濫喩の文学としての谷崎文学

@yoshistar

 0.濫喩的な序(1)

濫喩の文学としての谷崎文学

―新書版全集を中心にして巡る思想性と美に彩られた愛の世界―


偉大な作品がそうであるように、深い感情というものは、

みずからこう語っていると意識しているより以上のものを、

常に意味しているものだ。

(カミュ「シーシュポスの神話」(清水徹訳))



以下で展開されるのは主として昭和三十二年から三十四年にかけて刊行された新書版全集によって谷崎潤一郎の文学を読んでいく中で、その思想性と美についての考察を暫定的にエッセイ風のメモとしてまとめたものである。その前提となっているのは今から半世紀近く前の昭和四十八年から五十三年にかけて私が通学していた旧都立大学(東京都目黒区。現在八王子市にある都立大学は旧都立大学を廃校にして新設された首都大学東京の名称を旧校の名に変更した大学である)で聴講した故大石修平教授の講義やゼミである。

文中の〖〗内はそれらでの教授のご発言などの要旨であるが、現在の記憶によるものなので必ずしも正確ではないことを予め注記しておく。


0. 濫喩的な序

(一) 濫喩の文学についての前提的考察

故大石教授は〖近代文学において、谷崎は最も優れた思想的な作家であった〗とし、その小説は一貫して〖人間は肉体でしかありえない〗という本質的な思想があったと述べていた。(当時において谷崎文学の思想性を指摘したのは大石教授のほかには作家の伊藤 整ぐらいで、「無思想の作家」「谷崎の思想性を云々すべきではない」というのが一般であった。)

大石先生は「形の饗宴」(「日本文学」昭和三十八年十月号)という論文の中で「近代文学と呼ばれているものの真実のすがたが、その強められたる感情主義にあった」とされ、谷崎潤一郎という作家が「「形」への拝跪をこそ、そのもっとも真実な感情とし(中略)理性に対して感情の優位性を主張する浪漫主義」者であったとされた。

〖この「形」というものをテーマにした小説に菊池寛の小品「形」もある〗が、 

  そこにおいても鎧甲冑が荒武者そのもの、ひいてはその人間の肉体の一部

  (つまり皮膚そのもの)となっていることが示されている。

  それは谷崎における理性に対する肉体の優位を主張するものだ(「刺青」)という

思想と同一であり、「形」(大正九年)が「刺青」(明治四十二年)後の作品であ 

  ることから菊池が谷崎から少なからぬ示唆を受けていたということもできるだろ

  う。

    谷崎文学における思想性については和辻哲郎との対談において明確に話され

    ている。

      谷崎と和辻は帝大時代に刊行した第二次新思潮前後に親交を深めたとい

      う。因みに一高時代から文学青年であった和辻が文学から哲学に転向し

      たのには、谷崎の指摘が大きかったらしい(「若き日の和辻哲郎」昭和

      三十六年三月号「心」)。晩年の谷崎の記憶なのではっきりないところも

      あるようだがこの話のとおりだとすれば和辻哲郎が近代日本における有

      数の思想家となった契機として谷崎という存在があったということにな

      るだろう。

  「(前略)

  和辻 それで思いだしたが、いつか機会があったら君に聞いてみようと思ってい

   たことがあるのだ。鵠沼の東屋に君が来ていた時、ぶらっと訪ねて行ったら、

   部屋に英訳のプラトン全集が置いてあった。こんなものをどうするんだときく

   と、僕だって読むよと君が云った。僕はそれを真に受けなかったんだが、しか

   しどうしてあんなものを置いているのか不思議に思った。それは大正五、六年

   頃だね。それから何年か経って、君がしきりに映画にこっていた時分、映画の

   女優の亭主よりもその女優を幕の上だけで愛しているファンの方が、その女優

   を一層真実に占領しているという意味の小説を書いていた。(笑)

  谷崎 覚えていないよ。

  和辻 幕の上で見るだけだが、しかしその女の肉体を隅から隅まで知っていると 

   云う。(笑)

  谷崎 自分の旧悪をあばかれるのは嫌だよ。(笑)

  和辻 覚えているはずだよ。

  谷崎 思い出した。(笑)

  和辻 亭主は一所に住んでいるのだが、ファンの方は幕の上で見るだけで直接女

   優に会ったことがない。しかし亭主よりも一層よく女優の肉体を知っている。

   そのことが段々亭主に解ってくると、自分よりもファンの方が確実に女房を把

   握している事に気付いてくる。そういうテーマだった。ははア、此処にプラト

   ンが響いているなと思った。(笑)

  谷崎 思い出した。(笑)

  和辻 プラトンのイデアの考え方をこういう風にコンクリートしたのは面白いと

   思った。そういう事はないかね。

  谷崎 そういう事がちょっとあった。そんな話は止めよう、きまりが悪い(笑)

  和辻 そうだとすると確かにあの時プラトンを読んでいたんだね。その掴み方は

   我々の仲間よりもしっかりしていると思った。」

  (「春宵対談(昭和二十四年五月『塔』。)」中央公論新社「谷崎潤一郎対談集【文

  藝編】小谷野 敦・細江 光編)

    同書の注には「(前略)谷崎は、一九一六年の春ゴーティの「ボードレール

    評伝」を読み、ボードレールが売娼婦や邪悪な女との快楽を貪りつつ、ベア

    トリーチェの気高い幻に両腕を差し伸べていたことを知り、またボードレー

    ルの詩の中にある女性は、個々の現実の女ではなく、典型的な「永遠の女

    性」であることを知って、これを前から興味を持っていた古代ギリシャの

    哲学者プラトンのイデア論と結び付けることで、地上の娼婦的悪女を天上の

    聖なる永遠女性の粗悪な分身とする自己流のイデア論を編み出した。この

    思想は、「春琴抄」(一九三四)まで、長く谷崎の作品に影響を与えた。」(傍

    点は引用にあたって加えた)とある。

    こうした谷崎作品におけるプラトン的な思想性が「春琴抄」で止まるのかは

    議論の余地があるが(私としてはこうした谷崎の思想は「春琴抄」以後の作

    品においてもその深層的な本質において存在していると考える)、大正期の

    谷崎がプラトンの思想に共感していたことは彼自身が当時の随筆で次のよう

    に述べていたことでも明らかである。

    「 (前略)所謂ロマンテイシズムの作家とは、空想の世界の可能を信じ、そ

    れを現実の世界の上に置かうとする人々を云ふのではなからうか。

    芸術家の直観は、現象の世界を躍り超えて其の向う側にある永遠の世界を見

    る。プラトン的観念に合致する。―かう云ふ信仰に生きて行かうとするの

    が、真の浪漫主義者ではないだらうか。」

   (「早春雑感」大正八年四月春季増刊号(雄辯))*傍点は私に付けた。

   この一文は芸術家であることを自任していた谷崎がここで暗に自らをプラトン

   的観念に生きる浪漫主義者であることを宣言していたと読むことができるだろ

   う。つまり谷崎においては思想性と浪漫主義は彼の目指す芸術において表裏一

   体のものであり、それらを〝ひとのこころを状態としての祈りへ浄翔(じょう  

   しょう)させる美〟として形象化するのが即ち芸術なのであった。(トーロジ

   ーの関係にあるこれらのことどもが藝術を創造するものの淵源であることに留

   意)

このような谷崎の思想とは、人間の本質が「形」すなわち「肉体」であること、そし

てその「肉体」の美こそが永遠性をもつものであり、人間という存在の根源であると

主張するものであった。

こうした考えを敷衍するなら、その永遠性とは「肉体」が時間的・空間的に限定されたものであることによって瞬間的永遠性という不条理性を有するものであるということができるだろう。(ここでいう「不条理性」には「瞬間的永遠性」という表現がこ

ころの状態としての感情(すなわち祈りの感情)の比喩表現であるとみるならば複合的な意味においての濫喩性をもつということを含んでいる。)

  このことを端的に示している作品として先の「春琴抄」を挙げることができる。

  パスカルの言葉をもじって要約するならば、春琴の美貌を破壊するのに、全宇宙 

  が武装する必要はなく、「たった一滴の熱湯」さえあれば足りたのである。

その結果、無残に爛れた顔からかつての春琴の美を想像することすら出来なくな

  ってしまったのであった。

    春琴に灌がれた「一滴の熱湯」が誰によってなされたものかについては、こ

    れまでにいくつかの説(解釈)が提案された。その代表的なものは大きく二

    つに分かれるであろう。

    一つは、春琴に打擲(ちょうちゃく)されたぼんぼんの利太郎である。その

    打擲に利太郎が「覚えてなはれ」と捨て台詞を残していった一月後に熱湯事

    件が起こったとされていることから、利太郎がこの事件の犯人であるとする

    ものであり、状況から見てそうであることが暗示されていると読めなくもな

    い。

    一方で、作中では明確に利太郎が犯人であるとは明言していないことから真

    犯人は別にいるのではないかという説もある。その説によればこの事件によ

    って最も利益を得たものが真犯人であるとし、それは他ならぬ佐助だとい

    う。このような推論は犯罪ミステリーにおける常套手段であるが、実際この

    事件によって佐助は最愛の春琴を独占し、二人だけの理想郷を築き上げるこ

    とができたことからすれば、大きな蓋然性をもっていると言えなくもない。

    更には作中で張本人は春琴に娘の顔を傷つけられた父親ではないかと述べら

    れ或いは正体不明の第三者が別にいる説などを掲げることで前述のとおり作

    者谷崎は小説の中でこれらの可能性を示しつつ謎のままとしている。小説の 

    流れとしては利太郎を犯人とするのが自然であるのを敢えて別人の可能性を

    書くことで谷崎はむしろ作中人物の誰かを特定することを拒否していること

    になるであろう。この結果読者がこの謎を解くことひいてはこの小説をどう

    読むか(解釈するか)を迫られ、前述のような解釈もなされてきたのであっ

    た。

    こうした解釈の一つとして私はこの小説が書かれ発表された時代から「メタ

    小説」的な暗喩をこの作中の事件に読みたいと思うのである。

    (このことによってそこに内在している寓喩を表象化することができるので

    あり、またこの観点からすれば「メタ小説」を含有するのが広義の小説とい

    うことになるとともに、近代小説がこのような広義化をすることによって新

    たな物語性を形象したと見做すこともできる。)

