第3話 海に問いかけた幸せのかたち
冬の下田の空は、どこまでも透き通り、夕方が近づくにつれて茜色に染まり始めていた。
海はまるで鏡のように穏やかに広がり、波のさざめきが優しく耳を包み込む。
隼は足の向くままに、鍋田浜の防波堤へと向かった。
観光客の姿はほとんどなく、ただ漁を終えた漁船が、遠くの海面にゆったりと浮かんでいる。陽の光が船体を照らし、淡いオレンジの輝きが波に溶け込んでいた。
「……静かだな」
都心では決して味わえない、深く澄んだ静寂。
ゆるやかな波が防波堤に寄せては返し、規則正しい音を響かせる。
遠くでカモメの鳴く声が風に乗り、どこか懐かしさを感じさせる。
隼は石造りの防波堤によじ登って手をつき、砂を払いながら腰を下ろした。
海を眺めながら、今日一日をゆっくりと振り返る。
ペリーロードの歴史ある街並み。
地元の店で味わった、新鮮な魚の旨味。
カフェで過ごした、穏やかで満ち足りた時間。
どれも、特別なことがあったわけではない。だが、そのどれもが心に深く刻まれている。
「こういうのも悪くないのかもな……」
潮風がそっと髪を揺らし、頬を冷たく撫でる。
――今の自分は、都会の競争社会の中で、いかに効率よくスキルを磨き、豊かで安定した生活を築くかしか考えていなかった。
まだ20代半ば。それなりに成果も出している。
小さい頃から競争は嫌いじゃない。勉学も仕事も一定以上向いているだろう。
だが――本当にそれだけが人生の選択肢なのだろうか?
防波堤に長く伸びる自分の影を見つめながら、静かに思索を巡らせる。
「幸せ……ね」
遠く、夕日がゆっくりと海へと沈んでいく。
黄金色に染まる水面が、波のリズムに合わせてきらきらと輝き、幻想的な光景を生み出していた。
――まるで時が止まったかのような穏やかな瞬間に、胸の奥がじんわりと温まるのを感じる。
防波堤に手をつき立ち上がると、ダウンの裾が潮風に揺れた。
「……そろそろ行くか」
まだ名残惜しさがあったが、夜の冷え込みが強くなり始めた。
ゆっくりと鍋田浜を後にしながら、隼は心の中で呟く。
――さて、実家に帰ろうか……!
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