月花

香久山 ゆみ

月花

 まあるい月が天上にかがやく夜でした。

 竹藪で小さな女の子が泣いています。迷子なのですが、あまり小さいから泣くよりほかに仕様がありません。

 えーん、えーん、えーん。

 しかし、どれだけ泣いてもどうにもならない。森の生き物達は皆、女の子を不憫に思いましたが、獣の牙や野禽の爪は少女を傷付けてしまうだろうから助けてやることもできません。

 さんざんぱら泣いたあと、女の子はようやく歩き始めました。自分でなんとかするより他ないのです。こんなに小さいのに!

 女の子の小さな足では、歩いても歩いても竹藪が続くばかり。一度は奮い立たせた勇気も萎んで、またどんどん不安が大きくなってきます。そもそも自分がどこへ向かって歩いていけばいいのかさえ分からないのです。泣きたくなったけれど、ぐっと涙をこらえました。泣いたって仕方ないから。なんて健気なのでしょう。叶うならば抱きしめてやりたいところです。

 一縷の希望の光を求めて、少女は歩きます。

 けれど、ああ! いっとう大きな光は天頂から煌々と黄金色のかがやきを放つばかりで、けっして手の届きようがありません。

 ガサガサッ。

 その時、藪が揺れました。黒い影が少女の前に躍り出ました。万事休す、これでもう何もかも終わりなのだと覚悟しました。

 しかし、少女の目の前に現れたのは、小さな犬でした。

「こんばんは! 何をしているの」

 驚きに口を聞けないでいる少女に、犬が尋ねます。

「ええと……」

 少女は答えられません。だって、自分がどこへ行こうとしているのかさえ分からないのですから。

「迷子?」

 犬が聞きます。

「え、ちがうわ!」

 とっさに少女は答えました。本当は迷子です。けど、小さな犬に、自分が迷子だと白状するのは気が引けました。少女の心持ちはまるで気高い花のようでしたから。

「ふうん。じゃあ何してるの? どこへ行くの? きみはだあれ?」

 犬は矢継早に質問します。

「あたしは姫。月の姫なの。あたし月から落っこちてきちゃったの。月へ帰らなくちゃいけないの」

「へーえ。確かにきれいな着物をきているもんね。けど、どうやって月に帰るの? あんなに遠いのに」

 犬が満月を見上げます。

 姫の頭はちりちりと痛みましたが、一つを答えるとおのずと次の答えも口から出てきました。

「うつくしいものを見つけなければならないの」

「なに?」

 うつくしいものってなんだろう。姫はいつもうっとり憧れて眺めていたものを思い浮かべました。それは月の世界にはなく、地上にしかないもの。

「花よ」

 けれど、ふつうの花を摘んだって月へ昇ることはできないことは知っていますので、さらに言い足しました。

「まぼろしの花。それさえあれば月へ帰れるのよ」

「はな? わたし知ってるよ」

 小犬がぶんぶんとしっぽを振ります。

「本当?!」

 姫が驚くと、犬は自信満々に顔を上げます。

「わたしのお鼻! ぴかぴかでよく鼻が利くんだよ」

 えへんと犬が舌を出します。

「えっ。へへ、違うわよ。あなたの丸い鼻じゃなくて、蕾がひらくお花よ」

 姫は思わず笑いました。緊張していた心もほっと緩みました。

 お鼻ではなくお花でしたが、犬は姫の探し物を手伝うことにしました。ひとりよりもふたりの方がきっと早く「まぼろしの花」を見つけることができるからです。

 とはいえ、どこへ向かえばいいのでしょう。

「ほうほう、海へ向かえばよろしい」

 いっとう高いクヌギの木の上から、話を聞いていたフクロウが言いました。海の向こうにはこの小さな島よりもずっと大きな陸地があるから、きっと何でもあるだろうと。

「そんなら、あっちから潮の香りがするよ」

 犬が鼻をくんくん動かし、ふたりは歩き始めました。

 一晩中歩きとおして、ようやく竹藪を抜けました。