    「春琴抄」を巡る伝記的な事実を辿ると、昭和八年三月には谷崎自らが小説

    執筆の意図を述べており(三月四日付けの嶋中宛書簡)、同年四月中には脱

    稿したらしい(小谷野 敦「谷崎潤一郎伝」中央公論新社)。それを雑誌

    「中央公論」昭和八年六月号に掲載している。その形態は作者自身とする語

    り手(作中「嘗て作者は「私の見た大阪及び大阪人」と題する篇中に」

    云々と明記することで語り手=作者であることを明示している。このことか

    ら語り手が等身大の谷崎であるのは間違いないが、あくまで小説中における

    作者の分身、つまり語り手≒谷崎自身ということであることに違いはない)

    鵙屋春琴伝なる架空の伝記をもとにした物語を雑誌の読者に公表したという

    スタイルをとっておりいわば「今」の視点から過去の話を語っているのであ

    る。つまりこの小説の前提として雑誌公表当時の昭和八年という「今」があ

    るということになる。

    その「今」としての昭和八年に何があったかを歴史学研究会編日本史年表第

    5版(岩波書店)で確認すると、谷崎が小説執筆の意図を述べた二週間ほど

    前の昭和八年二月二十日にある歴史的な事件が起きている。

   それはプロレタリア作家の小林多喜二が「検挙され虐殺」された事件であ

    る。この事件は左翼活動家のみならず当時の小説家たちにも衝撃を与えたも

    のであった。

      この虐殺事件について当時の新聞は「小林が警察と格闘の末に捕らえら

      れ特高による取り調べ中に顔面蒼白となって苦しんだため近くの病院の

      医師によって手当し入院したが、心臓麻痺で死亡した」などと報道して

      いたが、当時においては特高に捕まったらただでは済まないことは殆ど

      常識であったから、「これだけの活字が一体何を意味するか。そんなこ

      とはもはや誰の説明を聞かなくってもはっきりしている」(江口 渙

      「われの陣頭に倒れた小林多喜二」)ということは江口など小林の仲間で

      なくともジャーナリズム関係者や一般の作家たちは感じ取っていただろ

      う。少なくとも新聞記事をそのまま鵜呑みにする者は少なかったといっ

      てよい。

      実際にどのようなことが多喜二に行われていたのかについては、遺族や

      江口、大宅壮一らによってその遺体を官憲のもとから半ば奪い取るよう

      にして引き取った結果、遺体の状態が確認できたことによって推測する 

      ことができた。

        その遺体の状態たるや、全身に棒のようなもので殴られた跡があ

        り、太ももなどは内出血で普通の二倍ほども膨れ上がり、あちこち

        に釘のようなものでめった刺しにしたような跡もみられたという

        壮絶を極めたものだった(江口 渙)。

        一方で当時においてはこうした拷問や虐殺は官憲だけでなく当時の

        共産党による官憲のスパイに対するリンチ事件のようなこともあっ

        たことも歴史的な事実なのである。戦前におけるこのようなテロが

        テロを生む、血で血を洗うような暴力の連鎖の歴史を忘れるべきで

        はない。

        さらにこのようなことは日本のこの時代に限ったことでもなく現代

        に至るまで世界のあちこちで繰り返されてきているものであること

        もまぎれもない事実である。つまりこの虐殺事件とは単に戦前の事

        件というにとどまらない、いわば人類の根源的な問題としての面も

        あり、単純に戦前の軍国主義を批判すれば足りるというものではな

        い。

          ここでいう人類の根源的な問題とは、要約すれば一神教的原理

          主義による他者への不寛容と他者に対する暴力の原理(一神教

          原理による自己絶対化とそれを実現する他者への暴力を正当化

          する正義の原理)としての革命の弁証法とそれがもたらす下剋

          上の無限ループということになる。

          戦前日本の軍国主義的な暴力もそうした原理から発していると

          みなせば、明治初期に実施された一神教的イデオロギーによる

          国家神道の構築(その意味では西洋のキリスト教の影響を多分

          に受けていた、つまり西洋列強と対峙し日本としての独立を確

          保するために精神面においてキリスト教と対峙しうる宗教とし

          ての国家神道を構築しようとしたと思われる)とそれまであっ

          た一種牧歌的な神仏習合(その原理は多神教的な共和思想であ

          った)を否定した結果引き起こされた廃仏毀釈という暴力に端

          を発していたことが見えてくる。

          それは既に古代においても原古事記的な牧歌性(現在伝わる古

          事記そのものは既に本来的な(つまりヒエダノアレが口承によ

          り受け継いできたものがたりのもとになったものにはあったで

          あろう)「古代的」な多神教的な原理から「近代的(つまり天

          武的)」な一神教的天皇制原理に汚染されている)を否定した

          日本書紀的な天皇制原理(天武史観による歴史の創造)という

          形で既に現れていた(こうした歴史から日本が一神教的な天皇

          制原理に染まるのは、古代においては唐、近代においては西欧

          列強やアメリカという軍事的のみならず経済的文化的な大国か

          らの圧力に端を発してそれらに対抗して自己同一性を保とうと

          していたということも見えてくる)し、ヨーロッパ中世におけ

          るキリスト教原理思想による異端弾圧や近代における原理主義

          的な共産思想による弾圧(ソ連のスターリン、カンボジアのポ

          ルポトによる弾圧、中国の毛沢東の文化大革命での弾圧)ある

          いは近年におけるイスラム教原理主義によるテロや弾圧などに

          も共通するものであることが理解できるであろう。

          他方、日本の歴史では強大な外圧という危機に対したのちに鎖

          国的な独自性を発揮することもあった。曲りなりにもそうした

          対応ができていた平安朝や江戸期に多神教的な多様な文化が生

          (な)ったこと、そしてそれらの時代が藤原摂関政治や徳川幕

          府という世俗政権(それぞれ自らの絶対性と実質的一神性を主

          張してはいたが、その本質にあるのは貴族性であった)と天皇

          制(古代から続く神性、すなわち神聖なる古代的神性を精神的

          基盤としている)と併存し相互の一神教的絶対性をさまざまな

          葛藤を内包しながらも本質的に相対化していたことも興味深

          い。そしてこのことが結果として破局的な闘争を回避する近世

          幕末までの日本的な知恵だったともいえよう。

          こうした視点からは鎖国的対応を愚かしいとしてあながち否定

          的にのみ見ることは本質を見誤ることになることがわかるし、

          そこに谷崎が江戸期の文化を「愚かという尊い徳」(「刺青」)

          と看破したことの思想的重要性があることが理解できてくるの

          である。

        小林多喜二虐殺事件に戻るならば、江戸幕府における幕政批判への

       弾圧の歴史を汲む明治以来の思想弾圧の流れの中で醸成された官

        憲の考えが「いいか、われわれは天皇陛下の警察官だ。(中略)

        恐れ多くも天皇陛下を否定するやつは逆賊だ。そんな逆賊はつかま

        えしだいぶち殺してもかまわないことになっているんだ」(江口 

        渙)という戦前の警察官の発言(この発言の「天皇陛下」を「神君

        家康と徳川幕府」にすれば江戸幕臣の発言になることに留意。こう

        した江戸政治の再現は「ぜいたくは敵だ」というスローガンが江戸

        期寛政の改革におけるぜいたく禁止令の昭和版などにも伺える。こ

        うした戦前における江戸期回帰の根底にはペリーによってもたらさ

        れた江戸期の終焉に対する日本人の屈折した感情(鬱屈した失われ

        たときとしての江戸期への郷愁。この江戸期への感情は戦後を含む

        昭和期の終りまで主として江戸期に設定された時代劇がテレビドラ

        マや映画の再放送などで広く愛好されたこと(年末は必ず忠臣蔵が

        放送されこれを観なければ年越の気分がでなかったものだ)の源泉

        でもあった。)が真珠湾攻撃によって増幅され、鬼畜米英という反

        欧米感情が熱狂的に蔓延した)にも受け継がれ(それは国民を臣民

        としての国民と逆賊としての非国民に峻別し、非国民を殺すことに

        躊躇しないという言明であり、それがやがて国体を護るためには

        国民全体の命などどうなってもいい、更に国体護持のためには自ら

        進んで命を投げ出すのが国民(臣民)の義務だという特攻思想まで 

        にエスカレートしていくことになる(このような特攻思想は会社の

        ためには身命を惜しまず働けという戦後の企業思想にも引き継がれ

        ていた、更に二十一世紀になってもまま見られる)、それが忠実に

        実行されたものであったということができる。

この虐殺事件直後に谷崎は「藝談」(「改造」昭和八年三、四月号)というエッセイを

書いているが、そこにおける次のような発言はこの事件に対する谷崎の関心と態度を

伺わせるものがある。

「(前略)やはり藝術家は自分の性格や素質を省みて、分を守つてゐるべきである、

もし政争に携はるなら、藝術を捨てゝかゝるより仕方がないい、餘程の大器量人にあ

らずんば一人で両方へ手を出すなど考へ物だ(略)藝術家がいかに臆病でも自分の天

分に安んじて藝を研いてゐうちには、藝のためになら命を惜しまないと云ふ氣にもな

り、知らず識らず死に身の覺悟が出来てくる。それが藝術家の勇氣である。今日では

政治が常識になり、萬人が政治を論じて差し支へない時勢であるとは云ふものの「非

常時」と云ふやうな時になると左右兩黨の迫害が激しいから、西洋の文人を氣取つて

餘計なことに口を挾むと、それこそ芥川の云ふやうに引つ込みが付かなくなる。そん

な暇があつたら、せツせと藝道に精進した方が利口であるとしか考へられない。」

この発言をその発表時点の時代という文脈で読むならばこれがこの虐殺事件及び小林多喜二(さらにプロレタリア作家)や「非常時」という時局に対する谷崎の意見表明、つまり「己は己だ」(鴎外「阿部一族」)という信条を述べていることは明らかであろう。

このような谷崎の態度について彼自身が「利口」といっていることの意味とは昭和八

年当時の日本の時局に対する〖したたかな〗「賢さ」であったろう。

  このような「賢さ」については次のような指摘が二十一世紀の今日においてもさ

  れている。(文中の傍点は引用にあたって付けたもの)

  「(前略)二十世紀の欧州の専制国家では、体制に異議を唱える良心ある国民が

  (中略)周囲を取り巻く政情が暗くなる中、逃走するでも、闘争するでもな

  く、社会から自らを遠ざけた。このように距離を置くのは賢さであり、弱さでは

  ない」(令和七年1月15日付け日経新聞「沈黙する米リベラル派」ジャナン・

  ガネシュ。*引用にあたって傍点を付け加えた)

