【短編】大熊事実は妖精を信じない【現代ファンタジー】

山本倫木

KAC20253 妖精

 大熊おおくま事実ことみは、幼いころから自分が面白みに欠ける人間であると自覚をしていた。何しろ、空想の世界で遊ぶということが出来ない。日曜朝のテレビの変身ヒロインに惹かれたことは一度もなかったし、幼稚園のころから友人との「ごっこ遊び」の類を楽しめた記憶もない。私は永遠に私なのだから、他のナニカになる想像をして何が楽しいのかと思っていた。

 そんなコトミが理系の道に進んだのは、だからある種の必然だった。この世に存在する事実じじつを客観的に捉える理系の学問は、自分の名前と特性にピタリと当てはまると思っていた。


 以上の理由で、コトミと妖精達との遭遇は以下のような顛末となった。



「ハイ、コトミちゃん! 大変そうね!」

「ごめん、ちょっと待ってて」


 深夜、人気のない研究室の無菌作業台クリーンベンチで、整然と並べた使い捨て培養皿ディスポシャーレに培地を一定量ずつ流しこんでいたコトミは、背後からのハスキーボイスに手元から目を離さないまま返事をした。寒天アガロースゲルを混ぜて加熱した液体培地は、冷え固まると微生物を単離培養するための固形培地となる。小分けにする作業は熱いうちに完了させる必要があるので、目を離す余裕はなかった。

 全ての培地を流し込んでから、コトミはまだ熱い2L容三角フラスコを置いて振り返る。そこには、身長約20センチメートルの金髪女性が10人ばかり宙に浮いていた。全員がパステルカラーのドレスを身にまとっていて、どういう原理かわずかに発光している。


「「「こんばんは、コトミちゃん」」」

「こんばんは。えっと、なにかしら?」


 女性達が美しいハーモニーで夜のあいさつをするのに、コトミは特に驚くこともなく応じる。コトミは無地のTシャツとジーパンに、野暮ったい実験用白衣を羽織っているだけという飾り気のない服装をしていた。足元に至ってはトイレでよく見るタイプのゴムのスリッパをつっかけている。さらに言えば、徹夜も2日目になっているので顔色も悪くて目の下のクマが濃い。ありていに言えば、余計なことに気を遣うだけの余裕のないことが一目でわかる状態だった。身長高いし素材はいいのに、などと友人から言われるコトミだが、今はその影もなかった。


 コトミが驚かなかったことに、金髪女性達が戸惑うのが分かった。彼女らはお互いに顔を見合わせていたが、ややあって緑のドレスを着た一人が前に出てきた。


「なにかしら、じゃないわよ。ワタシ達をみて、アナタは何も思わないの!?」

「あ、いや。小人症は立派な病気だって聞いたことがあるから、驚いたら失礼かと思って」

「ワタシ達はそーいうのじゃないの! ワタシは一番妖精のルミナ! ワタシ達はこの研究室ゼミの妖精よ」

 

 ルミナと名乗った妖精がパチンと指を鳴らすと、それを合図にほかの妖精達が一斉に空中でくるりくるりと優雅に舞いはじめた。


「ほら! 羽ばたくわけでもないのに飛んでいるでしょう。妖精でなければ、何だっていうのよ!」

「んー、立体映像ホログラムか何か? 操縦しているのは、私の知っている人? 手の込んだ悪戯を仕掛けてくれたところを悪いけれど、今はちょっと忙しいの」


 プイっと作業台に向き直ろうとするコトミに、ルミナがあわてて前をさえぎる。


「もう! アナタが忙しいのが分かっているから、ワタシ達が出てきたのよ。いいから話を聞きなさい。聞かなきゃ、一生の損よ」


 作業を急ぐコトミだったが、ルミナとやらが作業台を陣取っていては流石にやり難い。ルミナの剣幕に押されるように、コトミは椅子に腰かけた。簡素なビニール張りの小さな丸椅子が、ギシリと音を立てる。座ったコトミの周りを妖精達がとりまいた。ルミナはコトミの顔の前にやってくると、ここぞとばかりにまくしたて始める。



