ユルサズ。
石束
芹沢鴨暗殺事件
ひりつくような渇えがあった。
もだえるような餓えがあった。
急き立てられるような焦燥もあって、何が何でも今でなければならぬと、思い定めた。
それほどまでに、『武士』に焦がれた。
何が何でも武士になってやろうと、そう思った。
◇◆◇
お前はなんでまた京に来る気になったのだ? そんな誰かの寄越した問答に、古馴染み同士の気安さからうっかりもらしたそんな「憧れ」を、
「武士だ百姓だなんて、そんなの、大した違いなんてありませんよ。人なんてものは、どいつもこいつも一皮めくればみんな同じようなもんでしょうに」
という具合に、年下のくせにいつの間にか自分よりも強くなっていた道場仲間から、笑われた。
それがあまり屈託ない、軽い上にも軽い言いようだった。
人は、他人から己の憧憬(しょうけい)を笑われると、意外なほどに腹を立てる。いかにもどうでもよさげに言われたのが、なおさら頭にきた。
ついに、ムキになって言い返した。
「だからこそ、だろうがよ」
思えば、何故にそこまでムキになったのか、自分でもよく分からない。
「一皮めくれば一緒だからこそ、その皮一枚で値打ちが決まるのさ」
吐いた己が鼻白むほどに、そのまま恥ずかしげもなく言い切った。
それでも、すくなくとも彼は、そう思っている。
一枚めくったその先に、隠れた値打ちなどない。男の貫目は一番外側の皮一枚に宿った器量で決まる。
青臭いことを、何で今更と思わぬでもない。
まったく、闇夜、雨の中。屋敷の庭先の前栽の陰、潜んで行うにはなんとも不似合いな会話だ。
「あぁん? なんだそりゃあ。つらの善し悪しで、男が決まるってか。二枚目は言うことが違うねえ――ああ、いやだ」
あくび交じりの能天気な口調が割って入る。すぐさま
「てめえだって、女は器量でえり好みしてやがるだろうがよ」
と別の声がちゃちゃをいれた。
「なんだよ、源さん。俺は、相方はいつも情で選ぶぜ」
「さのすけさん、騙されてますよ。女のひとは本心なんて見せません。情があるように見せるのが、商売の手妻というものです」
「夢がねえな! ……つうか、総司。なんかあったのか?」
「ほら。井上さん。これが真心というやつですよ」
「さのすけ、お前本当にいいやつだな」
「……え? なに? 俺、誉められてる? なんで?」
まこと、緊張感に乏しい寄り集まりであるが、そこへ
「諸君、そろそろ黙ろうか?」
と、笠の結び目をほどき、腰刀をくつろげながら、山南敬助が言った。流儀は北辰一刀流。
「雨とはいえ、酔いつぶれとはいえ、油断は大敵だ」
笠の上で雨が跳ねれば、雨音に変化が生じる。接近を気取られるかもしれない。
さりげなく、雨戸へ忍び寄る際に笠をとる用意周到は、この男の頭脳の冴えと胆力を表している。
「なるほどなるほど」
試衛館の古株、井上源三郎は泥を掬って顔面に塗りたくる。
「うし。さっさとケリをつけて女を抱きに行くとするか!」
原田左之助。槍は植田流。今夜は柄に布を巻いた長脇差を腰にぶち込んでいる。いかにも物慣れた風が不敵であった。
「まあ、すぐに終わるんじゃないかな? 終わらなかったら、こっちがよほどのヘボってことだからね」
「油断禁物だぞ、総司」
沖田総司の軽口をたしなめて、彼、土方歳三はやや顔をしかめた。己の吐いた文言が山南の忠告を剽窃したみたいになったからだ。この男は、こっそり俳句もたしなむ。号は豊玉という。
その土方は「やるぞ」と、頭を一振りして足元を踏みしめて静かに立ち上がった。すっと、その背後に影のように沖田総司がつき従う。
井上源三郎と沖田総司、そして土方歳三は天然理心流道場試衛館の同門である。