こうした谷崎の藝道観の形象化がその直後に書かれた「春琴抄」であったということができる。

このような考察を踏まえるならば小説の最後に自ら盲目となった佐助の生涯について

「(前略)転瞬の間に内外(ないげ)を断じ醜を美に回した禅機を賞し達人の所為

(しょい)に庶幾(ちか)しと云ったというが読者諸賢は首肯(しゅこう)せらるる

や否や」という読者への問いかけに込められた作者の意図とは一つではなく多重的な

寓意をもつ複雑性を帯びていたことがわかるであろう。

話を春琴に熱湯をかけた真犯人とは誰かということに戻すと、敢えてそのことをはっ

きりと書かないことによって暗喩的意味合い

を持たせようとした作者谷崎の意図自体であった、春琴に熱湯を

かけ闇から闇へと消えていった「正体不明の賊」とはそうした意図の形象、つまり暗喩の擬人化であり寓喩であったという結論に至るのである。こうしたことからすれば「春琴抄」は谷崎における「沈黙の塔」(鴎外が明治四十三年十一月に発表した小説。この小説は当時起きた大逆事件(実際は社会主義者弾圧のために官憲によってでっち上げられたとされ、作家の幸徳秋水が死刑になった)を寓意(塔の上で死肉を啄む烏を官憲、その塔の周りを行ったり来たりしている鴎を鴎外自身の暗喩として表現)した作品)でもあったともいえるであろう。谷崎の塔は(鴎外と異なり)烏たちが群れることを拒否し暗澹とした時代の中に屹立して自らを貫く強固な意志を示すもの、つまり自らの芸術を至上とする「小さな王国」なのであった。

  昭和八年以降、時局はますます悪くなっていき、軍部による言論統制や抑圧はま 

  すます強化されていき、体制翼賛的なものしか認めなくなっていき、その意に沿

  わないものは公表を禁止するのみならず藝術家の命を奪うことにも躊躇しなくな

  っていく。こうした状況の中で左翼活動家の転向が盛んになり、アメリカとの戦

  端が開かれてからは芸術を戦意高揚の道具として利用し、それに沿わないものは

  排斥されていくことになる。谷崎にしても「細雪」が中央公論の昭和十八年新年

  号と三月号(谷崎本人は四月号としている)に掲載されただけで、それ以降も執 

  筆は続けられて中央公論からの原稿料も昭和十九年頃までは何とか支払われてい

  たが戦時下にふさわしくないとして雑誌への掲載が禁止され、知人らに配る私家

  版として上巻を刊行したがそれも以降は発禁処分を受けていた中にあって、全く

  公表の見込みがないまま密かに描き続けていくという状況に追い込まれていった

  のであった。(谷崎「「細雪」回顧」、小谷野 敦「谷崎潤一郎伝」)

    後年の谷崎自身の証言によれば、昭和二十年一月九日に「細雪」下巻を書き

    始めており、原稿料についても中央公論が軍の圧迫で取り潰されてしまって

    (昭和十九年七月、「中央公論」及び「改造」の廃刊命令が出される)からも

    しばらくの間は社長の嶋中の好意により支払われていたが、それもこのころ

    には途切れてしまったという。(「三つの場合 二 岡さんの場合」(「中央公

    論」昭和三十五年十一月号))

    こうしたことは昭和十七年から執筆され始めて戦争が激化する中書き続けら

    れ、戦争が終わって三年後の昭和二十三年になってようやく脱稿し刊行され

    た「細雪」においてその最後のシーンが昭和十六年という時代設定となって

    いることにも影を落としている(「細雪」回顧)。

    雪子が下痢を発症しそれが「汽車に乗つてからもまだ続いていた。」という

    文章で小説の幕を閉じていることについてはさまざまな意見が提出されてい

    る。川本三郎氏はそれらを次のように総括する。

    「(前略)車中、雪子はひどい下痢に襲われる。有名な「下痢」だが、なぜ谷

    崎は美しい姉妹の物語を最後、「下痢」で終わらせたのだろう。

    いろいろな理由が考えられる。いまふうに言えば、雪子のマリッジ・ブルー

    があるかもしれない。結婚生活への不安である。『細雪』の冒頭、「B足ら

    ん」の脚気で始めたので、最後も病気で締めくくりたかったのかもしれな

    い。あるいは『青春物語』にあるような谷崎の鉄道嫌い、「アイゼンバーン

    クランクハイト」(鉄道病)が反映されているのかもしれない。貞之助が実

    は雪子を嫁にやりたくないと思っている気持ちの象徴とも考えられる。

    雪子の結婚と並行する形で、妙子の身には赤痢に続いてまたしても不幸が起

    きている。赤ん坊を死産した。院長が赤ん坊を引き出す時に手が滑った。そ

    のために赤ん坊は窒息死した。

    雪子の下痢は、妙子の赤ん坊の死と同じ流れにある。それは、蒔岡家という

    美しい花園の決定的な終り、終末を暗示している。彼らの行く手には、太平

    洋戦争が待ち受けている。」(川本三郎「『細雪』とその時代」中央公論公論

    新社)

    私はこれを敷衍して妙子の死産とは「太平洋戦争」そという破滅の時代への

    暗喩であり、雪子の乗った夜行列車とはそうした時代へと突き進む日本その

    ものの暗喩と読む。そして雪子の下痢とは「春琴抄」における「真犯人」と

    同じく時代に対する谷崎の心情の暗喩であったと思うのである。

   つまり、昭和十六年という年はその十二月に真珠湾攻撃ががわれた年であ

   り、つまり日本がアメリカと全面戦争に突入にした歴史的な年であり、そ

   のことによって「細雪」のときが名実ともに「失われたとき」となった年なの

   であった。

   軍国日本という夜行列車に乗った雪子の下痢とは、川本氏も示唆しているよう

   に、こうしたときから暗黒の世界に向かって真っ暗な夜をひた走る時代に対し

   てなされたものであり(実際汽車の便器の穴からは汽車が走っている線路が直

   接見えたのであり、そうであれば雪子の下痢は線路の上から地面つまり国土ひ

   いてはそれに拠って立つ軍国日本という国家そのもの(つまり実質的な国体と

   しての軍部)に向けて放出されたものなのである)、いわば一幅の美しい絵巻

   物のごとき華麗なる物語(谷崎本人は「特に源氏を模したと云ふことはなくと

   も」源氏物語が「頭の中にあったことは」確実であり「いろいろの点で影響を

   受けた云へないことはない」(「細雪」回顧)、といい「かうふうに書きはじめ

   てかう云ふふうな終りにしようと計画を立て、大体予定どほりに行つた」とい

   う一方で「退廃的な面が十分に書けず、綺麗ごとで済まさねばならぬやうなと

   ころがあ」り「それは戦争と平和の間に生まれたこの小説に避けがたい運命で

   あつた」(同上)としているが、結果としてそれらのことがこの小説の絵巻物

   的な美しさを高めたというべきだろう)は戦時下にふさわしくないとして軍部

   当局から禁止処置を受けた小説の最後に作者谷崎が放った寓喩としての〖末句

   反乱〗であったと読むことができるのである。(谷崎本人も「弾圧の中を、兎

   に角ほそぼそと「細雪」一巻を書き続けた次第であつたが、さう云つても私

   は、あの吹き巻くる嵐のやうな時勢に全く超然として自由に自己の天地に遊べ

   たわけではない。」(同上)と述べていたことから、「細雪」の背景には戦争と

   いうものがあったのは確かであり、最後の「下痢」とはそうした時代に対する

   怒りや「失われたとき」への哀惜の情などの入り混じったものであった)

     〖末句反乱〗とは、アリストテレスのいう「逆転」が「行為の方向がこれ

     までとは正反対の方向へ転じること」(岩波文庫「詩学・詩論」(松本仁

     助・岡 道男訳)「詩学」第10章訳注)とされている劇中人物の「行

     為」についての考えを詩文そのものに拡張した意味あいを持つと言うこと

     もできよう。

  新書版全集略年譜の昭和十六年はこうした谷崎のこころを暗示していたのであっ

  た。

  (後年、谷崎自身が「三つの場合」(昭和三十五~三十六年)の中(「明さんのこ

  と」)で雪子の結婚のモデルが谷崎の義妹(妻松子の妹)と渡辺 明が昭和十六

  年に結婚したことをモデルにしていると明言しているが、そのモデル的な年号と 

  しての昭和十六年を真珠湾攻撃が実施された歴史的な年のその翌年から執筆され

  た小説、戦時下という非常時に抗うような「失われたとき」といういわば美しさ

  を湛(たた)えた「佐助的世界」を描く「細雪」を執筆することでこうしたモデ

  ルを小説世界の中で深化させたのである。)

  また谷崎が戦争協力をした唯一というに近い文章(小谷野 郭「谷崎潤一郎

  伝」)とされる「シンガポール陥落に際して」(昭和十七年三月)にもこのよう

 な〖末句反乱〗が見られる。これは昭和十七年二月十五日にシンガポールでの戦

  いの結果英軍が日本軍の降伏したことを祝って軍部主導で時の文化人なども動員

  したJOAK(後のNHK)のラジオ放送を実施した中で同月十六日に「シンガポー

  ル」陥落に際して」を朗読放送、その文章が『文藝』三月号に掲載された。(小

  谷野 郭、同前)この中で谷崎はとにもかくにも戦さに勝ったことは目出度いこ

  とや少年の頃に経験した日露戦争勝利に浮かれたような騒ぎに深く考えることな

  く酔いし れたといったことなどを縷々述べて、最後に「終りに臨み、なほ一言

  附け加へたい。」として次のように続けている。

  「将来の日本人たる者は、大東亜の文化を指導し福利を増進する指名が自分達の

  双肩にかかつてゐることを覚悟し、宜しく島国根性を捨てて広闊なる気宇と度量

  とを養ふべきであろう。」と結んでいる。

  これは日露戦争後において同様の文言を述べていた漱石「三四郎」の広田先生

  のことを思い出させるものがある。その劈頭において東京へ向かう汽車の中で三

  四郎が知り合った謎の男とされた広田先生は三四郎に対して「熊本より東京は広

  い。(中略)東京より日本は広い。(中略)日本より頭の中の方が広いでせう。」

  などと述べた最後に「囚はれちや駄目だ。いくら日本のためを思つたつて贔屓の

  引き倒しになる許(ばかり)だ」と結んでいた。

  「贔屓の引き倒し」と「島国根性」とは同じことである。谷崎が「シンガポール

  陥落に際して」の中で日露戦争終結時のことを回想した脳裏にはその当時「大

  人」であった漱石の小説「三四郎」のことがあり、子供だった自分や提灯行列を

  していた大衆が日露戦争勝利に単純に喜び心躍っていたのと同じ状態に真珠湾以

  降の連戦連勝に酔いしれバンザイの大合唱をしている「今」の国民がありはしな

  いのかという今や「大人」となった谷崎の危惧が透けて見え、それがこうした共

  通性を生じさせたといえるのではなかったろうか。

  この解釈によるならば「三四郎」において先に引用した前の会話において三四郎

  が「然し是からは日本も段々発展するでしょう」という発言に対して広田先生が

  すました顔で「亡びるね」ときっぱりと断言していたことも谷崎の脳裏はあった

  とみなすべきであろう。(☞漱石と日露戦争については【付記】を参照)

