第2話 潮の香りと、温かさに包まれて

 東京駅から新幹線で熱海まで行き、そこから伊豆急行に乗り換える。


 伊豆の海沿いを走る列車の窓からは、冬の青い海が広がっていた。

 夏の賑やかな海とは違い、静かで穏やかだ。観光客も少なく、車内にはのんびりとした時間が流れている。


 「……やっぱり、いいな」


 そう思いながら、列車に揺られること約3時間。

 伊豆急下田駅に降り立つと、潮の香りを含んだ冷たい風が頬を撫でた。


 幼い頃に何度も来た駅前。変わらない風景に、懐かしさがこみ上げてくる。


 「せっかく朝早くに来たんだ。まずは街を歩いてみよう——」


 ゆっくりと駅を出て、ペリーロードへ向かう。

 石畳の道には歴史的な建物が並び、静かに流れる川が冬の光を反射してきらめいている。


 道端にあるベンチに腰掛け、深呼吸をした。


 「いいとこだろ?」


 ふと声をかけられた。振り向くと、年配の男性が新聞を小脇に抱えながら微笑んでいた。


 「ええ……なんだか落ち着きますね」


 「観光かい? 冬に来るなんて珍しいな」


 「いえ、実は祖父母がこの町に住んでいて。久しぶりに帰ってきたんです」


 「へえ、それはいいな。どこの家だい?」


 「……『暁亭』っていうとんかつ屋なんですが」


 その言葉を聞いた瞬間、男性の表情がパッと明るくなった。


 「おお! 『暁亭』の孫か! そりゃまた、下田の名店じゃないか!」


 周囲にいた数人の地元の人たちも、それを聞いて振り向く。


 「『暁亭』の坊ちゃんなのかい?」


 「おお、今年は行けてないが、よく食べに行っとるよ!」


 次々と話しかけられ、驚きつつも、どこか嬉しさが込み上げてくる。


 「いやぁ、おじいさんにはよくお世話になったな。今日は実家に泊まるのかい?」


 「ええ、そのつもりです」


 「そりゃよかった。あそこの『エビフライ』と『ヤングマンステーキ』は最高だからな。最近観光客は減っちまったが、地元の連中は今でも通ってるぞ」


 東京ではありえない、温かいやりとり。まあ、お店が有名なこともあるだろうけど——。


 「今日はどこ行くんだ?」


 「ちょっと街を歩いて、それから海のほうへ行こうかと」


 「いいねぇ。下田はゆっくりするのが一番だ。都会のことは一旦忘れて、のんびりしていきな」


 隼は温かく迎えてくれた下田の人たちに微笑んで会釈し、ペリーロードを後にした。


 歴史ある街並みを抜けたあと、隼は「魚助」という地元の海鮮料理店の暖簾をくぐった。

 カウンターに座ると、店主が気さくに話しかけてくる。


 「お兄さん、都会の人かい?」


 「ええ、東京から来ました」


 「そうかいそうかい。この時期に下田に来るなんて、珍しいねえ」


 「祖父母が下田に住んでいて、久しぶりに来たんです」


 「ほう、どこだい?」


 「『暁亭』というとんかつ屋です」


 「おおっ! 暁亭の孫か!」


 またしても、周囲の客たちが反応した。


 「おい、『暁亭』の坊ちゃんが来とるぞ!」


 まるで親戚の集まりのように、店内が一気に賑やかになった。


 すると、カウンターの向こうから、年配の女性が顔を覗かせる。


 「あらまあ……もしかして、隼くんじゃないの?」


 驚いて視線を向けると、そこに立っていたのは、どこか見覚えのある女性だった。


 「……すみません、どなたでしたでしょうか?」


 「やだねぇ、忘れちゃったのかい。十年以上前、『暁亭』のホールで働いてたじゃない!」


 隼は一瞬、頭の中で記憶を手繰った。

 そして思い出した——小学生の頃、祖父母の店でよく遊んでいたとき、いつも優しく声をかけてくれたおばさんだ。


 「……あっ! もしかして、佐和子さん?」


 「そうだよ! 本当に立派になったねぇ!まさかこんなに大きくなってまた顔が見れるとはねぇ」


 佐和子さんは嬉しそうに手を叩き、店主や他の客たちも興味津々で隼を見つめる。


 「いやぁ、懐かしいなぁ。お父さんやお母さんや妹ちゃんも元気かい?」


 「はい、みんな元気です」


 「それはよかった! 隼くんが来てるなら明日お店に挨拶に行くわ」


 「ありがとうございます……!」


 店主が笑いながら、カウンター越しに金目鯛の煮付けを差し出す。


 「暁亭の坊ちゃんが来たってんなら腕を振るわなきゃな。ほら、これも食べてくれ!絶品だぞ……!」


 「そんな、いいんですか?」


 「いいんだよ、ここはそういう町だ」


 佐和子さんも頷いて、「せっかく帰ってきたんだから、ゆっくりしていきなさい」と温かく言った。


 優しい言葉と、温かい料理。


 「……ありがとうございます」


 ふと、そんな言葉が自然に口からこぼれた。


 食事を終えた後、さらに町を歩き、カフェ Perry に立ち寄る。

 店内に入り、窓際の席に座ると、店主が気さくに話しかけてきた。


 「お兄さん、どこから来たの?」


 「東京です」


 「お、都会の人だね。観光かい?」


 「実は……」


 そう言って、また『暁亭』の話をすると、店主が笑顔になった。


 隼は、目の前のコーヒーをゆっくりと口に運ぶ。


 冬の澄んだ空気の中で、心が少しずつほどけていくのを感じる。


 「都会の生活が全てじゃないのかもな……」


 そんな思いが、ふと頭をよぎった。


 ——次は、海へ行こう。


 そう思いながら、静かに席を立った。

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