ランナウェイ
青切 吉十
私を連れて……
木製のメニューブックの表紙を開くと、「なつかしの名曲とおいしいステーキの店」という文言が斜体で書かれていた。
メニューを見ていると、対面で坐っている鈴村がじっと僕を見つめていた。
「メニューは見ないのかい」とたずねると、鈴村が「ここで頼むものは決まっている」と言ったので、僕もメニューを閉じて、「じゃあ、君と同じのにするよ」と応じた。
「酒はどうする。ワインでいいか?」と鈴村がたずねてきたので、僕は「君に任せるよ」と答えた。
鈴村が店員を呼び、あれこれと注文した。よく訓練されていると思われる店員は、きびきびと対応した。
「ご注文は、特選黒毛和牛コースのテンダーロイン150グラム。お飲み物は……」
ワインが来る前、ふたりが黙っていると、シャネルズのランナウェイが店内に流れた。
「ここはコスパのいい店なんだが、曲のセンスが私には合わないね」
そのように言う鈴村に僕は、「嫌いじゃないけどね。シャネルズ」と答えた。すると、「私もそうだよ。だが、ステーキには合わない」と言ってから、鈴村が話をつづけた。
「そうそう。昔、シャネルズのCDを友達から借りたとき、ケースの爪を折ってしまってね……。あれはわるいことをしたな。いまとなってはどうでもいい話かもしれないが、たまに思い出してちょっと嫌な心持ちになる」
鈴村の言に僕が「だれしも、そういうことはあるよ」と答えると、彼は「本当に?」と微笑を浮かべた。
店員が来て、ワインのラベルを鈴村に見せた。鈴村がうなづくと、店員は赤い液体をグラスにそそいでから、ボトルをテーブルのうえに置いた。
鈴村がワインに口をつけてから言った。
「シャネルズか。田代まさしは嫌いじゃなかったな。何ていう番組だったけ、志村けんの……」と鈴村が問いかけてきたので、「だいじょうぶだぁ、かな」と僕は答えた。
「仕事はうまくいっていたが、ストレスがたまっていたのだろうかね。魔がさしたというか。どうなのだろうね」
再度、鈴村が問いかけてきたので、「さあ、どうだろうね」と僕は応じた。
焼き野菜がそえられたステーキ、それにサラダとパンが運ばれて来た。デザートとコーヒーは後から来るとのことだった。
見るからにうまそうで、食いでのある牛肉にナイフを入れながら、我々は本題に入った。
「それで、きょうは何の話なんだい」とステーキを頬張りながら鈴村が言った。
それに対して僕は、「……可南子さんのことだよ」と、鈴村から視線を外しながら答えた。
鈴村はナイフとフォークを皿のうえに置き、一気にグラスを空け、再度、自分でワインを注ぎながら口にした。
「なぜ、君の口から、可南子のなまえが出てくるんだ?」
「君は回りくどい言い方は嫌いだろうから、結論から言おうと思う」
僕の言に鈴村は「それはたいへん助かるね」と応じた。
僕はグラスを手にし、ワインを飲み干してから、鈴村に、「可南子さんがね、君がいいと言うのならば、僕と結婚しても構わないと言っている」と告げた。
すると、鈴村は口に入れようとした肉片を皿に戻し、僕のグラスにワインをそそぎながら言った。
「私と可南子は冷えた仲だが、いちおう付き合っている。でも、付き合っているだけだ。結婚しているわけではない。私の知らないところでふたりの間が進んでいて、そういう話が出ているのならば、なにも私の同意なんかいらないだろう。変な話だな」
鈴村が話し終わると、僕は軽く頭を下げてから、ワインを一口飲んだ。
「僕もそう思う」
「だいたい、いつ頃から、そういう関係だったんだ。まったく気がつかなかったな」
「いや、勘違いしないでくれ。まだ、僕たちは、その……、男と女の関係にはない。ただ、僕が横恋慕して、可南子さんに告白したところ、そういう話が出てきたというわけさ」
「あいつもずいぶん、話をすっとばすな。私がいいと言ったら、君は彼女と結婚するのか?」
そのように鈴村に言われた僕は、黙ってうなづいた。
「やれやれだね。可南子も可南子なら、君も君だ。私にはついていけないよ。……たしか、大昔にそんな話があったな。奥さんを譲った話。作家の谷崎潤一郎とだれだったか?」
鈴村の問いに「佐藤春夫だよ。譲られたのは千代さん」と僕は答えた。
テーブルのうえに置かれた鈴村の手は完全に止まっていた。彼はしばらく僕を見つめ続けたのちに、口を開いた。
「君は、谷崎は読んだかい?」
想定外の質問に戸惑いながら、「谷崎は読んでいない。段落の最初に字下げがないから読みにくいんだよ」と僕が言うと、「それくらいはがまんしろよ」と鈴村が冷めた声で言った。
「谷崎に、猫と庄造と二人のをんな。おじゃなくて、をな。という本があるが、可南子はそこに出てくるリリーみたいなものだな」
「リリー?」
「ふたりの女の間で取り合いになった雌猫のなまえだよ」
僕が無言でいると、「まあ、いい。このステーキを食べたら、答えを出すよ」と鈴村が言った。僕が「急がなくても……」と言葉を返したところ、「こういうものは時間をかけてもしかたがないんだよ」と応じた。
すっかり冷めていたステーキを無言で食べた後、コーヒーを一口飲んだ鈴村が、ぼそりとつぶやいた。
「いいよ。可南子は君に譲るよ。私はもういらない」と。
僕が事の顛末を可南子に電話で告げると、彼女は「そう」とだけ言った。「今から君のマンションに行ってもいいかい」と僕が言うと、彼女は「好きにしたら」と抑揚なく言った。
その夜、僕は初めて可南子を抱き、幸せに包まれながら寝た。
しかし、その日の明け方、ドンという大きな音で目がさめた。となりで寝ているはずの可南子はいなかった。
ランナウェイ 青切 吉十 @aogiri
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