   谷崎の〖末句〗には、偏狭な大東亜主義に凝り固まり、侵略戦争に熱狂し

    賛美することしかしない現世の日本人への失望が底流にあり、今となっては

    これから生まれてくる「将来の日本人」に期待するしかないという絶望感が

    あったように読める。

    こうした「将来の日本人」への期待が戦後、老人となった谷崎が子供ぎらい

    から子供ずきに転じ、義理の孫娘たおりへの目に入れても痛くないというい

    かにもおじいちゃん的なかわいがりようの根底にあったともみることができ

    るであろう。

  このようなことから「シンガポール陥落に際して」の最後の文言は〖末句反乱〗

  として谷崎がこの戦争について本心で思っていたことを示唆いたということにな

  ってくる。それは前年の真珠湾攻撃のニュースを聞いた直後である昭和十六年十

  二月八日に谷崎が「今にも米軍の爆撃があるのではないかとびくびくした」

  (「高血圧症の思ひ出」)という思いと軌を一にしているものだった。

  そしてこの〖末句反乱〗とは日露戦争勝利にただ単純に目出度がっていた少年の

  自分と同様に、シンガポール陥落を祝っている「今」の国民への警鐘でもあった

  ろう。当時を支配していたサディスティックな自己絶対視に囚われていた軍事

  政権(東条内閣)のもとでは米軍の攻撃が心配・戦争反対などと言おうものなら

  (もしそのような原稿を書いたとしてもそれが放送されることは絶対になく、そ 

  の旨を軍部に報告されただろう)忽ち非国民のレッテルを貼られて、下手をすれ

  ば投獄の上、見せしめのために暴行・虐殺されかねない状況下ではこううした形

  で訴えるしかなかっただろうが、この警鐘の意図が軍部の人間には無論のこと戦

  勝に湧きたっていた国民のこころに届くことはなくその後の亡国の道をひた走る

  ことになったことは歴史が示しているとおりである。

    こうした時代にたいする暗喩性は谷崎最晩年に書かれた事実上最後の小説で

    ある短編「おしゃべり」(昭和三十九年一月号「婦人公論」)においても読み

    取れる。それは日本人の人妻が二人の英語圏の外人男性に言い寄られ、もう

    少しのところで犯されそうになったことを軽妙なおしゃべり風に述べたもの

    であった。この小説は老作家の肩に力のはいらない手慣れたものなのだが、

    少しひいて読むとこの小説に描かれているのは、日本が敗戦によってアメリ

    カの占領国となって以来、文化のアメリカ化が進展して変質し、そのことに

    よって衰退していく日本文化の暗喩として外人によって顔や手を舐められる

    人妻が描かれていることに思い至るのである。この人妻のごとく占領によっ

    て白人文化に舐めまわされた体じゅうをしっかりと洗って出直さなければ日

    本的な、つまり「陰影礼賛」的な日本文化は強烈な蛍光灯の白光のごとき外

    人文化(つまりアメリカ文化)に舐めつくされるように犯されて失われ、 

    GHQの占領は終わっても文化的に蹂躙された実質的な被占領国に成り下が

    っていくのではないかという老谷崎のこの国の現状に対する強い危惧から発

    せられた(事実上最後となる)メッセージが込められているのを写実性の底

    にある〖深い暗喩〗として読み取とることができよう。そしてこのことによ

    って谷崎という作家が最後まで「濫喩的な文学を旨とする」作家であり続け

    たということも解るのである。

  このような文脈から新書版全集第三十巻に収められている略年譜を読むと、昭和

  十七年三月の項に全集未収録にもかかわらず「「シンガポール陥落に際して」を

  「文藝」(改造社)に、」と敢えて記載し、昭和十七年の最後に「この年、「細雪」

  の稿を起こす。」としたことには、谷崎が持っていたこの戦争への屈折した思い

  が偲ばれる。

    このような心情は昭和三十六年の「當世鹿もどき」において、戦争中は万一

    の場合(つまり日本がアメリカ軍に滅ぼされて国土と自分を含む国民が蹂

    躙されてしまうことになる)を考えて、どうしたらいいか始終考えていて、

    工場を経営していた知人に青酸カリを密かに分けてくれるように頼んだりし

    ていたことを告白するように述べていたことにも表れていよう。

    (この話は むしろ自嘲的な創作のように感じるが、ここには敗戦後に青酸

    カリで自殺した近衛文麿がイメージされよう。昭和天皇が「近衛は弱い」と

    いったように青酸カリ自殺を志向した弱い自分という意識がここに伺えると 

    ともに、青酸カリで自殺すればいいというものじゃないという気持ちも伺わ

    れる)

    その知人からは青酸カリを譲ることをやんわり断られて入手できなかったの

    であったが、当時におけるこのような屈折したこころが、一見勇ましい「シ 

    ンガポール陥落に際して」の最後に〖末句反乱〗を読み取らせるようなもの

    を潜(ひそ)ませた文言を加えた淵源であったろう。

    終戦から十六年後にものされた「當世鹿もどき」ではその始めに「エヘヘ

    ヘ」という笑い声を挿入していたことに典型的に示されている幇間的なおち

    ゃらけた語り口による自己韜晦のはしばしに谷崎の「まじめな」心情が伺え

    るのだが、その最後に戦時中のことや敗戦にあたって自殺した軍人・政治家

    のことを述べつつ、谷崎自身としてはことにあたってとても「腹切り」など

    できそうもないと言っている(この腹切りには敗戦決定時に自決した阿南陸

    軍大臣のことが頭にあったであろう。)それに続けてピストルで腹を撃って

    も口に咥えて撃っても打ち損じるかもしれないということばには胸のあたり

    を撃って自殺しそこなった東条英機への皮肉(口に咥えても失敗するかもし

    れないのだからまして胸を撃ったら失敗するのが当然だろう、それを知らな

    いはずのない東条が本気で死ぬ気があったのか、何かにつけて芝居がかった

    パフォーマンスで自己陶酔することに喜びを感じていた東条が最後にきれい

    な死に顔を残したいということを最優先にしていたという皮肉)が込められ

    ているように読める。生きて虜囚の恥をさらすなと声高に国民に自決を強要

    していた張本人が自決しそこなっておめおめと占領軍(アメリカ軍)の捕虜

    となって刑務所に収監されるというぶざまな醜態を晒して恥じない姿に大き

    な失望(威勢のいいことを言う人間がときとして見せる小心さへの侮蔑感と

    「国体」のためには兵士・国民の命などどうなってもかまわない、むしろ進

    んで国体のために死を選ぶべきという軍事政権指導者の心根には結局自己

    肯定の論理に根差した自己絶対化によるかっこづけの自己保身しかなかった

    ことへのくぐもった怒りと軽蔑の感情(国民に滅私奉公のみならず死をも強

    要する「国体」とは何だったのか、更に戦後とは戦前において実質的な国体

    であった軍事体制・軍部が解体されることによって戦前においては少なくと

    も建前上では同一とされていた天皇と国体が本質的に分離し(それが戦後の

    象徴天皇となった由縁といえよう。つまり現人神である天皇の大御心によっ

    て存在を許されて庇護される被支配者であった臣民としての国民から主権者

    としての国民あっての人間天皇ということになった(それは本質的に天皇も

    国民の一人であるということであり、新憲法下の天皇とは実質上継体天皇よ

   り始まり天武持統朝に形が整えられて代々引き継がれてきた天皇という「面」

   を被り「天皇」を演じる人(つまりその面にどのような化粧を施すかは(誰が

   被るのかを含めて)時々の国民が決め(国民が了承しなければその実態は失わ

   れるということからこのようにいえる)、それを被る人は生まれつきというこ

   とよりもその「面」に望まれる演技をこなすべく修練を積んできたと認められ

   た人(そうしたコンセンサスを得るために即位という一定の儀式が必要とされ

   る))というに等しい。こうした天皇観は戦前の天皇機関説(美濃部達吉)が

   示唆するもの(前述のとおり歴史を俯瞰すればそれは後に継体天皇と命名され 

   たオホドノミコトにその淵源があるともみなされ得るであろう)であり、

   本音の部分では軍部を含む政治指導者たちも持っていたふしがある(陸軍が皇

   道派と統制派に分かれることの根本にそれが伺われる)。だとすれば現行の新

   憲法は彼らが覆わせていた神秘のベールを剥がして明示したことになるだろ

   う。)

   この戦前から戦後への一八〇度の転換こそが本質的な戦前批判からもたら

   された新国家形成の理念であり大日本帝国から日本国への本質的転換の基(も

   と)であり、根本的な「戦前」批判を達成することを目指した新憲法の根源で

   あった。(だからといって憲法が衛るべき「国体」となったのではなく、国民

   を衛るのが憲法であることを忘れるべきでない。かつて主張された「他国から

   侵略されたら両手を挙げるのが現憲法が要求することだというのは、ただ手を

   挙げただけでことが済むはずがないのが国際的な常識であることからすれば、

   憲法に国民は全身全霊仕えるべきでその結果国民がどうなっても構わないとす

   る議論(即ち憲法を「国体」化する議論で実質においては「護憲」を叫ぶ

   学者や政治家へ国民を隷属させるようとするもの)だったと思う。)

     (現状の世界においてはその時々で国民をどのをようにして衛るのかはそ

     の時の国内外の状況を踏まえて(つまり自らに都合のいいことだけではな

     く不都合な現実も含めて世界をよく見て(谷崎「シンガポール陥落に際し

     て」)対応すべきであるということを憲法の前文は示唆していると読むべ

     きだろう。)

