第4話 暖簾の向こうに灯る未来
鍋田浜から歩いてわずか1分。
隼は実家である「とんかつ 暁亭」の暖簾をくぐった。
店内に足を踏み入れた瞬間、懐かしい香ばしい揚げ油の香りが鼻をくすぐる。
そして、店の奥からは、活気に満ちた笑い声や、湯気の立つ厨房から響く調理の音が混ざり合っていた。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声が厨房から飛んでくる。
「おお、隼ちゃんか! 久しぶりだな!」
叔父の声が響くと、店内の客たちが一斉に振り向いた。
「え、お孫さんなのか! おかえり!」
「おお、暁亭の坊ちゃんか!」
「今日はどうしたんだい?」
温かい言葉が次々と飛んでくる。
「……久しぶりに、ゆっくりしたくて」
その一言に、店内の人々が笑い合った。
「じゃあ、こっちの席空けるよ!」
座敷の席に居た客たちは自然と席を詰めて、隼のためにスペースを作ってくれた。
奥からは祖父母が出てきて、目を細めながら言う。
「帰ってくるなら、一言言ってくれればいいのに……!」
「ビールでいいかい? ほら、ダウン預かるわ!」
「そんな、大丈夫だよ」
そう言った矢先に、隼のダウンは祖母の手に渡り、テーブルには冷えたグラスが置かれた。
早速、一口飲む。喉を滑る冷たさと、心をほどくような優しい苦味が広がる。
周囲を見渡すと、誰もが楽しそうに談笑し、賑やかな会話が飛び交っていた。
「最近釣った魚がすごかったんだよ!見てくれっ!」
「この前、新しいメニュー考えてみたんだけどな……どうだ、天才だろ?」
「おいおい、そろそろプロポーズするんだろ? どこでするか決めたのか?」
「みて! うちの子、もう一歳になるんだけど、天使すぎない!?」
ビールを片手に、刺身やとんかつをつまみながら、それぞれの何気ない話題に盛り上がる老若男女。
特別なことではない、けれど、そこには都会では感じられない「生き生きとした幸福」が満ちている気がした。――ただそこにいるだけで、心が温かくなるような、そんな空間。
やがて、祖父が厨房から特製『暁定食』と『ヤングマンステーキ』を運んできた。
「お腹空いてるだろう?さあ、たくさん食べて!」
隼は箸を取り、分厚いとんかつにそっと刃を入れる。
サクッとした衣の音とともに、肉のジューシーな断面が顔を覗かせる。
一口頬張ると、サクサクの衣と、じんわりと広がる旨味が、懐かしさとともに心を満たしていく。
「……やっぱり、美味しいな」
幼い頃、食べた大好きな味と変わらない。
口の中に広がる幸福感を噛み締めていた、その時——。
「こんばんは」
ふと、店の入り口から若い女性の声がした。
振り向くと、肩までの黒髪をさらりと下ろした女性が暖簾をくぐってくる。
「ああ、七美(なみ)ちゃん!」
常連客のひとりが彼女を見つけ、明るい声をあげた。
「七美ちゃん?」
隼が首をかしげると、隣の席の男性が誇らしげに言った。
「この町の若きエースさ! 市役所で下田のPRを担当してるんだ。東京の有名な大学を出て、地元のために戻ってきたんだよ!」
「へえ……」
周囲の客たちも、七美と呼ばれる女性を見て口々に言う。
「七美ちゃんはすごいんだ。観光業のことも、まちづくりのことも、真剣に考えてる」
「下田を盛り上げるために、毎日頑張ってくれてるんだよ」
「若いのに、本当に立派な子だよなあ」
そんな周囲の声に、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。
「そんな、皆さんが協力してくださるからです」
謙遜しながら席に腰を下ろし、注文を済ませると、ふと隼の存在に気づき、軽く会釈した。
「すみません、はじめまして、ですよね……?」
「ああ、こいつは暁亭の孫の隼ちゃんだよ!」
その言葉に、七美の瞳が一瞬驚いたように揺れる。
「え、暁亭の……!私は、上村七美(うえむらなみ)と申します!」
「それに、隼ちゃんはすごいんだ。俺はよく分かんねえけど、東京にある海外のすごい会社で、経営とか戦略とかの仕事をしてるんだよ!」
その言葉に、七美はさらに驚いたように目を見開いた。
「……そんなすごい会社に?」
「いえ、それほどでも。今日は、お仕事終わりですか?」
隼が何気なく問いかけると、七美は小さく頷いた。
「ええ……下田市のPR活動のことで、少し……いや色々と考え込んでいました」
「PR活動……?」
興味を引かれて尋ねると、七美は真剣な表情で話し始めた。
「私は大学を卒業した後、一度東京で就職したのですが、やっぱり地元のために働きたくて戻ってきたんです。下田市をもっと活気ある町にするために、PR活動を頑張っているんですけど……」
そこで、少し困ったような表情を浮かべた。
「でも、一人でできることには限界があるし……経営学は学んでいたものの、社会人としてビジネスをバリバリやっていた経験はないので、なかなか成果が出せなくて……。誰か、企業の経営や戦略に詳しい人が一人でもいればと……」
その言葉に、隼は静かに息をのんだ。
七美の悩みは、自分の心の中にあった問いとどこか重なるように思えた。
……自分の力を、どこで発揮するべきなのか――?
その答えが、ここにあるのかもしれない——。
気がつけば、心の奥にあったモヤモヤが少しだけ晴れていた気がした。
そして——。
隼は静かに口を開いた。
「……お話、聞かせてくれませんか?」
ふと口をついた言葉に、七美が驚いたように顔を上げる。
「え……?」
「東京で経営戦略の仕事をしてきました。企業の成長を支えるのが仕事でしたので、地方の活性化には携わったことがありませんが。私も、下田を愛する気持ちがあります……!」
七美は一瞬戸惑った表情を見せたが、やがて小さく頷いた。
「本当ですか……?」
「ええ。もちろん、すぐに何かできるわけじゃないですけど、もしよければ、一緒に考えさせてもらえませんか?」
その言葉を聞いた瞬間、七美の顔に安堵と希望が入り混じったような笑みが浮かんだ。
「……ありがとうございます」
気がつけば、店内の常連客たちも、興味深そうにこちらを見ていた。
「隼ちゃん、いいじゃないか! せっかく帰ってきたなら、少しは町のことにも関わってみろよ!」
「そうだそうだ、東京で溜め込んでた知恵を俺たちにも分けてくれよ!」
みんなの声に、隼は思わず笑ってしまった。
「……そうですね。まずは、美味しいとんかつを食べながら、話しましょうか」
そう言って、とんかつを一口頬張る。
サクサクの衣と広がる肉の旨味――幼い頃から慣れ親しんだ味。
この町には、確かに自分の帰る場所がある。
そして、自分の力を活かせる場所も――。
隼は熱々の味噌汁をすする。
心の奥にあった迷いが、少しずつ溶けていくのを感じながら。
(完)
P.S
拙作「碧海の潮風に抱かれて」をお読み下さりありがとうございました。
本作は今後の続編を執筆する可能性もございますが、現時点ではここまでを一つの作品として公開しております。
もしご縁がありましたら、この物語をさらに広げ、長編として描くことも検討したいと考えております。
拙い点もあるかとは思いますが、温かく見守っていただけましたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
碧海の潮風に抱かれて 白河 隼 @shirakawa_shun_2016
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