陳寿の筆法[翻訳]

原田庸

三國志書法(三国志の筆法)

※趙翼『二十二史 さっ』「三國志書法」の現代日本語訳。原文の下に訳を併記。



自左氏、司馬遷以來,作史者皆自成一家言,非如後世官修之書也。

『春秋左氏伝』の左氏や『史記』の司馬遷をはじめとして、みずから史書を著述した人々はみな自分の主張を持っていた。

後世の官撰の書籍とはおもむきが異なっている。


陳壽三國志亦係私史。

陳寿の『三国志』もまた私撰の史書である。


據晉書本傳,壽歿後,尚書郎范頵等表言「壽作三國志,辭多勸戒,雖文艷不若相如,而質直過之。」於是詔洛陽令,就其家寫書。

『晋書』の伝によれば、陳寿の没後、尚書郎の范頵らがこう上表したという。

「陳寿の『三国志』の書きぶりは教訓に富んでおり、文章の艶やかさでは司馬相如には及ばないものの、実直さではまさっています」

そこで皇帝が洛陽令に詔を下し、陳寿の家に行かせて『三国志』を筆写させたということだ。


可見壽修成後,始入於官也。

つまり『三国志』は陳寿が編纂を終えた後に官に取り上げられたのである。


然其體例,則已開後世國史記載之法。

しかしその記述形式においてはすでに後世の国史記述のやり方が始まっている。


蓋壽修書在晉時,故於魏晉革易之處,不得不多所迴護,而魏之承漢與晉之承魏一也,既欲為晉迴護,不得不先為魏迴護。

陳寿は晋の時代に著作したのであるから、魏晋革命に関しては晋に不都合な記述をさけざるをえないことが多々あったであろう。

魏が漢を継いだことと晋が魏を継いだことは同じ形であるため、陳寿が晋をかばおうとすれば、まず魏をかばわざるをえなかったはずだ。


如魏紀書天子以公領冀州牧、為丞相、為魏公、為魏王之類,一似皆出于漢帝之酬庸讓德,而非曹氏之攘之者。

例えば魏書武帝紀で、天子(献帝)が公(曹操)に冀州牧を領させたとか丞相としたとか魏公にしたとか魏王にしたとかいった類の書き方がされているのは、あたかもすべて漢の皇帝が功績に報い徳を譲ったかのような体裁であり、曹氏が漢から奪ったようには見えない。


此例一定,則齊王芳之進司馬懿為丞相;高貴鄉公之加司馬師黃鉞,加司馬昭袞冕、赤舄、八命、九錫、封晉公、位相國;陳留王之封昭為晉王、冕十二旒、建天子旌旗,以及禪位於司馬炎等事,自可一例敘述,不煩另改書法。此陳壽創例之本意也。

この例が定着しさえすれば、斉王芳(曹芳)が司馬懿を丞相に進めたこと、高貴郷公(曹髦)が司馬師に黄鉞を与え司馬昭に袞冕・赤舄・八命・九錫を与え晋公に封じ相国に就かせたこと、陳留王(曹奐)が司馬昭を晋王にし十二旒の冕冠をかぶらせ天子の旌旗をたてさせたこと、および司馬炎に禅譲をしたことがおのずと同じ例として叙述でき、書き方を変える手間がいらない。これが陳寿の記述の意図である。


其他體例亦有顯為分別者。

これとはあきらかに異なるも記述形式もある。


曹魏則立本紀,蜀、吳二主則但立傳,以魏為正統,二國皆僭竊也。

曹魏には本紀を立てながら蜀と呉の二主には伝を立てるだけにすることで、魏を正統として二国をいずれも僭越に地位を盗んだものだとしている。


魏志稱操曰太祖,封武平侯後稱公,封魏王後稱王;曹丕受禪後稱帝。而于蜀、吳二主則直書曰劉備、曰孫權,不以鄰國待之也。

魏志では曹操のことを太祖と呼び、武平侯に封じられたあとは公と呼び、魏王に封じられた後は王と呼び、曹丕が禅譲を受けたあとは帝と呼んでいる。一方、蜀・呉の二主については、じかに劉備・孫権と呼び、隣国としては扱わない。