  「もはや戦後ではない」(昭和三十一年度の経済白書)と高々に宣言された後に、

  理念はともかく「国体」が実質においては「企業(とりわけ大企業」になったこ

  とがもはや戦前・戦時中でも敗戦・占領期(そこでは国民も企業も敗者であり被

  占領者であったという意味では同一・同質であったといえる)でもない真の戦後

  (あるいは戦後が第二フェーズにはいったということもできる)なのではないか

  という問いとなっていく。つまり企業に働く者は「企業戦士」といわれ文字通り

  戦時中の兵士のごとく戦後の復興・新しい国家形成のため滅私奉公(戦時中の総

  動員体制のもと銃後においても義務化されていた)することが求められ(復興こ

  そが最優先であることを国民も自覚し自らの責務とした故に)定時で帰宅する者 

  は戦場を見捨てて敵前逃亡するに等しい一種の裏切り者・卑怯者か犯罪者のよう

  に感じられ、戦前の軍歌で「海の男の艦隊勤務」と誇らしげ謳われた「月月火水

  木金金」よろしく年休を一日も取らなかった者は「皆勤賞」という褒美をもらえ

  (そうでない場合でも年休を余らした者は褒美として会社に年休を買い取っても

  らえた)休みを取らないで働くことが善であり誇りでもあり、残業時間の多さが

  本人のみならず企業の勲章とされた(実質的には残業を前提として仕事が組まれ

  ている場合や残業手当外の残業(つまりただ働き)もしばしば行われていたな

  ど、「国体」における「戦士(兵士)」の実態は戦後も戦時中と本質的には等しか

  ったということができるのである(かつてよく言われていた「お前の代りはいく

  らでもいる」という言葉にこうした「国体」性の一端が示されている)は谷崎一

  人のものではなかったに違いない。)

  切腹やピストル自殺などできそうもない自分の臆病を自己批判的に述べつつ生き

  残っていくことにも意味があるのではないかという思いに至りそこに自らの小説

  家たる由縁の基盤もあるという自己確認を行ったということができるだろう。

  そしてそこには日本の敗戦という旧時代が滅びた後にもおめおめと生を貪ってい

  る自身への忸怩たる思い(こうした思いは戦前を生きた旧世代の日本人の多く

  が潜在的に持っていたものだろう。それは時に自虐的、時に国粋的に表明されも

  してきたもののうちに伺える。 更にこうした戦中を生き延びた人々が戦後の 

  「国体」への滅私奉公を進んで受け入れ務めてきた由縁でもあり、それが戦後の

  復興から進んで高度経済成長を成し遂げたことの根源であったろう)

    ※こうした観点からすれば、戦中・敗戦の体験のない平成以降の世代に昭和

     の高度経済成長を望んでも無理な話だったことは自明のことであり(保守

     的な人々がいう「自己責任」ということばには昭和期の滅私奉公的なニュ

     アンスが内在しておりそうしたことばによって組み立てられている制度が

     社会の実情に合わなくなっていることも当然のことである)この「自己責

     任」論とは自分の身は自分で守るということであるが、(自己責任の一つ

     として自分の身は自分で守るということがあることから)それが極端化す

     ると犯罪や事故に巻き込まれるのも自己責任だとなる。一方で社会扶助が

     行き過ぎると自分のために社会は滅私奉公するべきだということにいた

     る。こう考えれば自己責任は必要なことだが、どこまでが自己責任の範囲

     なのかに正解はなく、政治・行政ないし社会全体として決めるべきことで

     あり、それにあたって自己責任とは何であったか(そこには自己が何であ

     ったか、責任とは何であったのかも当然含まれる。以下同じ)の考察を

     廻らし、自己責任とは何かを洞察し、何であるべきかについて社会的な合

     意を形成していくことが肝要になる。

     「失われた三十年」を経て実質的に戦後は終わった。それとともに新たな

     「戦後」つまり昭和以後という時代が始まった。それは新たな世界的戦争

     の発生と実質的な意味で国民主体という意識が一般化する(「国体」の実

     質とは国民(人間)ということになる)時代である。

   こうした思いが谷崎のこころに潜んでいるとともにそうした中で自身が生きて

   いることを問いつづけていたことも読み取れるのである。そのような否定と肯

   定の間を揺れ動く作家のこころが、老いと死の実感に抗い性によって生を謳歌

   しようとする主人公の享楽と死で終わる「鍵」や「瘋癲老人日記」といった小

   説に結実していくことになったというふうにも読み取れる。

  小谷野 敦は「「細雪」が私家版としてさえ印刷を差し止められる時勢を歓迎し

  ていたはずはなく(中略)谷崎が、戦争や軍人を嫌っていたのも確かで、当時の

  一般的知識人として、これまでアジアを侵略してきた米英蘭を破ることを快しと

  する思いと、二年目あたりからは、最後には日本は負けるだろうという思いが入

  り交じっていた」(同前)と指摘している。

 戦後の谷崎年譜としては昭和二十七年(二十八年とも)に出版された河出書房版谷 

 崎潤一郎集所載のものが新書版全集の略年譜よりも先行しているが、河出書房版の

 年譜(弟の精二が協力者の一人)では、昭和十七年に「「細雪」の筆を起こす。」と

 いう記事が最初に記載され、「シンガポール陥落に際して」には触れられず、新書

 版全集略年譜には記載されていない「十一月 大阪中ノ島中央公会堂における文学

 報国会、朝日新聞社共同主催の大東亜講演会において講演す。」がある。この講演

 がどういうものであったか不明であるが、こうした異同から精二が監修した年譜が

 修正されていることがわかるとともに前述のような新書版全集の略年譜に込められ

 ていた谷崎のこころが伺えるのである。

「春琴抄」の中に寓喩としての「メタ小説性」を読む解釈の立場をとるとるならば、

谷崎文学における「思想性」とは人間の肉体性を探求した換喩的「実存性」と暗喩的「メタ小説性」の二つの側面を持つということがはっきり見えてくる。(「細雪」にお

ける〖末句反乱〗もこの暗喩的「メタ小説性」であることは既に自明であろう。)こ

こに谷崎文学の偉大さを伺わせる本質の一つがある。

一方、「たった一滴の熱湯」で破壊される美のはかなさを、皮相な宗教家などであれ

ば「このような美とは無常な虚しいものでしかない。だからそんなものは無価値・無

意味なものであり、真の悟りに至るためにはそれらに執着するこころを捨て去り去り

永遠の価値・意味を持つ神・仏に心をゆだねよ」とでも言うのであろうが、しかし

「この〈だから〉は余計である。」むしろ間違っているというべきである。これをパ

スカル的に正しくいうならば「しかし、そのような瞬間性故にこそ美はその美として

の永遠性を獲得するのである。」

  このようなことについては、仏教の世界においてもかつてさる僧侶が、「般若心

  経」について説いたときに「色即是空、空即是色」を「空(くう)を空ずる」こ

  とであるとして、現世のもの全てを虚しいものとする「空観」そのものを「空ず

  る」こと、つまりそのような「空観」を止揚する(空ずる)ことによって、「全

  てよし」とすることが真の悟りであるとした。

  (これはかつてカミュが述べていたところの「不条理な感情」(「シーシュポスの

  神話」)と同じもののいいであろう。)

  こうした「悟りならぬ悟り」、つまり悟りを超えた究極の悟りこそが般若心経の

  根幹にある宗教観なのだとするならば、先に述べた「瞬間的永遠性」と仏教的宗

  教観というものは根本においては矛盾するものではなく、同一性のもとにあると

  考えられる。

こうして「春琴抄」では、佐助が自らの目を針で突き刺すことによって視力を失い、

美を破壊された春琴をみることがないようにしたのであった。

 (このことにはこうした「換喩的実在性」と「暗喩的メタ小説性」の二面性がある

  ことは前述のとおりであり、以下に述べることは「春琴抄」における「換喩的実

  在性」という側面の内容についてである)

その場面について「春琴抄」は次のように描写している。

「もう衰へた彼の視力では部屋の様子も春琴のすがたもはつきり見分けられなかつた

が、包帯で包んだ顔の所在だけが、ぼうつと仄白く網膜に映じた彼にはそれが包帯とは思へなかつたつい二た月前迄のお師匠様の円満微妙な色白の顔が鈍い明りの圏の中に来迎仏の如く浮かんだ」

  このような「盲目」となる場面は初期のころの作品である「少年」における次の

  描写が先駆をないていることには注目しておいていい。

  「「今度はお前が燭台の代りにおなり」

  忽ち光子は私を後手に縛り上げて仙吉の傍らへ胡坐を掻かせ、両足の踝を厳重に

  括つて、

 「蝋燭を落とさないやうに仰向いておいでよ」

 と、顔の真中へあかりをともした。私は声も立てられず、一生懸命燈火を支へて切

 ない涙をぽろぽろこぼしているうちに、涙よりも熱い蝋の流れが眉間を伝つてだら

 だら垂れて来て眼も口も塞がれて了つたが、薄い眼瞼の皮膚を透かして、ぼんやり

 と燈火のまたたくのが見え、眼球の周囲にぼうツと紅く霞んで、光子の盛んな香水

 の匂ひが雨のやうに顔へ降つた。」

 ここには、「少年」の中に散見される「陰影礼賛」的な志向とその底にある永遠な

 るものへの希求が、蝋によって盲目状態となった情景の中に描かれている。このよ

 うな永遠性の志向が「春琴抄」においては自ら視力を失うことによってもたらされ

 る瞬間性と明確に一体化し、思想的にもより深化したものになっていたことに気付 

 く。

ここにおいて、佐助は自らの意思で「とき」を止め、同時に新たな「とき」を創り出

すことによって、そのこころの中で春琴という女神の美(即ち肉体としての美)の

「瞬間性」と「永遠性」とを一体化させたのである。

この時の佐助のこころは、感情としての祈り(こころの中間的状態としての祈り)の

状態にあったということができ、そこにこそその深淵な美が生じる所以があった。

   ここにおいてゲーテ「ファウスト」の一節との共通性がはっきり見えてくる。

   「ファウスト そのとき、おれは瞬間に向かってこう言っていい、

    「とまれ、おまえはじつに美しいから」と

    おれの地上の生の痕跡は、

     永劫を経ても滅びはしない、―

     こういう大きい幸福を予感して

     おれはいま最高の瞬間を味わうのだ。」(手塚富雄訳)

   この言葉を発することによって、ファウストはメフィストフェレスとの契約に

   より死ぬことになる。しかし周知のとおり「ファウスト」ではその後、ファウ

   ストの霊が「永遠の女性」に導かれて天上界で永遠を生きることになる。この

   永遠性に春琴抄が一脈通じていると読める。

佐助においては、その一瞬に見た「仄白い来迎仏」(まさに「永遠の女性」そのもの)としての春琴の姿(即ち肉体)を「こころ」に刻み、その「こころ」の中でそれは永遠なるもの(即ち瞬間的永遠性としての永遠女性)としてあり続け、そのことによって佐助自身がその瞬間的永遠性を生き続けたのであった。つまり美の喪失によってもたらされた「状態としての死」が「生」に止揚され「永遠の生」を得たともいうことができる。

