ヴァギナ・デンタータ
野志浪
ヴァギナ・デンタータ
『気をつけろ。ヤツはわざと隙を見せる。まるで自分を弱者であるかのように欺き、甘い罠を仕掛けて獲物が懐に飛び込んでくるのを待っているのさ。』
オレはマウスピースの隙間からシッ!と鋭い息を鳴らした。
『そして一度毒牙にかかったら終わりだと思え。たった一度でもそれを許したら、あとはひたすら受け身になっちまう。お前が負け犬の声を上げるまで…。』
……そんなことにはなるものか!
男としての全てを賭けるこの大会で、オレは誰の前にも膝はつかねえ。
ただひたすらに鍛え、ただ盲目に没頭する。
それだけが自信、それだけが誇りなんだ。
コーチに言われた通り、ヤツはリングの上で中途半端な体重移動をしながら、わざと右の脇腹へ攻撃の余地を残していた。
…いいだろう、だったら乗ってやる。
てめえの小賢しい策略が、オレの築いてきたボクシングを打ち破れるかどうか、試してみろ!
ガッ!と身をかがめながら空いた脇腹へ左フックを打ち込むと、ヤツは予想通り右半身を退けながら、瞬時にオレの死角から左拳を飛ばしてきた。
毒牙…と言ったか。
他の選手はそれで沈めてきたんだろう。
だがこのオレには無駄なこと。
オレはスッと頭を横に振り、紙一重でそれを躱すと、あらかじめ構えていた右拳を突き上げて渾身のカウンター返しを放った。
「決まったー!!完全なるKO勝ちです!無敗の男、最後までその誇りを貫きました!!」
オレは颯爽とリングを後にしながら、ギラギラと光る照明に目を細めていた。
「…これでまた……夢に一歩近付いたな…。」
*
「…ビックリしたよ。コーチに言われてたはずなのに、自分から突っ込んでいくんだもん。」
綾香が自販機から買ってきたスポーツドリンクを寄越してきた。
「まさか本当に優勝しちゃうなんてね…。」
「言ったろ。男としての格が違えんだ。オレはまだまだ強くなる。きっとこれから、世界のやつらとも渡り合える。オレの夢は、始まったばかりなんだ。」
「……そう…。」
綾香はオレが勝ち星を上げたというのに、どこか浮かない顔をして車の運転席から窓の外を見つめた。
「…ねえユウキ、これからどうするつもりなの?」
「どうするって…そりゃ、今度はアメリカでボクシングすんだよ。前にそう言っただろ。」
「そうだけど…。お金はどうするの?」
「今日の賞金でちょうど渡米費は賄える。あとはむこうに着いてから考えるさ。別に路上で寝ることになったって構いやしない。男なんてそんなもんだ。」
「じゃあ、私はどうしたらいいの?」
オレは勝利の余韻に浸ったままフワフワと受け答えをしていたが、先ほどよりもやや語気が強まった綾香の調子に気が付いて、顔を上げた。
「私もアメリカに行けばいいの?」
「まあ…好きにしろよ。日本にいた方が安全だと思うけどな。」
「日本にいて…それでユウキはいつ戻ってくるの?」
オレは責め立てるような質問攻めに苛立ち、顔をしかめながら少し声を荒げた。
「アメリカでチャンピオンになったら帰ってくるって!賞金だってお前に送ってやる。」
「勝つとは限らないでしょ!」
「勝つよ!今日の試合見てたろ?オレがずば抜けて強いことぐらい、女でも分かるだろ!」
「本当に強い人だったら、世界での戦いを見くびったりしない。女でも分かる!」
最もプライドを傷付ける言葉を浴びせられ、オレはとうとうリングの上にいるときと同じくらい頭を沸騰させた。
「自分の恋人がそんなに信用できねえか!」
「信用…してるわよ……。きっとユウキなら、男らしく私とお腹の子を守ってくれるって……。」
「…………え……?」
オレは信じられないカウンターを食らい、初めてリングで膝をついたような感覚に陥った。
「子供が…できたのか……?」
「……うん。」
綾香はその手で、自分の腹をそっと撫でた。
「ごめんね。私、本当は今日の試合、負ければいいなって思ってたの。きっと夢に敗れたって、ユウキなら普通の仕事でもストイックにやっていけるって。」
オレはあんぐりと口を開いたまま、言葉を失った。
「ねえ、もうやめようよ。ユウキがアメリカに行って、それで怪我でもしたらどうするの?あなたは自分一人の人生なら悔いはないと考えるんでしょうけど、もうそれだけじゃ済まないんだよ。」
「で…でも……オレは折角ここまで……。」
「私とボクシング、どっちが大事なの?」
『……決まったー!!完全なるKO勝ちです!』
頭の中で、試合終了のゴングが聞こえた。
「………か…です……。」
「はい?」
「綾香です。」
「そうだよね?」
オレがうなだれて死んだ目をしていると、ヤツは見えないフリをして車のハンドルを握り直した。
「私、もう婚姻届準備してるから。今まで本当にお疲れ様。帰ってシャワー浴びて、今日はゆっくり休んでね。明日の朝はたくさん美味しいもの作るから、それ食べたら役所に行こうね。」
この女は、ある日トレーニングで体を鍛えた帰りにちょっぴり酒を飲んでしまったとき、自分の男らしさに自惚れた勢いで口説いた歳上のOLだ。
あの夜、全てを吸い込んでしまうような彼女の甘い秘部へと男の誇りを託した瞬間から、それは内に付いた毒牙で食い千切られ、オレは既に負けていたのだ。
リングでは一度も負けたことのない、このオレが。
ああ、オレの夢が、人生が、じわじわと咀嚼され、砕かれていく。
「怖いよ…誰か……誰か助けてくれ……。」
今まで知り得なかった己の矮小さに怯え、オレは負け犬のように啼いた。
ヴァギナ・デンタータ 野志浪 @yashirou
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