 目の前には大海原が広がっています。地平線からは太陽が顔を出し、空も明るくなってきます。

「わあ!」

 ふたりは声を揃えました。

「けど、どうやって海を渡ろうか」

 陸地は遥か彼方に小さく見えるばかり。姫は泳げませんし、犬かきでも到底辿り着けそうにありません。

「やあ、どうしたの」

 うんうん悩んでいると、黒い着物の男の人が声を掛けてくれました。事情を話すと、「向こうに船着場があるよ」と教えてくれました。

 男の人に案内してもらい、ふたりは舟に乗りました。

 昼過ぎには到着すると教えてもらって、ふたりはうとうと眠りにつきました。なにせ、一晩中歩きどおしだったのですから。潮風に当たりながらも、ふたりで身を寄せるとぽかぽかとあたたかいのでした。

 ――わあわあ。

 ――ひええ。

 ――ぎゃああ。

 どれくらい眠っていたでしょう。ふいに騒がしい声に目が覚めました。

 顔を上げると、舟の上に乗客ではない見知らぬ男達が大勢うごめいています。姫たちの乗った舟の横には、不気味なドクロの旗を掲げた船が横付けされています。

「きゃん、海賊だ!」

 犬が声を上げます。その声で、小さなふたりもついに海賊に見つかってしまいました。

 襤褸の身なりの二人組が近づいてきます。

「よう、こんなところに隠れていやがったか。小さいから気づかなかったぜ」

「嬢ちゃん、いい着物をきてるじゃねえか」

「おや、この犬もけったいな種類だな。高く売れそうだ」

 そう言って海賊二人組は舌なめずりして、姫と犬に毛むくじゃらの腕を伸ばしました。

 こわい、どうしよう!

 けれど、どうすることもできません。ふたりはあまりに小さいのですから。頼りの犬さえ、ワンとも吠えずにぶるぶるしています。姫はぎゅっと目を瞑りました。

 ――と。

「ぎゃっ!」

 野太い悲鳴が上がります。そうして、姫の肩を今にも掴もうとしていた腕は、いつまでたっても触れる気配がありません。目を閉じたまま永遠かと感じられるくらいの時間が経って、おそるおそる目を開きました。けれど、実際には一瞬の出来事だったのでしょうよ!

 床には海賊二人がすっかりのびて目を回して倒れています。姫と犬の目の前には、海賊との間を遮るように男の人の大きな背中が見えます。

「やあ、大丈夫かい?」

 男の人は振り返って、ふたりに微笑みました。黒い装束、船着場まで道案内してくれた人です。

 驚きと恐怖で声も出ませんでしたが、大丈夫だとふたりはこくこく頷きました。

「よかった。じゃあ少々ここで待っていてくれるかな」

 そう言うと、男の人はさっと騒がしい甲板へ向かって走っていきます。

 ――わあわあ。

 ――ひええ。

 ――ぎゃああ。

 男の人が海賊達の脇を横切る際にさっと手を動かすと、次々に野太い声を上げて海賊達はばたばた倒れていきました。男の人はまるで猿みたいにひょいひょいと舟の上を動き回り、帆旗を吊る縄を自由自在にのぼっては海賊の背後をとっていきます。

「……すごい……」

 あっけに取られた姫が感嘆の息を漏らすと、「忍者だね」と犬が呟きました。

「やあ、お待たせ」

 息一つ切らせずに男の人が戻ってきた時には、もうすっかり舟の上から海賊はいなくなっていました。

 おかげさまで舟は無事予定の時間に陸に到着しました。

 さて、ここからどうしようか。

 船着場で姫と犬が相談していると、忍者が寄ってきました。

「おふたりさん、どうしたの」

 ふたりは忍者に事情を話しました。

「ふむふむ、なるほど。僕もまぼろしの花っていうのは知らないな。けれど、きみたちはまず町へ行くべきだね」

 そう言います。ふたりはきょとんと顔を見合わせます。

「町に行けば花があるの?」

 それとも地図があるのでしょうか? もしくは、人がたくさんいるから、誰かしら知っているだろうということでしょうか?