  また、このことはキルケゴール風に「生」と「死」の同時性という言い方もでき

  るだろう。この考え方を敷衍するならば、「死」の瞬間こそ「生」の絶対的かつ

  決定的な完成であるということになるのだが、これはまさに「死」が主体性の消

  失であることによって「死」の瞬間を主体的に認知することは原理的に不可能で

  あること(この意味で「死」とは主体性を消失することによる純客体(すなわち

  単に物理法則にのみ従う物質)への回帰といいうる)から、現実的には成立しな

  いということであり、主体的にはただ「死」の予感があるのみであるということ

  になる。(これはドストエフスキーの小説「悪霊」中で、登場人物の一人である

  キリーロフが死そのものに痛みや恐怖はなく、頭上にぶら下がっている大石にそ

  れらはあるという旨の主張をしていたことと同義である。)

それはまた瞬間的永遠性が主体的な認知である、ひいては主体そのものであることとも区別されるものなのである。

  キリーロフについては、カミュが「シーシュポスの神話」で触れていたスタギロ

  ーギンとの対話についてもこの瞬間性についての関連で注目される。

  (以下江川 卓の訳文でその部分を引用する。)

  「きみ、子供は好きですか?」

  「好きです」とキリーロフは答えた(中略)

  「じゃ、人生も好きですね?」

  「ええ、人生も好きですよ(中略)」

  「ピストル自殺を決意していても?」

  「いいでしょう?なぜいっしょにするんです。

  人生は人生、あれはあれですよ。生は存在するけれど、死なんてまるでありゃし

  ません」

  「きみは未来の永遠の生を信ずるようになったんですか?」

  「未来の永遠の生じゃなくて、この地上の永遠の生ですよ。そういう瞬間があ

  る。その瞬間まで行きつくと、突然時間が静止して、永遠になるのです。」

  「きみはそういう瞬間に行きつこうと思っていますか?」

  「ええ」

  「それはどうも現代にはむずかしそうだな(中略)『黙示録』の天使は、時はもは

  やなかるべしと言っていますがね」

  「知っています。あれは実に正しい言葉ですよ。明晰で正確だ。

  全人間が幸福に到達すれば、時はもはやなくなってしまいますよ、

  その必要がないんだから(中略)」

  「時をどこへ持っていくんです?」

  「どこへも持っていきやしません。時は物じゃなくて観念ですからね。頭の中か

  ら消えてしまうんですよ」(以下略)

  (ドストエフスキー「悪霊」第二部第一章「夜」5より)

  こうしてキリーロフはカミュが注目していた「すべてよし」という幸福論を展開

  し、その後「人神」となるべく自殺するのであった(このことによってキリーロ

  フはその名に通じているとも思われるキリストと同化することをもくろんだとも

  読めなくものい。)が、このキリーロフの言説は明らかに先の「ファウスト」の

  場面が踏まえられていよう(「悪霊」劈頭の第一部第一章において作中人物のス

  テパン氏が創作したとする詩劇をファウスト第二部と関連させていたのも示唆的

  である。)

  こうした「自殺」観の根底には、プラトンの師匠であったソクラテスの死があっ

  たとみることが可能である。有名なこの死はソクラテスがいわば煽動家として

  死刑の判決を受けたとき彼の弟子や友人たちが逃亡して生き延びるよう説得した 

  ことに対してそれを拒否しいわば自ら進んで独杯をあおったとされる。そこには

  自らの主義・思想から敢えて死を受け入れる、むしろ進んで死を選んだソクラテ

  スがいる。これをソクラテス的自殺というならば、ファウストやキリーロフもそ

  うしたソクラテス的自殺を主体的意志として選らんだということができる。

  そして、キリーロフやファウストがその死から永遠の幸福な生へと志向していた

  ように、ソクラテスもその「自殺」が契機となって弟子のプラトンによって「永

  遠の生」が与えられていた。

    こうした「ソクラテス的自殺」は後のキリスト教におけるキリストにも反映

    している。十字架に架けられたキリストが「お前が神の子なら十字架から逃

    れてみろ」と言われながら死んだ後復活したとする話が弟子たちによって伝

    えられ古典ギリシャ語による「バイブル(聖書)」となって永遠の生を得た

    ということはまさにソクラテスとプラトンの在り方のコピーであり、別の言

    い方をすれば古代ローマ期のヨーロッパにおいて古代ギリシャのソクラテ

    ス・プラトンの哲学がキリスト教に転生したのであった。(更に言えば、そ

    こにアリストテレスの哲学体系を加味して現世的な自己絶対化を成就したの

    が中世のキリスト教であり、そこでキリスト教の教義は完成しヨーロッパを

    名実ともに支配するに至ったというのが古代ヨーロッパの歴史である。それ

    に綻びが生じだしたのが近世であり、それが決定的となったのが近代だっ

    た。その結果としてニーチェ流の「神は死んだ。だからオレが神だ」という

    のがいわゆる近代的自我というものの本質となる。(こうした「近代的自

    我」意識には科学万能主義にとらわれつつ「神なるもの」を求めてやまない

    太古以来不変の人間の本性に由来し、そのこと故に近代科学そのものも自己

    絶対化され神となった)谷崎もまた文明開化の明治期にあって江戸情緒の香

    りがそこかしこに残っていた東京下町に生まれ育ったのち、こうした近代と

    対峙し大正期の苦闘を経て自らの文学の大成へと取り組んでいくことにな

    る。)

     ―ちなみにヨーロッパ中世そのものを「暗黒時代」とするのはこうした近

      代的自我による歴史観に囚われた偏見であることが近年ますます明らか

      となっている。―

    そうしてみればキリストの死とは「ソクラテス的自殺」そのものでありキリ

    スト教における唯一の自殺ともいえる。(ちなみキリスト教ではキリストが

    過去から未来に亘る全人類の罪を負って十字架上で死んだとされ、その復活

    が人類の救済をもたらすものと考えられているようだ。

  こうしたことは谷崎の小説にも通じるものがあるには興味深いものがあり、特に

  大正期の作品「金と銀」や「鮫人」(これらの作品については後の章において詳

  しく見ていく)においてはいわばキリーロフ的狂(これがスタギローギンとの交

  わりによってもたらされたとみなすなら、スタギローギンとはキリストに対する

  洗者ヨハネのパロディでもあったとみなされよう)の表象があったと読むことが

  可能なのである。

こうしたことに加えてこの「永遠の生」が「状態としての死」の色彩を強めていく時代への批判的反措定でもあったことに谷崎の独自性・独創性もあった。 

   このような谷崎の「永遠」への志向が、先に引用した座談会で明言されていた

   大正期におけるプラトンの熟読によってその頃に創作された「金と銀」や「ア

   ヴェ・マリア」などの作品においてより直截的に示され、その後の昭和期にな

   って「蓼喰ふ蟲」における「永遠女性」への目覚めや「春琴抄」に結実したと

   いうことになるのも明らかである。

そしてこのような永遠性こそが谷崎文学における〖近代文学における感情主義〗の表

象であり、本質であったとも考えられる。更にこうした谷崎文学における思想性と

は、形而上学的な哲理を直喩として表現するのではなく(えてして文学の思想性とい

うことをいうとき、この直喩的表現のみを指していることが多いのである)、その換

喩として表現されているということが解るであろう。メタ小説の視点からすれば思想

の換喩的表現としての文学が文学における思想性であり、それが近代文学における特

質の一つとして形成され、その結果としてそれの完成を成し遂げたものこそが谷崎文学であった。その意味から谷崎文学が「換喩の文学」を志向してきた近代文学の完成であったということもできるのである。このことはカミュのいう偉大さが谷崎の作品にも該当することを示していよう。

   つまり「春琴抄」における佐助も自らの意思で失明することで現実の世界を拒

   否することによって彼独自の「永遠の美の世界」を構築するところに「ソクラ 

   テス的自殺」と同質のものがあったと見てとることができるのである。

   これに加えて彼の母方の祖父は晩年キリスト教に帰依しており、彼が幼少のこ

   ろ祖父の使っていた薄暗い部屋の地袋の上に安置されてあった聖母マリア像を

   見て深い感銘を受けたこと(「少年時代」)が、刺青から瘋癲老人日記までの主

   要な作品の根底に響いていることからすれば、聖母マリアと「ソクラテス的自

   殺」いというキリスト教的な美と思想性が谷崎文学の原点にはあったという言

   い方も可能だろう。(もしそうであるなら谷崎が自身の女性崇拝の傾向がある

   のは「私の生まれつきの性質の中に、或いは祖父の血を傳へてゐるのではない

   かと思はれる」(「幼年時代」)とのべていることには祖父のフェミニズム傾向

   ということに止まらないものがあったということになる。それはマリア像に表

   象されている母なるものとそこに内在している女なるものとの接合に対する息

   子としての葛藤(それは谷崎の青年期において母と父の居間にあった茶箪笥の

   引き出しにコンドームがしまってあるのを見たときに「悲しいやうな、おかし

   いやうな、何とも云へない複雑な氣がした」(「親父の話」(昭和三十六年一月

   「東京新聞」))と述べているのは表面上はもう子供はいらないと両親が避妊し

   ていたのに子供が出来てしまったことを言っているのだが、(昭和40年

   代ですら粗悪なコンドームには小さな穴が開いていることがあり、使用する前

   に息を吹き入れて漏れがないかしたほうがいいと言われていたのだから、明治

   時代となればなおさらであったろう)この心情の底に父母に対する葛藤があっ

   たのではないかと感じられ、それは青少年としてのこころの奥にある一種のエ

   ディプスコンプレックスのようなものであったと言っていいのはないか)