蜀、吳二志,凡與曹魏相涉者,必曰曹公、曰魏文帝、曰魏明帝,以見魏非其與國也。

蜀志と呉志では、曹魏と関わる部分では必ず曹公、魏文帝、魏明帝と呼び、魏が蜀や呉と同類ではないことを表現している。


魏書於蜀、吳二主之死與襲皆不書。

魏書は蜀・呉の二主の死と継承をみな書かない。


如黃初二年,不書劉備稱帝;四年不書備薨,子禪即位。太和三年,不書孫權稱帝也。

例えば黄初二年に劉備が皇帝を称したことを書かず、四年に劉備が薨去し子の劉禅が即位したことを書いていない。

太和三年には孫権が皇帝を称したことを書いていない。


蜀、吳二志,則彼此互書。

蜀志と呉志は互いに書いている。


如吳志黃武二年,書劉備薨於白帝城。蜀志延熙十五年,吳王孫權薨。

例えば呉志では黄武二年に劉備が白帝城で薨去したことを書いており、蜀志では延熙十五年に呉王孫権が薨去したことを書いている。


其於魏帝之死與襲,雖亦不書,而於本國之君之即位,必記明魏之年號。

魏帝の死と継承については書かないが、当事国の君主の即位にさいして必ず魏の年号を明記してある。


如蜀後主即位,書是歲魏黃初四年也。吳孫亮之即位,書是歲魏嘉平四年也。

例えば蜀の後主の即位にさいしては「是歲魏黃初四年也」と書き、呉の孫亮の即位にさいしては「是歲於魏嘉平四年也」と書いている。


此亦何與於魏?而必係以魏年,更欲以見正統之在魏也。

蜀や呉の即位が魏となんの関係があろうか。しかし必ず魏の年号と結び付け、正統が魏にあることを示そうとしているのである。


正統在魏,則晉之承魏為正統,自不待言。

正統が魏にあれば、晋が魏を継いだのも正統であることは言うまでもない。


此陳壽仕於晉,不得不尊晉也。

陳寿は晋に仕えていたため、晋を尊重せざるをえなかったのだ。


然吳志孫權稱帝後,猶書其名,蜀志則不書名而稱先主、後主。

ところで、呉志では孫権が皇帝を称した後にもその名前で書いてあるが、蜀志では名前を書かずに劉備を先主、劉禅を後主と書いてある。


陳壽曾仕蜀,故不忍書故主之名,以別於吳志之書權、亮、休、皓也。此又陳壽不忘舊國之微意也。

陳寿はかつて蜀に仕えていたため、もとの主の名を書くことは忍びなく、呉志で孫権、孫亮、孫休、孫皓と書くのとは異なる書き方をした。これは陳寿が旧国を忘れないという気持ちを表現したものだ。


(顧寧人謂劉玄德帝於蜀,謚昭烈,本可即稱其謚,而陳壽既改漢為蜀,又不稱謚而稱先主,蓋以晉承魏紀,義無兩帝也。然其稱先主、後主以別於吳,究是用意處。)

(顧炎武のコメント:劉玄徳は蜀で皇帝となり、昭烈とおくりなされたのだから、もともとは諡号を呼べばいいはずであった。しかし陳寿の頃には蜀の漢王朝はすでに滅んで晋の中の一地方としての蜀となっていたため、諡号で呼ばずに先主と呼んだ。晋は魏を継いだ王朝であるため、皇帝が並び立っていたことにしては筋が通らなかったのであろう。そうして先主・後主と呼び、呉と差別化したのは、狙いすました表現である。)


※訳は日本語としての意味の通りやすさを優先したものです。正確に把握したいかたは原文をご参照下さい。


原文引用元:

国学导航-廿二史劄記


引用元URL:

http://www.guoxue123.com/biji/qing/ees/006.htm


最終閲覧日:

2025年3月3日

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