まごうことない田舎の小流儀で門人の数もたかが知れていた。道場破りが訪れるたびに他流に助っ人を頼むほどに竹刀の試合には弱かった。だが後世、この天然理心流は「実戦にはめっぽう強かった」といわれるようになる。それはごく単純な事実として、実際の切り合いの現場でこそ猛威をふるったからだ。
「会津中将さまのご下命により、芹沢鴨とその一党をこの場にて討ち果たす」
その伝説は――この夜から、始まる。
◇◆◇
芹沢 鴨(せりざわ かも)は、幕末の水戸藩出身の浪士である。
安政年間、水戸藩では、朝廷から藩主に下された幕政改革の勅書、いわゆる『戊午の密勅』(ぼこのみっちょく)を巡って藩論が二分し、大勢として勅書は返納されることになったものの、返納反対派は結集して徒党を組み返納の使者を待ち構えて襲撃しようとする構えを見せる。事態が膠着する中、この集団は一部は井伊大老暗殺に向かい、また攘夷決行をうたって豪商から資金を調達したり戦闘訓練を始めたりした。しかし近隣の天領まで出張って強引な資金集め――いわゆる『押し借り』をはたらいたため、ついに切り捨て許可つきの捕縛令が下された。
桜田門外の変で大老が暗殺され、幕府からの圧力が弱まると、水戸藩は密勅の受納と反対派藩士の釈放を行うが、あまりにひどい行状の藩士は長めに留め置かれた。芹沢とその一派はその「ひどい」内にはいる。
その後、芹沢は幕府が組織した浪士組に新見錦以下の一派を率いて参加。上洛するその上洛旅程の本庄宿で、手違いにより芹沢の宿所が手配されていなかったことに腹を立て、街中で大かがり火を焚くなどした。
上洛後、浪士組発起人の清河八郎の狙いが、攘夷の決行の同志を集めと判明したのちは、芹沢鴨と近藤勇は脱退。会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを「御預かり」とすることを決め、壬生の八木邸を屯所とした。これが「壬生浪士」である。
壬生浪士は内部抗争の果てに、芹沢派と近藤派が残り、芹沢・近藤・新見が局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となった。
不定浪士取り締まりのための大坂下向の際に、すれ違った力士と揉め事を起こし、同行していた近藤らも巻き込んで乱闘騒ぎに発展した。
同じころ水口藩の公用方と揉める。紆余曲折あって手打ちの宴会となったが、酒乱の芹沢は大暴れをして店主の角屋に7日間の営業停止を一方的に申しつけている。
そして、芹沢は決定的な事件を引き起こす。
京都葭屋町一条下ル所に大和屋という大店(おおだな)があった。脅されたとはいえ反幕勤王の天誅組に献金した前例があり、その大和屋に対して芹沢は、壬生浪士への活動資金の借用を申し入れた。が、主の不在を理由に店が断わると、芹沢は激怒。どこからか強奪してきた大筒を店の前に引き据えて恫喝した上で、壬生浪士を動員して店を焼き討ちにした。
大和屋は店も蔵もことごとく灰燼に帰した。
こと、ここに及んで、朝廷も公家も、京都守護職である会津公も、芹沢鴨と浪士組を放置することができなくなった。
でっぷり太った大男で、風采は悪くなかった。朝廷や公家にもウケの良い水戸藩出身、攘夷の総本山たるそこで、もっとも先鋭的な暴れ者だったという経歴も、京で押し出すには悪くなかった。
近藤勇なども、豪傑とはああいう男をいうのだと認めていたが、正直、土方の目にはそう大した男には見えなかった。
自分の経歴を鼻にかけ、乱暴狼藉を自慢話にして、刀をちらつかせて恫喝しては、金品をゆすり取る。