   とそれを文学において大正期において一方で母恋いを描き、他方で悪女的な魔

   性の女への拝跪を描き、続く昭和期においてそれらをお師匠さん・御寮人さん

   への拝跪というかたちをとるマゾヒズムの中で昇華・統合するようにして「盲

   目物語」、「春琴抄」、「細雪」などが書かれ、やがて戦後において「少将滋幹の

   母」などに結実していくことになるのであった。

   このような昭和期が明瞭になったのが「卍」と同時期に書かれた昭和初期の

   「蓼喰ふ蟲」であった。

      最初に「卍」が書き始められ、途中から「蓼喰ふ蟲」の新聞連載が始ま

      り、その脱稿後に再び「卍」が書き始められたことから、作品としての

      完成はは「蓼喰ふ蟲」が先となる。

   そしてこれらの作品が谷崎において江戸文化と西洋文化が交錯する中で日本と

   は何かという問いを含みつつ行われたことが特徴であったことも注目に値す

   る。

     谷崎が「三つの歳、明治二十一年に五十八歳で亡くなった」というこの祖

     父の部屋が母屋とは別棟の二階家であったことと「少年」の終末において

     光子が陰影深い中で女王となる別棟の洋館とは谷崎の中の深いところで繋

     がっており、谷崎における文学創造の大きな源泉の一つであった。

     谷崎晩年の著作である「幼年時代」はそうしたことを我々に教えてくれる

     ものでもある。「少年」における「西洋館の裏手の塀の隅にある物置小

     屋」の「糖味噌だの醤油樽だのゝ咽せ返るやうな古臭い匂ひ」は祖父の二

     階家の前にあった土蔵の「中にどんなものが入れてあるのか分からなかつ

     たが、黴臭(かびくさ)い匂ひに交つて沈(じん)や麝香のやうな品

     のよい香りが仄かにたゞよつて来る」(「幼少時代」)〈匂ひ〉はプルースト

     の小説における紅茶に溶けたマドレーヌの味わいと同様に谷崎の少年期と

     いうときを漂う《匂ひ》であったろう。

     これを書いた晩年において谷崎はその匂ひには近代日本の中にある江戸的

     なもの(即ち日本的情緒)であることを明瞭に自覚しており、そのことは

     中年期に執筆された「陰翳礼讃」(昭和八年十二月号~昭和九年一月号

     「経済往来」)にも示されていたのであった。

さらにはこうした「換喩の文学」としての小説が公表当時の時代に対する「暗喩」で

もあったことに谷崎の小説が持つ特質の一つがあることもこれまで触れてきた。

これからこのような谷崎の小説のいくつかを読み込むことで、「換喩」と「暗喩」の

同時的な在り方、別の見方をすれば美と思想性の非融合的な接合によって小説に齎ら

される重層化を確認していくこととなるだろう。つまり美の換喩表現としての小説と

「メタ小説」としての暗喩表現が接合したものも含まれる換喩と暗喩の否弁証法的接

合という一種の「濫喩」的な形象を小説の中に捉えようということであり、そこ

に大正期の谷崎をとらえていたプラトンの思想の深化さらにはその呪縛を超越するもの(あらゆる藝術といわれるものの根源にあり源泉でもある「生の否定と肯定の中間状態へこころを浄翔させる状態としての祈り(即ち表象としての祈り)の感情(宣長の「もののあはれ」の実相といいうる)」(これから祈りの表象を形象化したものが藝術作品ということになる)、それは谷崎においては屹立した西洋的な白へのあこが

れから陰影を含んだ日本的な白の超越的な美への自覚と選好に向かったところに的確に示されている。

そのような白とは影と非融合的接合をした中間状態であり、優れて江戸的な即ち否近代的なものであり日本文化と感性に潜在する根源的なものに通じるものであった。)を読み取とることができるのである。

近代文学が子規の打ち立てた「写生」つまり生の美そのものをあるがままに写すことを宗とした「換喩の文学」であることを本質としていたのであった(大石「換喩の文学」)が、その中において例えば鏡花の小説が生のうちにある美を暗喩的な形象とすることを宗とする〖鬼っ子〗的な性格をもつものもあった中で、こうした谷崎の濫喩的形象化の達成があったということにおいて、谷崎を真の意味で近代文学の完成者

ということができるであろう。(ただし、文学における濫喩表現がものがたり性であることからすれば、その表現そのものは近代文学に限るものではないことは改めて指摘するまでもない。谷崎の独自性とは近代文学の中でそうしたものがたりを自覚的に行ったことにある。)

こうした観点から近代文学をざっくりと概観するならば、その指導理論は坪内逍遥「小説真髄」によってもたらされたものを嚆矢とするが、状態としての死を描くことによって日本の近代や社会(即ち「今」というとき)と向き合った文学としての実質は鴎外によって始まり谷崎が完成させ三島由紀夫によって終焉したということになる。

   このことは、〖近代文学とは小説の時代であった〗とされた時代においてはそ 

   の時点時点でいわゆる「小説の神様」と称される作家がいたのであったが(明

   治期においては鴎外・露伴・紅葉がそのような位置づけにあり、紅葉亡き後か

   ら大正期においては漱石がそうであり、昭和期においても戦後に大谷崎と言わ

   れるようになった谷崎もまた神様的な作家となった。しかし昭和四十年代に小

   説の神様と言われていた志賀直哉が亡くなった後、このように称される作家は  

   いなくなり、「小説の神様」ということば自体が死語となったことにも「小説

   の時代」が終焉したことを伺わせるものであった。

   その後の日本文学とは混沌という低迷期の現代文学として理解でき、それは

   日本文学史の中に何度かあった絶頂期の後にくる外見上は隆盛の体を示しなが

   ら実質的に停滞した時期(文学の衰退期であるとともに、人間の人間たる本性

   がことばと感情であるならば人間が存在する限り『文学』が消滅することもな

   い故にそれは未だ杳漠としてはいるが新たな文学(それはえてして一人の天才

   によってもたらされるが、そうしたことばの真の意味での天才が出現するため

   の土壌がなければそもそも出現しえないことから停滞的活動も必要なのであ

   り、その中では新たな表現や表現者、媒体、需要者などへの混沌とした探求が

   浮かんでは消える泡沫(うたかた)のごとく陰に陽に様々試みられている)胎

   動への時期ともいえる)の一つということもできると思われる。

   他方で、小説の衰退の潮流と同時に「マンガの神様」(これは死語とはなって

   いない)と称される手塚 治が登場し(彼がそれまでのポンチ絵的な漫画を文

   学的なマンガやアニメにまで進化させた)現在に至るまでのマンガ・アニメ隆

   盛の時代となっていったと観ることもできる。つまりかつての小説の位置を現

   在ではマンガやアニメが占めているということであり、それは小説の時代から

   マンガの時代になったというふうにもいえるのかも知れない。現代においては  

   総体として文化を引っ張る力(かつては日本語の近代化を促進し〖口語文を完

   成させたのは作家たちであり、文化的な先導者として人々の敬意を集めてい

   た〗ほどの力を小説は持っていた。だからこそ「小説の神様」が存在したので

   あった)はマンガやその映像化であるアニメの方が圧倒的であり、手塚の「火

   の鳥」「ブラックジャック」「鉄腕アトム」や、楳図かずお「わたしは真悟」

   (このマンガは子供の世界と愛(こころ)へオマージュ(一葉「たけくらべ」

   の世界のように状態としての死(即ち「少年」の死によって「大人」となるこ

   と(それは、夏休み明けの子供たちのように成長によって全ての少年が迎える

   『とき』であった)へ至る前の、少年の生そのもの(即ち『とき』としての少

   年)を生として生きている者(即ち少年)への哀惜を込めた感情のいい)を第

   一義のテーマとしつつ真の悟りとは何か、つまり真の吾(真吾)への覚醒とは

   何かという哲学的な問いを隠れたテーマとしてさとる(悟)とまりん(真鈴)

   という二人の少年が産業用ロボット「真悟」 (二人の名前が合体した二人の

   「子供」として覚醒した)とともに『真吾』を求めて「青い鳥」よろしく「異

   界」を遍歴し無への回帰としての死と真の吾(まことのわれ(これ自体が近代

   文学における重大テーマの一つであった)の覚醒(見いだされた真(青い 

   鳥)、それは地面の上に万感の思いを込めた「アイ」ということば(それはま

   りんのまことへのアイ(愛)を伝えることばであるとともに「真悟」の「両親

   (さとるとまりん)」へのアイ(愛)という感情を表明したものであり、「真  

   悟」自身が自らに問うてきたこと(自分とは何か)の答えでもあったろう(ア

   イにはこうした男女間の愛、子の親への愛のほかにも友愛やそれらの相手を思

   って行う愛の形象としての行為など全ての愛が含まれていたとともに、様々な

   奇跡を引き起こした愛のエネルギー(それは地球を取り巻く宇宙のエネルギー

   (即ち無のエネルギー)そのものの形象でもあった。

   こうした見方からすれば、さとるとまりんが電波塔であった東京タワーのアン

   テナから飛び出すことで二人の愛のエネルギーが合体して空中に発散し、その

   エネルギーが伝播して無のエネルギーが振動することによってビックバンのよ

   うに「真悟」が覚醒(誕生)した(つまりこの愛のエネルギーの合体こそが二

   人の「結婚」であった)というのも寓意的であり必然であったということがで 

   きる。そして現実において少年の「アイ」は少年が大人になることによって失

   われるが無のエネルギー中で少年のときとして(換言すれば瞬間的永遠性の形

   象として)永遠にあり続ける、マンガのラストにおける「真悟」の死はそのこ

   とをも暗示しているだろう)、そしてそれが「真悟」が最初に発したことば

   (文字としてはさとるに対するイに始まりイで終わった)でもあることで死に

   際しそこに回帰したことを示すものでもあり、そのことによって永遠性(永遠

   的な回帰性(マンガの最後もマシンの製造へと回帰している)を獲得するとと

   もにこのことばが「真悟」の生の原点でもあり生そのものでもあったことを示

   していたともいえる)を残した死として描かれることで行為としてことばを残

   すこと(それはまたそのことばに込められた感情を残すことである)のみが死

   後の生そのものであるというのが「真悟」(真の悟り)だと主張しているよう 

   に読み取れる表現でもあった)という禅的な境地(そこには状態としての祈り

   即ち祈りの感情が表現されている)にまで到達していた(このことからは「父

   母未生以前本来の名目如何(両親が産まれる以前のお前とはなんだ)」と禅僧

   に問われて「無だ」と答え「そんな答えではだめだ」と喝を食らったという漱

   石の体験が想起され、小学館版「わたしは真悟」①のタイトルが「無よりはじ

   まる」となっていたのも示唆的である(この無とは漱石の無のような虚無的な

   いわゆる空無であったというよりもビックバン宇宙論で言われていたプラスと

   マイナスのエネルギーが充満し均衡している量子論的な無(マンガの冒頭にあ

   る「真悟」のモノローグ(その死後に無の中に漂う無形の意識・感情のような

   もの)と奇妙な宇宙の絵がそのことを示唆し、またそのエネルギーが様々な奇

   跡を起こす源泉であり更にそれが愛という感情として表出され(奇跡もまたひ

   とのこころ(感情)を契機としてもたらされていた)それによって宇宙そのも

   のと一体となるもの、つまり無=永遠であることを示しているものでもあっ

   た)