「アナタはこの研究室に所属する学生の大熊事実ことみちゃん。そして、卒業研究を完成させるためには、今日中に微生物の単離培養にかからないといけない。何より、この研究がまとまらないと卒業に差し支える。そうよね?」


 コトミは黙って首を縦に動かして肯定した。コトミは就職内定を早々と確定させていたが、ゼミの卒業論文の方は順調ではなかった。実験に想定外は付き物とはいえ、予定していた実験がことごとく失敗した結果、コトミの卒業論文は完成のピンチを迎えている。卒業までの期間と実験のスケジュールを考えると、今日、再実験を開始しないと相当苦しくなることが確実だった。昨夜からコトミが一睡もしていないのは、それだけの理由があった。


「だからワタシ達が出てきたのよ。ワタシ達はこの研究室の妖精、頑張る学生さんの味方よ」

「何だか知らないけど、ホログラムに何が出来るの?」

「だから! ホログラムじゃなくて妖精! そもそもワタシ達はアナタよりずっと年上よ。少しは敬いなさい!」


 コトミは妖精を無視して壁掛けの時計に目をやった。もう午前2時だ。

 目の前に突然現れたコレは妖精を名乗っているが、現実に存在している以上、そんな超自然的な存在ではありえない。ホログラムでなければ、精密なロボットか、もしかしたら過度の睡眠不足がたたって、ついに幻覚を見るに至ったのか。いずれにしろ、余計な議論をしているヒマはないな。寝不足で頭がかすんでいることを自覚しつつも、コトミはそう判断した。


「そうね。私が悪かったわ。疑ってごめんなさいね。えっと、ルミナさん」


 素直に頭を下げたコトミに、ルミナは意表を突かれた。それでも、自分達を敬えと宣言した手前もあり、ルミナは虚勢も含めて胸を張る。

「分かればいいのよ。分かれば」


 コトミは周りを見渡した。自分を取り巻いている妖精達は華奢な体つきをして、皆、一様に色とりどりのドレスで着飾っている。よく見ると、様々な葉っぱを模した洒落たデザインだ。確かに、おとぎ話に出てくる妖精のイメージそのものと言っていい。


「で、アナタ達は何をしに来たの?」

「よくぞ聞いてくれました!」


 妖精は胸を反らせたまま、得意げに答える。


「ワタシ達はこの研究室の妖精よ。ここのラボで使われる実験手法は、一通りマスターしているのよ。微生物の単離培養くらい、お任せあれ」


 コトミが返事をするよりも早く、妖精達はふわりと無菌作業台クリーンベンチの中を飛び回りはじめた。ある者は、微生物を含む希釈液に浸かっているピペットを抱きかかえると、コトミが作ったばかりの固形培地の上に希釈液を垂らす。するとすかさず、別の妖精がガラススプレッダーできれいに塗り広げた。もちろん、スプレッダーを培地に触れさせる前には、70%エタノールななえたとバーナーで殺菌することも忘れていない。

 新しいシャーレを並べる者、次の培地の用意を始める者、みな手際が良い。コトミは目を丸くした。大勢いる妖精の動きは、すべては茶道のお手前みたいに、流れるような所作だった。これは確かに、自分よりも正確だし、なにより速い。みるみる、実験の準備が整っていく。




「ほら、出来たわ。培養槽インキュベータに持っていくわよ」


 気が付いたときには、用意していた大量の培養皿シャーレのすべてに微生物が塗布されていた。あとはこれを培養すれば、微生物の集団コロニーが出現して、実験を本格的に進められるわけだ。