「いや、そうじゃない。きみの着物はあまりに派手すぎるからね。もっと地味なものに着替えないと、また悪い奴らに狙われてしまうかもしれないよ。だからまずは、町の呉服屋へ行って着替えよう」

 忍者はそう言って、姫の着物を指差しました。

 姫は、きらきらととても美しくて上等の着物をきています。だって、月の姫なのですから。よく目立つので迷子にならなくていいかもしれないけれど、確かに悪者にもすぐに見つかってしまいそうです。

「案内しよう」

 小さなふたりを心配して、忍者は申し出ました。

 そうして、姫と犬と忍者の三人組はいっしょに道を進みます。港から町までの道のりは遠かったけれど、疲れたら忍者が負ぶってくれるので、あっという間に到着しました。

「ごめんくださーい」

 呉服屋の入口で声を上げると、店主とその奥さんが出てきました。

 姫のために新しい着物が欲しいのだと、事情を話しました。すると、子どものいない呉服屋の夫婦は親身になって着物を選んでくれました。

「かわいらしい女の子ですからね、ここいらの絵柄がようござんしょ」

 そう店主が選ぶ着物は、けれどまだまだ派手なのです。おなごの衣装に疎い忍者は口を挟まずにおりましたが、犬と奥さんは「まるで七五三みたい」と口を揃えます。

「けど女の子だから、あまり地味なのもかわいそうだろう」

「そうは言ったって、危ない目に逢ってしまってはかわいそうではないですか」

「なら、これでどうだ」

「かわいいけれど、まだ派手だわ。こっちはいかがでしょう」

「ううむ。少し地味すぎやしないか。かわいいのにもったいない」

「そうねえ」

 姫はまるでお人形みたいに次から次へ着せ替えられます。あまりに時間を掛けるので、三人組は途中でお茶やお菓子や食事までごちそうになりました。

「そもそも、こんなに小さくてかわいいのに旅をするなんて危ないよ」

「本当にそうだわ」

「いっそうちの子にしてはどうだろう」

「あら、いいわね! そうよ、うちの娘におなりなさいな」

 すっかり愛らしい姫を気に入った夫婦は声を揃えました。

「犬もいっしょでいいよ。なんなら忍者もいっしょに雇ってあげよう」

 そう言います。

 なるほど、それもいいかもしれない。姫は考えました。

 この夫婦なら、本当の娘のように姫を大切にしてくれそうです。危ない目に遭うことなく、毎日おなかいっぱいご飯を食べて、あたたかい布団で眠って、犬と遊んで暮らすことができるでしょう。

 けれど。

 いくら呉服屋の娘として暮らしても、本当の自分は月の姫なのです。きっといつもそんな気持ちを残すことになるでしょう。月を見上げるたびに泣いてしまうかもしれません。それに、姫である自分が長いこと留守にすることで、月がどうなってしまうかもわかりません。もしかしたら、毎夜の耀きを失ってしまうかもしれない。

 夕餉までごちそうになった呉服屋の窓から月の光が射し込み、夜空を見上げます。すると、昨日までまん丸だったお月さまが、少し欠けて小さくなっているではありませんか!

「あたしは月へ帰らなければなりません」

 姫はそう言いました。

 呉服屋の夫婦はとても残念そうでしたが、せめて今夜はここに泊まっていきなさいと言いました。そうして、姫と犬は一晩世話になることにしました。忍者はちょっと仕事があるからと、また明朝迎えにくると言って、さっさとどこかへ姿を消してしまいました。