   など枚挙にいとまない状況を呈していて、更に大友克洋の画期的ともいってい

   いマンガ「童夢」が第4回日本SF大賞を受賞するに至ってマンガの持つ文学

   性が評価の対象になり得ることが示されていた。

   それは既存の文学表現が主として文字のみによっていたことを超えた文学的表

   現を行うことがマンガにおいて可能となったことをも示すものであった。

   (この文学とは漱石がいう「LIFE is LITERATUER 」即ち「生きることその

   ものが文学である」という彼の見出した近代文学における基本原理に通じるも

   のである。つまり文字だけで書き連ねたもの(和歌や物語・小説など)を文学

   とするのは狭義の文学であり、より広義な文学の本質はそれに囚われないもの

   であり、その広義の文学には文字は必要条件ではないということである。これ

   は狭義では文字を持たない民族や古代には文学は存在しないが、広義において

   は存在する(口承という形式によるのが一般的)ということであり、こうした 

   広義の文学というものを近代化(つまり近代的認識のもとに文学を倫理化し、

   それこそが近代的自意識そのものと自覚し、それを生きることが文学であると

   いうこと)したのが先ほど引用した漱石の言葉であったということになる(つ

   まり漱石は「文学とは何か」という問題意識のもとに「文学とは何であった

   か」という研究に取り組んだ結果「文学とは何であるべきか」という認識に至 

   り、それを生きることで真の「文学者」となり、その具体的現れとして小説家

   となったということであり、それが彼がいうところの「down of creation」と

   いうことの本質であり、このいいからは「文学者」の具体化として「マンガ

   家」となることも十分可能であったということになる))

   (このような現代から観ると谷崎が特に昭和期において挿絵を重視し、谷崎も

   親しく読んでいた江戸読本(谷崎は秋成「雨月物語」の「蛇性の淫」を戯曲

   化していた)がそうであったように挿絵と小説とが一体となって対話するよう 

   な小説(「蓼喰ふ蟲(挿絵:小出樽重)」「少将滋幹の母(挿絵:小倉遊亀)」

   「猫と庄蔵と二人の女(挿絵:安井曽太郎)」鍵・瘋癲老人日記(挿絵:棟方志

   功)など当代一流の画家たちとコラボした作品において挿絵が単なる添え物で

   はなく芸術的価値を持つものであることを示したといえる)をものしたことに

   は絵と文が交互に繋がれた源氏物語絵巻などに通じる江戸読本の流れ(その源

   流には絵入源氏物語がある。この版本でも絵が単なる挿絵ではなく絵巻同様本

   文の内容を具体化し更に本文の行間・背後にあるものをも影像化することによ

   って絵と本文が一体となった源氏物語を構成している)を再興する意味合いも

   あり、そのことによって文が絵の一部のような草双紙(こちらは三十六歌仙絵

   巻の発展形とも目される)の「一種のルネッサンス」ともいえる漫画文化の興

   隆に一役買っていたようにも思えてくる。

   更に大正期の谷崎が映画にのめり込んでいたことも絵巻物との関連とともにマ

   ンガがもつ映画的なもの、それが小説が映画化されるようにアニメという映画

   になるということにも一脈通じているとみることもできよう。)

     マンガの源流として絵巻「鳥獣戯画」が指摘されるが、これに限らず平安

     朝の絵巻物には源氏物語絵巻など絵と文字が併用されたマンガ的なものや

     伴大納言絵巻など文字がない紙芝居的なものの二種類がある。

     さらに屏風絵に漢詩や和歌などを書きいれることから発展して後代におい

     ては人物の絵と和歌を一体として描く三十六歌仙絵巻のようなものが制作

     されていた。

     江戸時代になると草双紙といわれる絵と文字が一体となった江戸時代の漫

     画本といっていいものと「雨月物語」や「里見八犬伝」などの読本といわ

     れる文字が主体であるが挿絵も重要な意味を持っている(高田 衛「八犬

     伝の世界」)ものの二種類がありそれぞれに流行し、明治大正期にも読ま

     れ続けていた(谷崎も少年期に盛んに読んでいた(「幼少時代」))こうし

     た古典世界(その本質に「遊び」があった)の中に明治期以降になって西

     洋のコミックが流入することで日本の漫画文化が形成されていく。

     特に戦後になると紙芝居作家(紙芝居そのものが絵巻(絵を見せながら語

     るための巻物であった)の発展形)が進化して漫画家や劇画作家となり、

     多様な作品が生み出され、その中でアメリカのコミックやディズニーのア

     ニメに触発された手塚 治がストーリー漫画といわれる本格的な作品に取

     り組むことから今日のマンガ・アニメの隆盛が始まったのは周知のことで

     あろう。

     このような歴史を振り返るならば日本のマンガ・アニメが文学性を持った

     のには日本文化の歴史的な積み上げがあったからこそ可能であったという

     ことが明らかになってくる。そうであるならば、マンガを一種の文学的な

     ものとして読むことも日本の文化享受の伝統に沿ったものということがで

     きるのである。(一方で小説が衰退していった一因としてそれが絵と分離

     して、遊び(ホイジンガ「ホモルーデンス」)のない「真面目」一方(ホ

     イジンガが言うところの十九世紀的な真面目さ(奇しくも明治の日本が輸

     入し影響を受けたものでもあった)、そしてそうした「真面目さ」その

     ものが精神の「遊び」になってしまった)の「言語芸術」に墜してしまっ

     たことにあると言えるのかもしれない。

     そもそも遊びのない芸術(かつての自然主義文学やプロレタリア文学(こ

     れらの文学が十九世紀的真面目さ即ち遊びを失ったき真面目さを信奉しや

     がて取りつかれていったことは明らかであり、一方で鴎外においてはその

     き真面目さと江戸的な遊びが絶妙なバランスを保っており、それは鏡花や

     谷崎などの非自然主義文学に引き継がれていったのであるが、 そうした

     バランスが根本的に破壊され真面目さに取りつかれていってしまったのが

     三島であった。このことからも自然主義文学やプロレタリア文学が衰退

     し、三島で近代文学が終焉したとするのも故なしとしない)が本質におい

     てそれを志向していた)などというのは燃えカスのようなもの(神話から

     遊びを取ってしまったものがよい例である)でしかないだろう)

   こうした潮流が世界的になっていくならば、あるいは将来日本のマンガがノー

   ベル文学賞を受賞することもあるかもしれないだろう。(シンガーソングライ

   ターのボブデュランが受賞したことを思えばあながち夢物語とも思えない。)

   このようなマンガ・アニメ全盛の時代において大谷崎の小説を振り返ることは

   小説全盛の時代という「失われたときを求めて」旅をすることでもあり、その

   ことによって「真実のとき」を見出していくことなのである。


     ※本節の番号を「0」としているのは、「0」という数字が、数として扱

      われる(その意味において「0」は数である)とともに、数学自体が成

      立する一種の「場」(仮に「数学場」と名付ける)そのものをも意味し

      ているということを念頭において、本節がこのエッセイ全体の全体の前

      提であるという考えから附番したものである。念のために注記してお

      く。


         【付記】

日露戦争は、明治三十七年二月十日の宣戦布告から始まり翌年の明治三十八年

九月五日の日露講和条約調印によって終結した戦争ということになっている。

(歴史学研究会編日本史年表第五版)

その明治三十八年一月に漱石が雑誌「ホトトギス」に「吾輩は猫である」を発

表し実質的な文壇ビューをしている。つまり日露戦争勝利の時期が漱石という

作家が誕生した時であり、それは新しい日本文学が誕生した時として近代文学

史において画期をなす時であり、その渦中にいて新しい近代文学を先導し創造

していったのが他ならぬ漱石なのであった。(坪内祐三「近代日本文学の誕

生」)その後の十年間で漱石は多くの名作とされる作品を生みだしたことから

いえば漱石という作家は「明治近代文学の完成者」であったといっていい作家

であり、その跡に新時代の文学を形成していった一人が谷崎であったのであ

る。因みに漱石が「猫」を発表した年の前年(明治三十七年)五月に谷崎が見

物したという市民大祝勝会の提灯行列が実施されている。(この時谷崎は府立

第一中学生(十七歳)であった)

日露戦争の勝利が確実となった明治三十八年八月に雑誌「新小説」が「戦後文

学の趨勢」と題する漱石の談話を掲載した。その劈頭で漱石は「兎に角日本は

今日に於いては連戦連捷―平和克復後に於いても千古空前の大戦勝国の名誉を

荷ひ得る事は争ふべからずだ、ここに於いてか啻に力の上の戦争に勝つたとい

ふばかりでなく、日本国民の精神上にも大なる影響が生じうるであらう。」と

ぶちあげている。明治維新から四十年弱でよくぞ西欧側の大国ロシアに勝っ

た、今こそ世界に冠たる大日本の力が示された、これからは西洋文化を凌駕す

る新時代の日本文化を建設すべきときだ、というのである。そして文学におい

ておれが率先してそれを成し遂げるのだという意気が感じられる談話である。

(谷崎がこの談話を読んだかは不明だが、漱石の作品は当然読んでいただろう

ことから、この談話も読んでいた可能性は高いと思う)

それから三年経って、もはや日露戦の大勝利に酔う熱狂は過ぎ去り、講和条約

の内容に対する反対する暴動がおこり、その後、世は不景気となり「あの戦争

は何だったのか」という疑問が庶民の間にも沸々と湧き上がっていた時期に物

されたのが「三四郎」であった。その冒頭で「これから日本は亡びるね」と断

言した広田先生に共感を持って読んだ読者が多くいたであろうことが推察され

る。

昭和期と対比すると明治維新からの明治時代とは西南戦争という内乱を経て日

清戦争に勝利し更には大国ロシアに戦争を仕掛けて勝利したものの様々な矛盾

が表面化していった時代であった。それにあたかも「韻を踏む」かのように、

昭和に入ってからは二・二六事件という内乱を経て経済対策としての東南アジ

アへの侵略のための日中戦争からアメリカに戦争を仕掛け当初の勝利もつかの

間、無残な敗戦を迎えることとなった。こうした近代史に「歴史は韻を踏む」

(磯田道史)の真実性を実感しないわけにはいかない。

そうした韻は戦争後においても大正期はじめには第一次大戦によって多くの成

金を生んだ好景気と、敗戦後の朝鮮戦争を契機とした高度経済成長ということ

にも現れている。好景気に沸いた大正期も関東大震災によって終りを迎え昭和

期となったように、高度経済成長も二度のオイルショックを乗り越えた末にバ

ブル景気とその崩壊によって実質的には終焉したが、その後に阪神大震災が発

生し「もはや高度経済成長期ではない」ことが骨身に染み「高度経済成長など

夢のまた夢」であることを自覚せざるを得ない平成期となったことにも同じく

韻を踏んでいたといえるだろう。一方で関東大震災後の昭和期は欧米を敵とし

て戦争の時代となったが、阪神淡路大震災後の平成期令和期は東日本大震災や

熊本、能登といった震災が頻発するとともに地球温暖化による気候変動といっ

た自然環境の大変動が対処しなければならない相手となった。(つまり時代は

もはや経済浮揚のための侵略戦争などによっては何も解決できない(むしろ改

悪でしかない)時代となったのである。)

















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濫喩の文学としての谷崎文学 @yoshistar

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