「え、あ、ありがとう」

「いいから、さあ」


 ルミナに促され、コトミは培養皿を満載したバスケットを持って立ち上がる。重いバスケットに、疲れた体がふらりと揺れた。


 培養槽インキュベータに全ての培養皿をセットした時、窓の外が白んできたことにコトミは気が付いた。もうすぐ日の出のようだ。さっき時計を見たときは真夜中だったはずが、いつの間に。もしかして、自覚もない間に少し寝入っていたのだろうか。




「おはよう、大熊君。徹夜の成果はあったみたいだね」


 呆然と日の出を見入っていたコトミは、声をかけられるまで人が入ってきたことに気づかなかった。はっとして振り返る。


「あ、おはようございます。真野まの先生。お早いですね」


 ジジイの朝は早いのよ、と軽やかに応じる真野教授は、つるりとした頭を稼働中のインキュベータの方に向けている。半透明の扉の向こうに、培養皿が山のように積まれていた。昨晩の仕事の成果だ。


「けっこう、無茶な作業量に取り組んでいたみたいだけれど、よく仕上がったね。妖精さんにでも、手伝ってもらったかな」


 退官ていねんも間近に迫った老教授は、のんびりとした口調だった。


「妖精さん……?」


 好々爺然とした老教授の言葉を、コトミは小声で復唱した。昨晩、妖精達が実験を手伝ってくれたことは覚えている。たが、朝を迎えた今、彼女達はいつの間にか姿を消していた。


 朝の光の中で改めて考えてみると、妖精が実験を手伝ってくれたことは、やはり現実のこととは到底思えなかった。昨夜は何も思わなかったけど、ホログラムやら、精巧なロボットやらという説はやっぱり無理がある。知らない間に朝を迎えてしまっていたことを考えてみても、あれは夢か何かだったに違いない。実験の準備も、きっと半ば無意識に自分で仕上げたのだろう。

 コトミはかぶりを振った。無造作に束ねたツヤのあるローポニーテールがゆらりと揺れる。


「まさか。先生、ここは理論と科学を重んじる、大学の研究室ですよ。妖精だなんて、そんな馬鹿な生物がいるわけないですよ」


 断言するコトミに、真野教授はそうだね、とほほ笑んだ。






「大熊君も、まだまだ青いね」


 培養が一定段階に進むまで、実験は待ち時間になる。コトミが36時間ぶりに研究室を退室した後、残された真野教授は朝の光の中でつぶやいた。


「ホント、失礼しちゃうわね。せっかくワタシ達が手伝ったのに、彼女、夢か何かだと思っているわよ」


 コトミと入れ替わりに、どこかから姿を現した妖精が、手乗り文鳥のように老教授の肩に舞い降りた。


「大熊君を助けてくれて、ありがとうね。彼女にはきちんと社会に巣立ってほしいからさ」

「まったく、卒業が危ない学生を手助けしてほしいだなんて、センセイもお人好しよね。彼女はお気に入りの学生じゃない。センセイの言い方次第では、きっと彼女は学者の道に進んだわよ」


 妖精が言っていたことは事実だった。コトミは予定していた実験が全て失敗したとき、一時、就職を蹴って研究を完成させようかと悩んだ時期がある。その時、実験をやり直してきちんと卒業するように勧めたのが、真野教授だった。やや強行気味の再実験のスケジュールも、コトミと真野教授が打ち合わせて考えたものだ。

 妖精の言葉に、ふむ、と老教授は少しだけ考え、それからゆっくりと口を開いた。


「ルミナ君。僕はね、研究者たる者、自分の目で見たものは、どんなに信じがたい事でも真実だと思える力が必要だと思っているんだ。彼女は優秀だけど、まだ、体験した事実よりも、理論を優先してしまうところがあるね。彼女がいつか真に力を発揮するためには、今は研究室を離れて、広い世界を自分の目で見てきた方がいいのさ」


 そう言って、老教授は肩に乗っている妖精に向かってほほ笑んだ。

 ルミナは、やれやれと言うようにわざとらしく肩をすくめて見せるのだった。





【了】

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