 たった一晩だけでしたが、呉服屋の夫婦はとてもよく面倒を見てくれました。

 夫婦の間に布団を敷いて、姫が眠るまでおとぎ話をしてくれました。どのお話もすべて「めでたし、めでたし」と終わるので、姫は安心してぐっすり眠ることができました。

 翌日は少し寝坊をして目が覚めて、朝ごはんまでしっかりいただいてから、出発することになりました。

「本当に行くのかい」

「ずっとここにいてもいいんだよ」

 夫婦は引き留めましたが、姫は出発を決めました。

 皆のことが大切だからこそ、皆が見上げる月を守らねばならないと決意しました。

「やあ、おはよう」

 と、忍者が迎えに来てくれました。

「なかなかすてきな着物じゃないか」

 呉服屋の夫婦が一日かけて選んでくれた着物は、派手すぎず地味すぎず、なおかつ姫によく似合いました。

 夫婦は着物のお代はいらないと言います。夢のような一日を過ごさせてもらったからね、と。なので、姫は代りにもともと着ていた月の着物を置いていくことにしました。夫婦はその小さな着物を終生大切にしました。

 呉服屋の夫婦は小さな者達の旅路をずいぶん心配しました。だから忍者は、はじめは呉服屋までの案内のつもりでしたが、もうしばらくふたりに付き添うことにしました。さらに呉服屋は、出発の際に、姫に紙と筆と、そうして鳥を一羽あずけました。

「本当は私らもついていってやりたいのだけれど、店を空けるわけにはいかないからね。代りに、この鳥をつれていきなさい。そうして無事に旅を終えたら手紙を書いておくれ」

 呉服屋の奥さんは、名残惜しそうに言いました。

 そうして、姫はかならず手紙を書きますと約束して、白い伝書鳩を仲間に加えて呉服屋をあとにしました。

「昨晩のうちにまぼろしの花について聞き込みをしたんだが、詳しいことは何もわからなかった。けれど、月へ帰るのだから、いっとう高い所に咲く花ではないかと、町のご意見番が言っていた」

 忍者はそう報告し、皆でこの国で一番高い山を目指すことにしました。

 長く険しい旅路でしたが、皆でいると安心して進むことができました。

 白鳩が天高くから見はるかして、危ない道は事前にわかる限り避けるようにしました。それでもスリや山賊に出くわした時には、忍者がやっつけてくれました。犬はくんくんと鼻を利かせて、毎日の食事を見つけてくれましたし、あたたかい体はいっしょに眠ると安心できました。

 そうして長い旅の果てに、ついに日本一の山に到着しました。

 山の麓はうっそうと木が生い茂る森で、まるで樹の海のようでした。

 樹海で迷ったら出てこられないと、茶店のおかみさんが心配しましたが、姫はそれでも行くと言い、皆もそれに従いました。

 ぐんぐん森を進みます。はぐれないよう気をつけながら。

「うー……」

 にわかに犬が足を止めて、低い唸り声を上げました。鼻の頭にしわを寄せ、牙を剥き出し、こんなに険しい顔は見たことがありません。藪の向こうに向かって警戒しているようです。その様子に、忍者はさっと姫をその背中に隠しました。

 と、同時に、ガサガサッと藪から大きな黒い影が飛び出してきました。

 クマです!

 忍者の倍はありそうな大きな体が、皆の行く手を阻みます。

「ワン! ワン!」

 犬は力の限り吠え立てますが、クマはまるで怯む気配もありません。

「犬、もどれ」

 忍者が静かに言い、犬が姫のそばにもどります。

 代りに、忍者が一歩前へ出ました。

 こちらの動きを見て、クマも体勢を低くしました。今にも飛びかかってきそうに、うしろ足の筋肉に力を込めました。

「やっ」

 忍者がクマに向かって手裏剣を撃ち、まきびしを巻きました。クマが一瞬怯んで後退りします。グオオ……、けれど視線はこちらへ向けたまま、大きな口からはだらだら涎をたらしています。