武器を持たない名主や商人相手に鉄扇を振り上げる。
憂国の志士が聞いてあきれる。あれは多摩の田舎でも珍しくない、腕っぷし以外は何のとりえもない、ただのゴロツキだ。
あのバカが、どこで破滅しようとしったことではない。
だが、それに近藤や試衛館の仲間までが巻き込まれるのは我慢ならない。
◇◆◇
雨が降っている。沼のような暗闇が視界を覆う。
息をひそめ、足音を殺し。かねて工作しておいた寝所から一番遠い雨戸を、音もなく外す。
実は、その他の雨戸はすべて釘で止めてある。土方が段取りを説明した時、山南は
「こいつは忠臣蔵だ」
と薄く笑った。
笑われたのはカンに触ったが、忠臣蔵のたとえはわるくないと思った。
静かに静かに、泥闇を進む。標的は女を抱えて、正体なく寝込んでいた。枕元に何やら大層な銘の愛刀を置いている。
自分が誰かに狙われるという自覚がある。だから用心する。当然といえば当然だ。
手が届く範囲に刀をおいているのは、見ようによっては油断をしていないということだろうが、土方にはそれが、見苦しく思えた。
床の間のからっぽの刀掛けにちらりと視線をやる。
要するにコイツは、怯えているのだ。大の男が己の命を惜しんで何ができる。
尊王攘夷の大本山、水戸の武士も、しょせんこの程度。
ああ、ハラが立つ。体中の血が一滴残らず沸騰するような、怒りが湧いた。
「……え? 土方さん、何を」
肩越しに沖田の押し殺した声が聞こえたが、土方は聞こえないふりをして、
「オイ、芹沢鴨、起きやがれ。 てめえ、それでもサムライか」
と芹沢の枕を蹴り飛ばした。
かっと両の眼を開いて、芹沢が起き上がり、枕元の愛刀に手をやるが――その手は空を切った。
「ほい、ざんねん」
いつのまにか枕元にいた井上源三郎が刀の下げ緒を引っ張って、するりと掠め取ったのだ。
ついで、芹沢の隣の女が声を上げようとして、そのまま崩れ落ちた。
「ああ、もったいねえ。いい女だったのに」
左之助が長脇差を女の胴から引き抜き、次いで首めがけて振り下ろした。
「うおおおおお」
刀を諦めて芹沢が逃亡するが、隣の部屋ではすでに山南が一派の平山を仕留めている。
土方はそのまま芹沢を追い立てる様に、屋敷を進む。芹沢は這いつくばり転げまわり出口をさがすが、戸板は打ち付けられ、襖にはくぎが打たれている。
明かりの落とされた暗夜の迷路。
やがて、一つだけ開いた雨戸から、庭先に逃げおちる。
「ひひ」
どこで切られたか引っかけたか、足裏が血のりでぬめる。
「ひきょうな、闇討ちとは、武士の風上におけぬ!」
続いて庭先に降りた土方は、それを鼻で笑った。
「うるせえよ。手前ごときが『武士』を語るな」
外は相変わらずの豪雨である。だが、その言葉で芹沢鴨にも自分の前に立っている男が何者であるか、わかった。
「き、さま、土方、何故、この俺を」
何故だと?――それはなあ
「お前が息をするたびに、俺の武士(あこがれ)が、よごれるからだ」
土方は、武器を持たない芹沢鴨を滅多切りにした。
「あらら、結局一人でやっちゃいましたか」
全部終わった後で、雨戸の陰からひょっこり沖田総司が顔を出した。顔を出して、一瞥して、「ほらね」と軽く言った。
「やっぱり、一皮むいたら、いっしょじゃありませんか」
◇◆◇
翌日、近藤勇の供として、土方歳三は犯行現場の八木邸を見分した。
実行犯は不明である。芹沢鴨をなぜ狙ったのか動機もわからない。
だが、下手人は長州藩の手の者であると思われると、記録に残した。
ユルサズ。 石束 @ishizuka-yugo
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