た布団に横たえた。最初に会った時よりも傷も痣も多くて俺の手には負えないと思ったが、由真は今回も頑として病院へ行くことを拒んだ。仕方なく俺は由真の服を脱がせ、できる限りの手当を試みた。いつの間にか由真の体はふっくらと女らしい膨らみを得ていて、それがむしろ痛々しく思えた。


「なあ、警察へ行こう」

 由真は諦めたように小さく首を横に振った。そして初めて自分の生い立ちを語った。両親に虐待を受けていたこと、家出した先で出会った男にもまたDVを受けていたこと。荷物を取りに男の部屋に行ったところを見つかって監禁され暴力を受けていたが、隙をついて逃げ出してきたこと。どれもが俺には想像もできない過酷な話だった。

「櫂君に出会って初めて生きてて良かったと思えたよ」

 由真はそう話を締めくくると静かに目を閉じて眠りについた。由真の安心し切った寝顔を見ながら、俺は涙が止まらなかった。


 幸いにも由真の傷は順調に癒えていった。俺は由真に内緒で区役所の福祉課に出向き事情を説明した。担当者は親身になって相談に乗ってくれ、やがて由真の祖父母を見つけてくれた。祖父母もまた由真の行方をずっと捜していたのだ。その過程で、由真はまだたった十五歳だとわかって俺の胸は更に痛んだ。


「あの絵は誰にも売らないでね」

 由真はそれだけ言うと、優しそうな祖父母に肩を抱かれてタクシーに乗り込んだ。何度も振り向いて窓越しに手を振る由真は、今まででいちばんあどけなく見えた。


 今頃、由真はどうしているだろう。幸せに暮らしているだろうか。あの日、部屋に戻ると、平仮名ばかりの拙い文字が並ぶメモ用紙がイーゼルに置いてあった。

「ありがとう、かいくん。いつか今よりずっときれいになってもどってくるね」

 俺は筆を取り、一晩かけて裸の由真に白いワンピースを着せ、背中に小さな羽をつけてやった。その絵を東京での個展で初めて飾る予定だ。由真が見つけてくれることを心のどこかで祈りながら。

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