「行け!」

 忍者は背中を向けたまま、姫と犬と白鳩に言いました。

「ここは僕がくいとめるから、きみたちは先へ進め!」

「でも!」姫は二の足を踏みましたが、「行こう」と犬に促されて、忍者に背を向けて力いっぱい走り出しました。

 背後でクマが地面を蹴る音がしました。同時に忍者がクマに向かっていく足音。

 グオオ……、グオオ……。

 カン、カン、カン。

 クマと忍者が戦う音が響きますが、姫たちがその場を離れるにつれてどんどんその音も遠ざかっていきました。

 すっかり遠くまで来てから、ようやく立ち止まりました。

 はあ、はあ。息は切れて、心臓はばくばく飛び出しそうです。

 振り返っても、森はしんとしており、もう自分達がどちらから走ってきたのかもわかりません。

「……忍者は大丈夫かしら……」

 ようやく息を整えてから、姫は絞り出すように言いました。胸がぎゅっとします。

「大丈夫だよ」犬が答えます。

「忍者は一人のほうが自由に戦えるから。わたしたちがいっしょだと、背後を気にしながら戦わなければならないからね。わたしたちが無事に逃げたのを確認したら、煙幕を使って、きっと上手く逃げているよ」

 そう説明してもらって、ようやく姫はほっと胸をなでおろしました。

 けれど、この深い森の中では、忍者とまた会うことはもうできそうもありません。ここからは小さな三人組で進んでいくしかありません。

「けど、どっちへ向かって進めばいいんだろう」

 夢中で走ってきたので、今どのあたりにいるのかもよくわかりません。

 山頂を目指すのでただ登っていけばいいと思っていたけれど、道なき道は上ったと思ったらまた下がって、どこをどう進んでいるのかわからなくなっていきます。

「まかせてください」

 白鳩がぐんと飛び上がりました。

 頭上を覆い隠す木々の葉を抜けて、空に出ました。樹海の上空から見渡すと、山頂の方角は一目瞭然でした。けれど、眼下の緑は深く、残念ながら上からも忍者の姿を見つけることはできませんでした。

 それで、姫と犬は、白鳩が知らせてくれる方向へ進んでいきます。

 道がわからなくなれば、その度に白鳩は空へ上がって方角を確認しました。下では犬が注意深く鼻をくんくんさせて、獣に出くわさないよう気を配ります。

 そうやって、三人組は徐々に山を登っていきました。

 山が高くなるにつれ、緑が減ってきて、いつの間にか道は岩場になっていました。ここからならば、姫と犬でもすっかり山頂が見渡せます。

 それで、白鳩はゆっくりと姫の肩におりてきました。

 しかし、何度も飛んだり降りたりしたため、白鳩はすっかりくたびれていました。山が高くなったせいで空気も薄く、ぜえぜえと荒い息を吐いています。このままさらに登れば気温も寒くなります。

 白鳩はもうこれ以上進まずに、引き返したほうがよさそうです。

「あなたはもうお帰りなさい」

 姫は白鳩に言いました。

「いえ、自分はまだおともします」

 真っ白な顔をしながらそう言います。

「ここから先は見通しがよく、もう山頂も見えているわ。獣もいないようだし、安心よ」

 姫がやさしく言います。

「それにわたしもいるからね。大丈夫だよ」

 犬も舌を出してにこっと笑います。

 食いしん坊で小さくてすぐにぶるぶるふるえる犬がいっしょでなにが大丈夫なものかしらと、白鳩は少し心配しましたが、けれど、確かに体はもう限界でした。

 それで、『もうすぐにまぼろしの花が咲く山頂に到着します』という姫からの手紙をたずさえて、白鳩はふたりと別れて、山を下りて呉服屋へ帰ることになりました。

「お手紙はきっと届けますから。どうぞご無事に」

「ええ。呉服屋のお父さんとお母さんによろしくね」

 姫と犬は、鳩の白い姿がすっかり見えなくなるまで見送ってから、また山を登りだしました。

 けわしい山道でしたが、ふたり励まし合って、少しずつ少しずつ山頂に近付いていきました。

 そうして、山の頂に着いた時には、すっかり夜になっていました。

「この山頂のどこかに、まぼろしの花があるはずだわ」

「うん」

 姫はじっと目をこらし、犬は鼻をくんくんさせながら探しますが、どこにも花など咲いていません。それどころか、山頂には草一本生えていません。

「そんなあ」

 ふたりは山頂に寝転がりました。

 山の上の空気は冷えびえとしており、姫と犬はぎゅっと身を寄せ合いました。

「犬の体はあたたかいわね」

「姫こそ、いっぱい歩いたからあったかいよ」

 ふたりは夜天を見上げます。雲は眼下に白く浮かび、遮るもの一つない夜空には満天の星が浮かんでいます。

「まるでお花畑みたいだねえ」

 犬が言いました。

「本当。……あの中に、まぼろしの花があるのかしら」

 空に散らばる星々をよく見ると、それぞれちがっています。ほかより明るい星、暗い星。チカチカ光る星、じっと輝く星。白い星、赤い星、青い星。けれど、姫にはあれらの星のどれか一つだけが特別だとは思えませんでした。

「きれいだねえ」

 隣で犬が白い息をこぼします。

「そうね」と姫は振り返ると、いっとうきれいなはなを見つけました。

 それは夜の闇にぴかぴか咲いて、触れるとしっとり濡れていて、けれどとてもあたたかなはなでした。そのはなは、間違いなく姫の特別でした。

「見つけたわ」

「え?」

「まぼろしのはな……」

 そう言って、姫は犬をぎゅっと抱きしめました。「まぼろしの」に、自分の鼻をそっとくっつけました。犬はくすぐったそうに笑います。

 そうしてすぐに、大きなあくびをしました。つられて姫もあくびをします。

「ねえ姫、とっても疲れたね……」

「ええ。なんだかとっても眠いわ……」

 そう言ってふたりはゆっくり目を閉じました。体はどんどん冷えていくけれど、心はいつまでもポカポカとあたたかいのでした。

 空には昨晩よりもさらに欠けた月がぷかりと浮かんでいました。

 まん丸の月じゃないけれど、ちゃんと帰ることができるかしら。そう思いながら、姫は眠りに落ちました。あたたかい布団の中で、やさしい声がおとぎ話をかたる声を聞きながら。

 ――めでたし、めでたし。











 どれくらい眠ったのでしょう。

 目を開けると、天井の木目がありました。小さな姫の体はあたたかい布団に包まれています。隣で犬もくうくう寝ています。

「あら! あらあら! 目が覚めたのね」

 そう言って、姫の顔を覗き込んだのは、呉服屋の奥さんでした。

「……おかあさん……?」

 寝ぼけた姫がそう呼ぶと、奥さんは感激して目に涙をためながら、ぎゅうっと姫を抱きしめました。

 あたたかい白湯をのんで、あたたかいおかゆを食べて、ようやく落ちついてから呉服屋の夫婦が何があったのかを説明してくれました。

 日本一の山のてっぺんで姫と犬が眠っていたところ、あとから追いかけてきた忍者が見つけて、ふたりを背負ってここまで連れてきてくれたのだと言います。ふたりを見つける前に偶然再会した白鳩に「見つけたら呉服屋へつれて帰る」と伝言してあったので、呉服屋の夫婦はあたたかい布団と食事を用意して待っていたのだそうです。

 居間を見やると、一足先に帰ってきていた白鳩が「おかえり」と羽を広げました。

「ねえ、おじょうちゃん。もう一度聞くけれど、うちの子にならないかい?」

 呉服屋の夫婦が姫の前に並んで問います。

 隣で犬も心配そうに見上げます。が、姫の答えは決まっていました。

「はい!」

 そうして、姫は呉服屋『満月堂』の娘になりました。犬もいっしょです。

「番頭さーん、お客さんだよ!」

 呉服屋の娘が元気いっぱいに店の中へ向かって声を掛けます。

「やあ、いらっしゃいませ」

 と、黒い着物のにんじゃ……、いえ、番頭さんが出てきて「お嬢さんありがとう」とウインクしました。呉服屋の店内の着物は色とりどりの絵柄に染められて、まるでお花畑や満天の星空のようでしたとさ。

 めでたし、めでたし。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月花 香久山 ゆみ @kaguyamayumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説